「アパチュア」?

(旧サイトの「オンラインレッスン」のコラム記事のアーカイブです。2018-03-16の記事です。)

トランペットや金管楽器奏者の間では「アパチュア(aperture)」という言葉が知られています。apertureという英単語は「開き」というような意味ですが、金管楽器の吹き方の文脈でこの言葉は、音を出している時の「唇の開き」「唇の中心の空気の通り道(の穴)」の意味となります。

そして、話題となるのは、「アパチュアの開き具合」、「アパチュアの形」、「音域や音量によるそれらの変化」、「アパチュアのコントロール」、などについてです。
「アパチュアが大きすぎる(小さすぎる)から◯◯ができないのだ。」「アパチュアの形が△△だから◻︎◻︎だ。」「音が××なのはアパチュアが◯◯なせいかもしれないから、アパチュアを△△してみよう。」「アパチュアはできるだけ小さい方がいい」「アパチュアはできるだけ大きい方がいい」など…。

しかし、トランペットの場合、アパチュアを調整することによって本当に問題は解決するのでしょうか?また、アパチュアそれ自体の在り方を先に決めることは有効なのでしょうか?

ここでは、「アパチュア」に関する私の見解を書いてみたいと思います。アパチュアのことを色々やってみても結局うまくいかない、結局調子を崩す、操作が細かすぎたり毎回感覚が違いすぎて頼りない、というような方に何らかの「考え方の材料」を提供できれば幸いに思います。

先に私の結論から述べれば、それは、アパチュアについて意識を置く必要はない、です。コントロールはおろか、意識を置く必要がそもそもない、です。

なぜ「アパチュア」が取り上げられるのか

まず、なぜアパチュアが話題になるのか、という点から整理してみたいと思います。

ほとんどの場合、アパチュアが取り上げられるのは、技術的に何らかの問題が生じている時でしょう。例えば、高音が出ない、低音が出ない、音質が悪い、音が汚い、大きな音が出ない、小さな音がでなど。このような問題がある時に、その原因がアパチュアにあるのではないかと考え、アパチュアの改良によって問題解決を期待する、という事から、アパチュアが取り上げられるようになります。

つまり、アパチュアが問題の原因であり、それを操作する事により問題解決が図れる(はずだ)、という考え方です。(これは考え方の道すじとして本当に正しいでしょうか?)

アパチュアはどのように形成されるか

次に、アパチュアは何を要因として形成されるのかを考えてみます。私の見解では、それには2つの要因があります。一つは、唇そのもの(の操作)。もう一つは、息の流れです。

1) 唇そのものの操作。唇そのものを動かすことによって、アパチュアを作ることができます。やや正確に言えば、唇とその周りの筋肉をすぼめたり引っ張ったり、唇のある部分に力を入れたり、などして、アパチュアを形作ることができます。ここでは、唇自体がアパチュア形成の要因であり、息の影響は介入しません。息の影響なしに、唇そのものでアパチュアのあり方を捉えています。

2) 息の流れによるもの。唇自体を操作することはしなくても、柔軟で自然に閉じた唇に息が通過することによって、アパチュアは形成されます。ここでは唇自体の操作は基本的に無く、唇とアパチュアの状態は、息の流れの主導によって結果的に形成されるものという捉え方です。

アパチュア自体をコントロールすることは可能か

それでは、トランペットの演奏において、アパチュアをコントロールすることは可能なのかを考えてみます。

まず、「アパチュアのコントロール」という言葉を誰かが使う時、それが意味している事は2通り考えられる、ということを整理しておきましょう。

前述のことに関連して、1つは、唇の操作、アパチュアの形自体を唇で操作する、という意味。

もう1つは、唇自体の操作ではなく、唇を息が通過する事によってできるアパチュアの状態のコントロール、唇と息との関係を前提として、息の影響によって結果的にアパチュアがコントロールされている、という意味。

このことを踏まえ、「アパチュアのコントロール」は可能か、という事について言えば、どちらの意味合いにおいても、それは可能だと言えるでしょう。唇自体の操作によって演奏中にアパチュアをコントロールして音を変化させることも、一方で、息の影響によってアパチュアが結果的にコントロールされているようにして演奏することも、どちらも可能だと私は思います。単に可能かどうか、という点においては。

ただ、ある一定以上の高いレベルの演奏を達成したい奏者にとっては、前者の方法では弊害を感じざるを得ない・越えられない壁を自ら作ることになるだろうと私は思います。

アパチュア自体をコントロールすることによる弊害

アパチュア自体を操作する事によって音の高さ等を変化させること自体は可能だと思われますが、果たしてそれが最良の結果をもたらすかどうかは、私は疑問です。
私の見解では、アパチュア自体をコントロールすることによって生まれる弊害と考えられる事は以下のようにいくつもあります。

・音を生む原因と結果の逆転
アパチュア自体を操作することは、音を発生させる事における原因と結果の逆転を、意識的に作り出しています。実際に起こすべき事と、頭の中で意識している事とで、物事の順序が逆転しています。それを意識的に生じさせているのです。
音が発生するのは、唇が自ら振動するからではなく、唇が息の流れによって振動させられるから、です。息が主であり、唇が従です。この順序を、アパチュア自体のコントロールによると逆にしようとしてしまうのです。
もちろん、前述の通り、アパチュア自体を変化させることによって音を変化させることは可能です。しかし、音の発生における根本的な主と従の関係を意識的に逆転させてしまっていることは、吹き方全体に影響を及ぼすことになり、他の実際的な弊害を生むことになると私は思います。

・唇の疲弊
唇自体をぐにゃぐにゃ動かすため、唇の疲労が早まってしまうと思われます。
アパチュア自体を操作する事は、唇すなわち振動体自体を伸び縮みさせることで音の高さその他に変化をつけているわけですが、これがトランペットの場合、金属でできた固定されたマウスピースのリムの中で行われています。唇全体が動く分には良いでしょうが、リムによって周囲を固定された内側のみが伸び縮みを繰り返すことは、ある部分はせき止められて窮屈に押しつぶされていることを意味します。加えて、唇のある部分を意図的につぼめて収縮させるなどしていますから、唇自体は基本的に操作していない場合と比べて明らかに唇の疲労が早まるだろうと思います。
木管楽器のリードをいつもぐにゃぐにゃ噛んだり曲げたりしながら演奏していれば、リードの消耗は早い、というようなイメージです。

・操作が細かすぎる
実際のところ、アパチュアの操作というのは非常にわずかな操作になります。その操作の実際の動きと、唇の感覚の細かさのレベルとを比較すれば、おそらく、唇の感覚の細かさでは追い付かないほどのわずかな唇の操作となるでしょう。
そしてそのわずかな操作を、様々な場合においてコントロールしようとすることに陥っていきます。高音の時はこう、低音の時はこう、柔らかい音の時はこう、強い音の時はこう、上行の時はこう、下降の時はこう、この音からこの音へ跳躍する時はこう、……………。
次第に、現実的にこんな細かな操作の積み立てが可能かどうか疑問になってくると同時に、音楽演奏に集中することは困難になっていくでしょう。

・迷路に入り込む
以上のような事から、アパチュアの操作によって音を変化させようとすることをしていくと、ほとんどの場合は迷路に入り込むことになると私は思います。「さっきは唇のここをこれくらいこうしていたら高い音が出たのに、今度は出ない…。もうちょっとこっちをこうしていたのかな…。こっちをこうしたから、そっちはこれくらい引っ張って、それと同じくらいすぼめて…。」「昨日と唇の感覚が違うから、今日はここをもう少しこっちの方向に引っ張って、この音域では少しそれを緩やかにして…。」「アパチュアを平面で考えているからいけないのか!そうだ、立体で考えればいいんだ!…となると、この部分はこうして、こっちはこうなって…。」などなど…。これは永遠に続き、おそらく定まることがないのです。
つまり、技術的な向上、まだできないことをできるようにしていくという事の、むしろ壁となるのです。無くてよいはずの限界を自ら作り出している、と言えるかもしれません。

・音質の非一貫性
発音体自体の形を変化させているため、どうしても音域によって音質が変わってしまいます。高音域が細くなる、タイトになる、などが一般的かもしれません。例えば、中音域と同じようにオープンな高音を出したい、ということが困難となります。
アパチュアの操作、アンブシュアの操作、によって広い音域を獲得できるとする奏法論では、音域による音質の一貫性は脇に置かれている(あるいはそこには目を向けないように周到に仕組まれている)、または音質の一貫性はそもそも問題としてない(音質が変わってしまっても別に良いことにしている)、ことが多いのではないでしょうか。なぜなら、その方法論では音質の非一貫性は不可避だからです。

アパチュアを意識する必要はあるのか

それでは、果たしてアパチュアを意識する必要はあるのでしょうか。私の見解は、前述の通り、その必要はない、です。アパチュアをコントロールどころか、意識する必要がそもそもない、というものです。アパチュアの状態はあくまで結果であり、原因ではないからです。
アパチュアはコントロールしようとする対象ではなく、他にコントロールすべき対象があって、それがうまくいっている限り、アパチュアは勝手に然るべき状態になっている、と私は考えます。

アパチュアが気になる時に何が起きているか・どうすべきか

アパチュアが気になる時、おそらく心地よく音は出ておらず、唇も良い状態ではないだろうと思います。しかし、この時に、アパチュア自体を操作しようとするのではなく、結果的にアパチュアの事が気にならないで済むようになるにはどうしたらよいか、という方向で考えてみるのが良いと私は思います。

アーノルド・ジェイコブスの言葉に、「アンブシュアは形ではなく振動だ」というものがあります。私はこの言葉は非常に示唆に富むと思いますが、私の理解するところでは、この言葉が意味するのは、

アンブシュアについて改善を図る時、
・我々が着目(感知)すべきはアンブシュアの形(フォーム)ではなく、振動(の状態)であり、
・振動を改善することにより、形(フォーム)は決まっていく。
・その逆ではない。

という事です。

アパチュアもこの中に含まれ、アパチュアの大きさや形は、それ自体を先に決めるものではなく、良い振動の状態を求めた結果として決まる(然るべき方向に変化していく)ものであると言える、というのが私の考えです。アパチュアの形、大きさ、などは、良い振動の状態を求めることよって、結果的にある状態へと向かっていく、わけです。

もしビジュアライザー(リム)があれば、ビジュアライザーでバズィングをすると、リム内の唇の振動を楽器やマウスピースを吹いている時よりも強く感じ取ることができますから、振動の状態を改善していく、という事への取り組みはしやすくなります。
・唇は息の流れの受け身にしておく
・良い振動が生まれるように、息を主体として唇のバランスを取っていく
・振動の質を、最初は粗雑なものから始まるが、少しずつこまやかなものにしていく
・音の高さ(振動数、振動の速さ)が変わっても振動の質は変わらないようにする
などがその方向性となります。

また、楽器を含めて練習する場合にも、楽器の共鳴状態を改善していく、ということによって、アパチュアの状態は然るべき状態へと変化し落ち着いていきます。
楽器を含めた物理的状態の中で、
・息の流れを主体として唇が反応し楽器が共鳴するバランスを取っていく
・各音のツボで楽器が共鳴する状態を見つけていく
などがその方向性となります。

以上のようなことによって、アパチュアの形や大きさや、音の高さや大きさによるアパチュアの微妙な変化などは、勝手にどうにかなっていくと思います。大きすぎでも小さすぎでもなく。

このような方向性で、唇の振動の状態、あるいは楽器の共鳴の状態、それを改善していくことによって、アパチュアの状態は然るべきものに勝手になっていくと私は考えます。

そもそもアパチュアというものを意識することもなく、良い状態で音が出ている時にはアパチュアというものの存在を忘れていることになります。

アパチュアは、コントロールすべき対象でもなく、そもそも意識するものでもない、というのが私の考えです。

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