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【さとしとミライ.3】高校~大学時代のさとしさん

こんにちは。ミライです。
野球の練習に明け暮れた「さとし」少年は高校から大学へ。
早稲田大学に進学したときの「志」を伺いました。

西郷から鶴岡南高校まで、
向かい風や追い風を受けての自転車通学は思い出深い。
早稲田大学で培ったハングリー精神。
「将来は地域のためになる人材になろう」と。


「鶴岡南高校時代は野球部で、ほぼ毎日練習していました。年末年始にアルバイトして、自分でお金を貯めてグローブを買ったりしました。」

ポジションはキャッチャー。扇の要という感じ。
全体を見渡す力はその頃に養われたか?

「中学校のときにキャッチャーだったので、そのまま高校でも。本当はショートとか、そういう華麗なポジションも一度はやってみたかったんですけどね(笑)。
キャッチャーというのは、ブルペンでピッチャーが投球練習するのに必要なんです。私は中学のときからキャッチャーをやっていたので、「ブルペンで受けろ」と自然になりました。現在、鶴岡市議会議員の菅原一浩さんが私の二つ上の学年にいて、菅原さんの球をブルペンで受けたりしましたね。

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高校野球部の仲間と。さとしさんは中段の左から3番目(本人写真提供)

西郷から鶴南まで、自転車で片道10キロくらいありましたから、その通学が結構いい思い出です。風向きによって体力の消耗が全然違うわけです。庄内は風が強いですから、向かい風か、追い風かで通学のしやすさが全然違う。行きが向かい風で、帰りは追い風だろう、と思っても往復向かい風だったり(笑)。

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雨のときはカッパを着て自転車に乗り通ってました。自転車が好きで、スピードの出るドロップハンドルの自転車を買ってもらったことを覚えています。当時は、今みたいに道路がまっすぐでなかったので、田んぼに落ちたことも2回くらいありました。学生服がドロドロになって(笑)。今考えると整備されてない道で、農作業もやりづらかっただろうなと思いますね。」

そのころ通学した道は、現在は圃場整備されて、その面影はないとか。

高校生時代の好きな科目は「社会」。
早稲田大学を目指したわけは?

「早稲田大学の学風を調べていたら、『在野精神』というのがあって。創設者の大隈重信が「全国津々浦々に人材を配置する」ために、人材を育てるために作ったという早稲田大学でしたから、その校風に共感しました。
その頃はバブルの時代で、モノから何からみんな都会に集まっていく、という時代だったのですが、人材がみんな都会に吸い込まれていくんじゃ、ダメじゃないか、と思っていました。

ある意味、田舎の鶴岡・山形からもどんどん都会に人材が流出していく姿を、目の当たりしていて。すべて中心は都会で、地方は取り残されていっていいのか、と世の中の風潮に反発も感じていました。私は、『大学をはじめ高等教育を受けて育った人材こそ、それぞれの地域に根づいて、地域のために頑張らないといけない』と思っていました。」

―――では大学を出たら、いつかは「鶴岡に戻ろう」と思っていたんですか?
「そうですね。早稲田大学の『全国に津々浦々に人材を配置する』という考えに共鳴していましたから、大学を卒業したら、今度は自分自身が全国津々浦々に行ける人材になろう、とそういう思いがありました。」

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大学の卒業旅行で訪れたネパールにて。さとしさんは右奥(本人写真提供)


(次は、社会人となったさとしさんのお話に続きます)

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