「VIDEOPHOBIA」(宮崎大祐、2020)

主人公は、リベンジポルノを皮切りに街中の監視カメラやスマホのカメラに恐怖するようになる。しかしそれは一体、何に恐怖しているのか。
仮にそれが、「自分の正体が晒されるから」という答えであった場合における「自分の正体」とは何か。

主人公は「自分の正体」を気にしているだろうか。おそらく気にしていないだろう。むしろ、「自分の正体」などわかっていないだろう。

演劇のワークショップのシーンで、講師は「それは本当の自分じゃない」「自分の対極を出してみろ」といったことを言う。それはまるで「自分」という確固たるものが存在し、またそれをみな理解していることが前提であるかのような物言いである。
しかし実際のところ、「自分」が何なのかなど決まってはいないのである。
演劇ワークショップのシーン終盤、受講生がキレて講師に掴みかかる。シーケンスが途中で強引にカッティングされるため、これが演技なのか、彼の本性なのか、推し測ることができない。この強引なカッティングこそ、「自分が何なのかなど決まってはいない」ことを明白に主張している。

カメラや他人の視線は、「自分」を理解できないそんな人間を、しかしダイレクトに見てしまうのである。
主人公は、それらに見られることに恐怖するあまり、顔面整形をする。
なぜ顔面整形なのか。カメラや他人の視線は、物事の表層しか見ることができないからである。すなわち、見られないようにするためである。表層を取り替えた主人公は、それらから逃れて新たな生活を始めるが、鏡を通して他ならぬ自分自身の視線に見られることにより、再び恐怖する。それは一体、何に恐怖しているのか。

思うにこの主人公は、「見られると◯◯だから恐怖する」のではなく、「見られること」そのものに恐怖している。「見ること」には、それだけで暴力性が伴うのである。

劇中、様々な人々が画面上に映る。街中を歩く人々や、祭りに興じる人々。明らかに、そして意図的に、エキストラではない実際の市井の人々を否応なく画面(=カメラ)に収めている。「見ること/見られること」の恐怖をしきりに訴えながら、この映画は並行して、この映画そのものをして暴力装置として機能している。
そんなこの映画を見る我々は、映画(=表層)を見てこの映画の正体を理解できるだろうか。できると言い切るのは難しいだろう。
それはこの映画に限らず、どの映画でも同じことが言えるが。

今作終盤は、整形後と思われる主人公のシーケンスになっているが、わざとだろうというくらい役者の顔が似ていない。
「もしかしたらこれは主人公でもなんでもないただの他人のシーンかもしれない…」観客はそう思いうるかもしれない。しかし、そう思って映画を見る観客はいないだろう。なぜならば、このシーケンスは整形シーンの後に続いている、すなわち王道的モンタージュにより構成されているからである。
二人の異なる役者を同一人物として勝手に結びつけるのは観客自身であるが、そんなでっち上げを何食わぬ顔でしでかしているのは映画そのものである。(ちなみに、二人の異なる役者が同一人物であると推測できうる根拠は二人とも、電車の窓から、そしてタバコを吸いながら外の景色を見ている、という要素のみである)

見た/見られたからといってその対象の正体が理解できるわけではない。だから、主人公は「自分の正体」が明らかになるかどうかに恐怖しているわけではない。
最後の鏡のショットが象徴的であるように、主人公は「見た/見られたこと」そのものに恐怖している。
そしてメタ的に、この映画を「見たこと」に観客は恐怖するだろう。

ここまで書いておきながら、自分はこの映画に特に恐怖しなかったが。
サヘル・ローズの演技・表情が素晴らしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?