「帰らない日曜日」(エヴァ・ユッソン、2021)における木の揺れについて

「帰らない日曜日」は、恋愛映画というよりも恋愛が物書き(職業)の材料に収斂されていくという意味である種現代的な映画、フェミニズム的な映画と言えるかもしれない。
この映画は、恋愛が「目的」に終わらず、「手段」へ転じていく様を断片的に、かつ反復的に見せた映画である。

冒頭の馬の話は、ポール・シェリンガムの子供の頃の話である。その話の時にスクリーンに映る光景は、ポールの"回想"に他ならない。つまり事実である。馬の頭と胴体を母が、足4本のうち3本をそれぞれ3人の子供が分け取った、残りの足1本がどうなったのかはわからない、という話だ。
ラストシーン、主人公であるジェーン・フェアチャイルドがその話を受け継ぎ、こう独白する;「4本目は私が貰った。」
この独白は事実ではなく、虚偽である。なぜなら、子供の頃においてポールとジェーンは知り合ってはいないからであるし、立場も身分も違う両者が馬の足を頒かつ経験などしたはずがないからである。従って、ラストシーンにおけるスクリーンの光景は、回想ではなくジェーンの頭の中の"空想"を表現していると言える。
後々物書きになることとなるジェーンは、ポールという自分とは異なる他人の昔話を受け継ぎ、付け足し、脚色する道を選んだわけである。

なぜその道を選んだのか。
原題でもある「Mothering Sunday(=母の日)」に、決定的な経験をしたからである。
それは、何の変哲もない、ある晴れた母の日に起きた出来事である。だからこそ、ジェーンにとって何の変哲もない普通の光景はなおさら特別なものとして、終生彼女の記憶に焼き付くことになるだろう。そしてその光景とは、自転車、風になびくコート、道路、そして葉々の揺れる一本の大木だろう。
風に吹かれて葉を揺らすその大木に至っては、ジェーンがシェリンガム家を出て自転車で帰路につくシーンで、木の葉のザワザワという音のみが劇場に響くほど、強烈に「木の(葉の)揺れ」を見せつけていた。

なぜ揺れるのか?そしてその揺れをなぜ映画監督は画面内に収めざるをえないのか?
大前提的に、第一の理由として、「動いているから」には違いないのだが、ここでは動いていることの効果も含めて類推してみたい。効果というよりも、それによって観客はどんな印象を抱くのかを想定してみたい。ちなみに「大前提的に」というのは、動いているものをスクリーンに焼き付けたくなる、という性向に忠誠を尽くさない映画や映画作家などいるわけがない、という意味である。
なぜ揺れているのか?これは、例えば思うに、「何の変哲もない」からである。主人公の成したこと、されたこと、影響を受けたこと、経験したことを「何の変哲もなさ」の中に放り込まねばならないからである。
仮に木が揺れていないとしよう。風もなく、木も揺れない中を自転車に乗った主人公が駆けていく。まあ無いとは言えないが、個人的にはこれは「シュール」の部類に入ると思う。シュールなことが起きた、あるいは起きようとしている、ということを映画自体が表明しようとしているように感じる。
つまり、木が揺れている事or揺れていない事は、映画自体がどういう立場を表明したいのかの発露と言えると思う。木が揺れている時、その映画は「映画としては、彼女の行いや彼女自身の行く末を不安視することもなければ殊更に持ち上げることもしない、あくまで見守ります」と言っているに等しいのである。劇中でのシーケンスを、悠久の流れの中の一幕、「何の変哲もなさ」の中のある日の出来事としてこの映画は処理している。その倫理的姿勢を、大なり小なり観客は感じ取る。観客は、だからこそ「ある何の変哲もない日」に起きた「決定的な出来事」を感じることができ、主人公と共に、特別に映るものとして自転車や木やコートを記憶に焼き付けるのである。映画はそれを伝えるまさに「メディア」としてしか機能しようとしていない。個人的に、そこにこの映画の「倫理性」を感じる。

「ジョーズ」(スティーヴン・スピルバーグ、1975)の冒頭、女性がサメに襲われ、けたたましくもがいて姿を消した後、静まり返った海にてブイがカン、カンと小さく音を立てながら海面を揺れているショットがある。この揺れと「帰らない日曜日」の木の揺れは、倫理的に何ら等しい。どちらも、非日常的な出来事が起きた後に、尚もそれを包み込むように「何の変哲もない」日常を醸しているのであるから。「何の変哲もない」日常の地平からその非日常を思い返すからこそ、その出来事は「非日常」足りえるのである。

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