見出し画像

【さとしとミライ.4】社会人となったさとしさん

こんにちは。ミライです。
大学を卒業して日本航空(JAL)へ。
さとしさんが鶴岡市議会議員になるまでを伺いました。

民間企業で学んだ、社会人としての成長。
人を育てること。大規模事業を立ち上げ、達成するということ。
仕事に夢中になっていた、さとしさんの新しい思いは
地元・鶴岡の人たちの期待に応えるということ。


「大学卒業後、日本航空(JAL)に入りました。航空会社の仕事はやりたい仕事だったので毎日楽しかったですよ。」

―――日本航空でどんな仕事をしていたんですか?
「入社したときは羽田空港の旅客の配属だったので、空港のカウンタでチェックインをしたり、搭乗ゲートでお客様の誘導をしたり。そういった接客の対応を一年くらいしたあと、現場を教育する担当部署に異動しました。

―――1年で? 早いですね。
「引っこ抜かれて…ですね(笑)。
空港の旅客担当に、だいたい300人くらいが配属されていて、いろんなキャリアを持っている方、いろんなスキルがある方がいるんです。入社したばかりのパイロット訓練生やキャビンアテンダント訓練生も最初は空港などに配属されて来ます。その人たちに対して、一年目はこの教育、二年目はこの教育と、それぞれの教育シラバスがあって。その教育実施計画を立ててインストラクターを配置したりする部署で、教育グループの一番下として配属されました。」

―――では、学ぶことがすごくたくさんありましたね。
「そうですね。教育担当に2年半くらいいて。そのとき同時に羽田空港の沖合展開という大事業もあって。ターミナルがそのまま、まるごと新しく移る、という事業でした。空港の大移動に伴って仕事のやり方、作業の仕方、機械の操作も全て変わるので、みんなに教えたりしました。その頃は朝から夜まで、早番から遅番までずっといた(笑)。朝7:30 くらいに会社に行って、帰りは終電くらいで帰るとか、そんな毎日でしたね。」

―――そんなにやりがいのある仕事だったのに、鶴岡に帰ってきたわけですよね?
「早く帰りたいな、とは思ってはいたんですけど…。今度は関西空港ができるから、開港準備で関空に行け、と言われて、その立ちあげを担当しました。そして、そろそろ戻ろうかな、と思ったら、今度は北京支店に行け、と。海外勤務もしてみたいな、と思っていたので、北京支店でも総務担当として勤務して。
3年くらい中国にいて、ここで会社を辞めて鶴岡に戻ろうかな、と思ったら今度は本社勤務になって。本社もやりたいな、と思って(笑)、4年ほど本社の空港業務部に勤務しました。中国・アジア路線を担当し、中国国内3つの空港の新規就航や羽田空港の再拡張を担当しました。」

画像2

画像3

写真上:政府専用機の前で。モンゴル ウランバートルにて。
写真下:北京空港時代 。日中線開通25周年の年に(本人写真提供)

―――本社勤務4年後の転機
「平成17年だったんですけども、地元の西郷で市議会議員をされていた斎藤助夫さんという方に声をかけられて。私の親に『聡くんが帰省することがあったら教えてほしい』と言っていたようで。帰省して斎藤さんに会ってみると、『今年の10月に合併して、市議選も全く新しくやるから、市議会議員をやってみないか』と話がありました。」

「突然のことだったので、びっくりはしたんですけど、私ももう36歳になっていましたから、あまり年をとってから帰るより今、鶴岡に帰る、という選択もあるなと。ちょうどタイミングが合った、というか。本社勤務も4年経って、そろそろ転勤だな、と思っていた頃でした。私も『せっかく鶴岡に戻るのだったら、何か地元のために発言したり、行動できる立場の方がやりがいがある』と考えてはいました。」

―――決断にあまり時間はかからなかった?
「その時は、市議会議員がどんなことをするのかさえ、よく分かりませんでした。『少し考えてみます』と答えたつもりでしたが、その日の3時間後ぐらいに、助夫さんの後援会の人がみんな家に集まってきて、『一緒に頑張ろう』とか言って、握手されて(笑)。その後、日本航空を退職し、鶴岡に引っ越して、5カ月くらいの間、挨拶まわりだとか準備して選挙に挑んだんです。」

地元の人の強い要請を受けて市議会議員に立候補。2005(平成17)年、初めての選挙で当選し、政治家「佐藤さとし」が誕生しました。

(次は、鶴岡市議会議員時代のさとしさんのお話に続きます)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?