「集中力」について

ネトフリ、アマプラ、Youtube、テレビ、と色んなメディアの選択肢がある中で、なかなかネトフリに食指が動かない。洗練された何がしかのコンテンツを、アタマからケツまで、一切目をそらさずに見きれる自信がないのだ。

世の中には、アタマからケツまで一切目をそらすべきでない映像コンテンツと、別に目をそらしてもかまわない映像コンテンツがある、と思う。前者は映像そのもので勝負しているコンテンツで、後者は映像以外の要素でも勝負しているコンテンツであると思う。前者の極地は映画や実験映像であり、後者の極地は静止画流しっぱのラジオ番組だろう。

テレビを見ている時に、誰もが確実にやっているであろうことがある。CMが始まると、スマホを見るのだ。もはや今や、「CM=スマホを見るための時間」である。もちろん、番組本編中であってもスマホを見ることはあるが、CMが始まると、もう待ってましたとばかりに確実に100%スマホを見る。

ネトフリにはCMがない。アマプラにもCMはないし、各番組によって当然差はあるが、なんとなく、ネトフリを見るにはより一層の集中力が求められる気がするのだ。そして、その集中力を発揮できる気がしないのだ。
なぜ発揮できないか。ネトフリよりも近い距離、すなわち手元に、スマホがあるからである。むこうでどんな面白いことが起きていようと、それと自分との間には常にスマホが存在する。このことは、物理的な距離の差が引き起こす事象として常に現前している。
何をしようにも、しようとする対象物よりも近い距離にスマホがあるのだ。そんな中でその対象物にコミットし続ける集中力、これが現代では求められることになる。
そして自分は現段階で、そのレベルの集中力を発揮・維持できる術を知らないし、あなた方もおそらく同様であろう。

ネトフリ。60分以内尺のドラマ物ならまだしも、映画となるといよいよ絶望的である。途中で集中力が削がれる未来がわかっているので、もう見たことのある映画からしか探さなくなってしまうのだ。そうして過去に見たことのある映画を選択し、再生ボタンを押し、次の瞬間何をしているか。スマホを見ている。オープニングの配給会社のロゴがもはや脳内で”CM”化しているのであるから。

金ローなど、テレビで映画を見るときに、ふと「助かるなぁ」と思うことがある。途中で挟まれるCMによって、テレビから目を離し、スマホを見ることができるからだ。これは、テレビで映画を流すことの最大のメリットになりうる。今まで(視聴者にとって)邪魔でしかなかったものが、一気に利点へと転じる逆転劇である。
これからは、「スマホタイム」をあえて設けたコンテンツが確信犯的に氾濫するに違いない。なぜなら、需要が明らかにあるからだ。
今は「そんなつもりではなかった」CMがその役を務めさせられているが、今後は「そのつもりの」スマホタイムが仕込まれたコンテンツが出現するだろう。

ここまで書いておいて、一番言いたいのは映画館の存在意義についてである。
映画館は、館内のスマホの使用を禁じている。使いたければ、館外に出なければならない。そうやって無理やり縛りをつくって、”不自由”な状況下に身を置き、目の前に現れるスクリーンに全神経を集中させる、いや、集中させるしかなくなる(動いているものがスクリーン上の映像しか存在しないのであるから)。
映画館は、巡り巡って自らの存在意義を変えつつあるだろう。
当初は、そこにいるはずのないモノや人やコトがスクリーンに映し出されることの驚き自体を楽しむサーカスだった。しかし、そんなことで驚く人などとうにいなくなり、家で映画もアホかというくらい当たり前に見ることができるようになった。

「じゃあ映画館、なくてもよくね?」

このタブー的見解を誰しもが暗に共有していたのが、大体2019年くらいまでだろう。その頃まで、現代における映画館の価値・存在理由が宙に浮いたままであったのだ。

人々から「集中力」が奪われつつある今、映画を見るための集中力が約束された場=集中力担保施設として、映画館は再評価されるだろう。
そしてまた、そうした集中力担保施設の需要は高まっていくだろう。すなわち、「集中力」そのものが焦点になり、注目され、語られるだろう。

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