「クルエラ」(クレイグ・ギレスピー、2021)

面白かった。
今の若い人たちがこの映画を見た時、言いたいことを言う的な、やりたいことをやる的な、自己実現が容易化してきた分あとは自分がやるかやらないかに掛かってきた、というある種の”現代的課題”をクルエラが体現してのけているのを目撃して、普通にカッコいいと思えるだろうなと思った。

単純に殴るとか殺すとか、”実際に手が出る”やり方ではなく、ファッションやデザインで争うというそのプロットが良い。ディズニー的と言えばそうなのかもしれないが。

ファッション、デザインで立ち向かうプロセスの一つ一つの工程がマクガフィンで出来ている。
野外ゲリラファッションショーのシーンになだれ込む一連の流れなどはめちゃめちゃ面白いかつカッコいいのだが、マクガフィンはケツから辿っていくとわかりやすいので、ケツから書いてみる。

◆野外ゲリラファッションショー(ゴール)
       ↑
●人々(バロネスのファッションショーに来ていた客たち)が野外に集まる
       ↑
●バロネスのファッションショーの客たちが外に逃げる
       ↑
●バロネスのファッションショーで蛾が飛び回る
       ↑
●蛾が保管庫の中に格納されていた服をすべて食い破る(食べたことで成長?)
       ↑
●クルエラ(エステラ)の仕立てた服の飾りが実は蛾の卵で、大量に孵化する
       ↑
●エステラの仕立てた服が、他の服と一緒に保管庫に格納される
       ↑
●エステラの仕立てた金の飾りが大量についた服がバロネスに最も評価される
       ↑
●エステラが夜通し裁縫作業をする
       ↑
●エステラの元に大量の金の飾りが配達される
       ↑
●バロネスがデザイナーたちを招集し、ショーのためにいいものを作れと発破をかける

上記の流れにおいて「●」はいずれも、ゴールである「◆」に向けて仕組まれたマクガフィンである。監督は、そもそも野外ゲリラファッションショーをやりたくて、そのためにはどういう過程を経てそこに至ればいいかなと考え、上記のような「●」を結末から、つまり”逆から”思いついていったわけだ。もちろん、もっと探せば細かい「●」は無数に散りばめられているだろう(「◆」も無数にあるだろう)。そのような積み重ねにより、「バロネスのショーをめちゃめちゃにし、客をぶん取り、クルエラの方に振り向かせる」という寓意的描写を成し遂げている。出発点とゴールの関わってなさを考慮すると、なんと豊かな筋書きか、と唸らされる。
本作は、このように”逆から”練られたプロットが多数ある。そして、大抵それらは上記野外ゲリラの例のごとく、ファッションやデザインにまつわる何かしらのオチに結実する。そこが良い。

ハリウッド映画は、数年前から「悪人が必ずしも悪くないことも、善人が罪を犯すこともあり得る」風潮を作ってきていると感じるが、それでもなお殴り、撃ち、殺し合う描写はつきものだった(それが悪いとは言わないが)。本作は勧善懲悪否定の風潮の踏襲に加えて、殴り、撃ち、殺し合うのを「デザインによる勝負」に置き換えた。その別ベクトル感が良いのである。敵意を、「殺す」などの直接的反応へと受け流すのではなく、「デザイン」に転化する面白さ。
「殺す」などの直接的反応を採る映画を否定はしないし、それぞれの面白さを尊重すべきである。本作が採った路線を、独自の面白さとして注目すべきである。それがディズニー的文法である、ということなのかもしれないが、どうでもいい。
その観点から見ると、バロネスの行動が象徴的である。なにしろ放火し、スタンガンを当て、椅子をぶん投げ、崖から突き落としているのであるから。行動が直接的反応なのである。「手が出てしまう」という感じだ。クルエラが、ファッションという自己実現手段そのものを武器として対抗する(これが現代人には刺さるだろう)のと、対照的である。

ペンダント(=起源)そのものの秘密が明かされるのがちょっと早い。起源に言及するとそれ以上話が展開しないので、「ここでか…」と思ってしまった。

バルコニーの縁に座って黄昏れる、亡霊のようなクルエラのショットが1秒ほどあるが、あのショットが最も美しく、またこの映画らしかった。
ちなみにこのショットを含むシーンは、外にいるホーレスが車の名前を「De Vil」であるとクルエラに伝えるオチへ繋がる。監督の脳内では、外にいるホーレスの姿があり、車の名前を伝えねばならないからクルエラはバルコニーにいることにし、クルエラは座って黄昏れている。
単に座っていたわけではないことが後々にわかる。この後々わかる感が、豊かな筋書きなるものの魔力である。

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