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握手で仲直りできたら戦争は起きない。

誰もが一度は、「学校ってこうだったよね」「もっと日本の教育はこうなった方がいいよ」という話をしたことがあると思います。日本に住む私たちはだいたい同じような輪切りの教育を受けてきていますから、一億総教育評論家になれるのだと思います。

私は仕事柄、一層「学校とはなにか」について話す機会が多いです。
その中で、これまでよく言われてきたのが「学校は理不尽さを学ぶ場である」ということ。先輩に絶対服従の部活動、みんなが同じ内容・同じ時間学ぶ授業など…、「なんで?」を飲み込んで理不尽に耐えることが必要不可欠だと考えられてきました。
(学校や先生を批難したいのではなく、社会がそうしたことを求めていたという側面があったのです。)

どうしてこんなことを突然言い出したかというと、この凄惨なニュースを目にしたから。

<担任教諭は同級生の保護者に連絡せず、子ども同士の握手で仲直りをさせたが、収束しなかった。>

”ふつう”に考えてみてください。
ひとは、握手で仲直りができるのでしょうか?
大人であれば、絶対にできないですよね。表面上関係性を維持させることができても、腹の底は煮えくり返っている。いつか倍にして返してやる!、なんて思っていてもおかしくありません。必要なのは、時間をかけて解決するという覚悟ですし、互いを理解する徹底した対話です。もしも、それでも解決の糸口が見えなければ、物理的な距離をおくというのも一つの方法です。
率直に言って、握手で仲直りができれば戦争は起きません。

大人ができない無理ゲーを子どもには何の疑問もなく強いてしまう。そんなことがずっと続いてきたのです。

私自身の思い出も少しお話します。
小学3年生の頃、「クラスのお友達と遊びましょう」という宿題が出されました。大人になった今ならば、「クラスがえ後で、学級づくりのためにクラスの友達と放課後も遊ばせたい」というのが担任の意図だったんだろうと予測できます。

しかし、意図があったとしても、それを子どもたちが実現できる状況だったかどうかは別問題です。
私は、当時学童に通っていました。
私が通っていた学童は小学校1年生から3年生までが通う場。1年生の時に通う子は多いのですが、3年生になったら習い事も色々始まるし、子どもも留守番できるようになるしで、学童に通う子は少なくなっていきます。私の時も例外ではなく、同じクラスで学童に通っているのは、まったく趣味の合わない男の子ひとりだけでした。

しかし、担任教師は「クラスのお友達と遊びましょう」という宿題を出し続けました。しかも、それができない子は教室の前に立たされて「私は宿題を忘れました。次は気をつけます」と言わなけれななりませんでした。ここまで「さらし者」にする教育は、さすがに最近では少なくなっているのかもしれませんが。

「”学校は理不尽なことを学ぶ場である”と、まことしやかに言われてましたよね」と、同じく教育に関わり続けてきた人生の先輩と話をし、「そうそう」と頷き合いました。

これまでは、「社会が理不尽だから、学校はその理不尽さに耐えるための力をつける場だ」というのが、その理屈としてありました。

しかし、ビールを傾けながら先輩と語った学校のあり方は、こんな話にたどり着きました。
「でもさ、これからは理不尽なことに対して、『理不尽だ!』といえる人が求められているんだよね。理不尽さを飲み込むことは、もう求められていない」

握手で仲直りはできないし、放課後までクラスの子と遊ぶ宿題はおかしいし…
きっと他にもたくさん理不尽なことがあって、子どもたちはそれにモヤッとしていると思います。私は、そのモヤッとしていることに敏感でありたいし、もし子どもが語りかけてきたら「我慢しなさい」と返すのではなく、きちんと耳を傾けられるようになっていきたいなと思っています。

いつもありがとうございます!スキもコメントもとても励みになります。応援してくださったみなさんに、私の体験や思考から生まれた文章で恩返しをさせてください。