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ラーメン凪 創業記 第4章:NYと一冊の本

ラーメン凪 代表 生田悟志が高校卒業から凪創業に至るまでの波乱万丈な創業記!?前回まではこちらかから

夢のニューヨーク

2003年 一蘭 東京エリアマネージャー時代

社会人経験を積むに従って、ぼんやりとした夢の輪郭を整えるべく、まずは日本を飛び出してみたい!
といっても海外の知識は全くなく、日本以外はよくわからないが正直な感覚。
だったらと映画好きとしてよく知っているNYにしようと。
今振り返ると完全にTV脳で、海外=ウルトラクイズの「NYに行ってみたいかー!!!」に引っ張られていたと思います。

六本木店のTV密着取材が中止になった理由の9.11ワールドトレードセンター跡地や映画のブルックリンビレッジなどなどざっくり行きたいところをチョイス。
基本的に「行動→考える」という非常に手間と時間のかかる思考と行動特性のおかげか、初の海外にも関わらず何も準備せずに飛行機のチケットだけ取って現地に行けばホテルとかあんだろ!
それが後々ホテル探しで苦労するとこに。。

仕事の一蘭は六本木店、上野店と立て続けに出店をしていてどちらも絶好調。
上野店は1日100万以上の売上で月間4000−5000万円ほどの売上。
1店でその辺の中小企業の売上を誇っていたと思うとこえー。
ということで2001年-2002年の地獄のような日々の息抜きをしっかりしようと旅立ちしました。

日本とは時差12時間ほどあるニューヨーク。
全く時差ボケすることなく、というか既に時差ぼけみたいな性格が功を奏して無事到着。

はじめてのニューヨークは近代的なビルや歴史を感じる建物が同居して感動。
ただほんと近所のコンビニ買い物に行く感覚で来たので、基本金がなかった。
僕は近くのカフェで注文の仕方が分からず身振り手振りで注文。
もう言葉なんてなくてもいいやと思って、相手からするとほんとヤバいやつが来たって感じですね。
今ならすげーわかる。言葉もマナーですものね。完全無視ができたのは若気の至り。。。
デリを選んだのはもう間違いなく「安い」からです。それでも1食 700円-1000円位でしょうか。
お皿にポテサラと鶏の煮たよくわからない料理を食べて、なんとなくアメリカを実感していました。

この時に気がついたことは(当然NYネタは一蘭社長の大好物です。隙あればネタ探しに余念がありません。)デリに行くとたくさんの調味料があり、日本では見ないものばかりで驚き。
塩やケチャップ、ソースや激辛サルサ的なものまで。さすが多民族国家。味付けはある程度のところまででお好みに調整することに妙に納得。

ここでちょっとこぼれ話。
今では一蘭も海外展開をしているのですが、社長がアメリカに行った時に広場で弁当を食べている人がいて、その人と目が合った時に彼が座る向きを変えて目が合わないように背を向けたそうです。
その時に社長は「これは海外でも一蘭がいける」と感じたそうです。
お客様に気をつかわせない環境を作ることを徹底していた一蘭ならではの考えです。

さて、NYに戻ります。
初日のご飯食べた後、肝心なホテルを予約しておらず、ここからが伝説の1日が始まりでした。
まだ旅慣れしておらず、バックは重く、激安ホテルを探すも全く見つからず。地球の歩き方を片手に地球の迷い方の手本のような感じになり、本に書いていあるホテルには全然辿り着かない。
携帯でホテルに直電。
プルルルルプルルルル
ホテルマン「Hello!」
…って英語話せるかいっ!全く何を言ってるか分からず。

情報が今ほどリアルに見れないので、日は暮れて暗くなるわ、治安悪いところは怖いわと計画は大事だよーとここでも学ぶのですが・・・
基本的に動かないとダメな性格なのでとそこはいまだに大きな課題です。
で、しこたま歩きまくってやっと泊まれそうなホテルを探し一泊15,000円。
さくっとそこに宿泊。そしてホテルは安定のお湯が出ないという海外あるあるを体験。

とにかく歩きまくったNY。
朝6時から深夜3時まで食べたり、歩き回ったり、美術館みてみたり、橋をわたってみたり、バーで飲んだり。
はじめてのニューヨークは刺激がたんまりというよりも衝撃でした。

真っ黄色なタクシーもオサレに見えるくらい。エンパイヤーステートビルから街を見下ろした時の景色はもう絶景で一番好きなところでもあります。
そんな非日常過ぎる海外体験は、
「いつしかこんなところで仕事してみたいなー!」っと実感させるには十分でした。

SOHOを歩いていると、そこには沢山の飲食店がありました。
ピザ屋、中華料理、韓国料理、スペイン料理、屋台はワッフルなど、どれも美味しく刺激的でした。

「あーいいなーこうやって胸をはって仕事したいな!」人に美味しさや少しでも感謝される、役に立ちたいと、強く思うようになりました。

で、振り返ってみると、そこに日本料理やラーメンはまだダメダメな時代。「あ、これなら日本人としてもやれるじゃないか!」と気がつきました。
結果、日本に戻りふつふつと「独立」という芽が心の中に育ち始めていきました。


一冊の本との出会い


一蘭での仕事もひと段落していたので、独立するためになにをすればいいか?なんて片っ端から本を読んだりお店にいっては業態を考えたりと今思うとさっさとやればいいのにって感じな日々を過ごしていました。

目の前の不安を解消するために徹底的に調べました。
わかったことは、調べても答えはないということでした。
これってやったからわかるんですけどね。
当然、脳みそはサラリーマンでしかないので、やっぱり人間は器以上のことができないってことなんでしょうね。起業もチャレンジもその器をどうするかの問答でしかないんでしょうね。

開店するためにはまずなにがいるのか?
お金はどれくらい?物件はどうやって探す?
なにをやる?
ひとりで?
始めたらどんなふうにやりたいか?
など。

この時期に読んでわかりやすかったたのが、当時GMO社長であった熊谷
一冊の手帳で夢がかなうという本でした。

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ベタな感じでイマイチだとちょっと恥ずかしい?気もしなくもないですが、それでもサラリーマン脳を破壊して考え方の習慣をかえていくには十分でした。
本の中でも、
■夢を言語化すること
■ビジュアルにすること
■日付を入れて順番をつけて明確にすること
つまり、目標達成の整理整頓を教えてくれました。

それを元に、先の20年計画、45歳までの自分の計画を立てました。

当初立てた目標は33歳で独立、収入2,000万を目指そうとしていました。
それを20年で等分して、自分、家族、仕事、趣味、収入などに分けて細かく計画を「てきとう」に作りました。
33歳の起業までに死ぬまでやりたい仕事を決めようと。それまでは探す旅だと決め込んで日々過ごそうと。

その日からノートの使い方が変わりました。
ただ仕事のメモしか書いてなかったノートから、日々振り返るようになったり、目標を日単位で決めてそれを実行できたか、できなかったか?なぜ上手くいって行かなかったか?チェックするようになりました。

それを2年ほど繰り返してやっていたら、不思議と実力もついていき物事の感度がよくなりました。感性が磨かれたのかもしれません。もしくは会社を起こすという「てきとう」に決めたことに脳が能動的に動き始めたのかもしれません。ビジネスという視点から見るようになっていきました。
そして運命の年、2004年を迎えます。
これどこまで書くか悩んだのですが、どうせ書籍とかにならないだろうし、このnoteを見ている人ぐらいであれば問題ないかと思うので初公開しちゃいます。

つづく!凪開業まであと2年!(毎週火曜更新)

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