見出し画像

男女の脳に差はあるか

「男女の脳に差があるか」という問題を考える際、結局、何をもって「差がある」と言えるかを定義するかが重要となります。具体例を挙げて考えてみましょう。

目の前に2つ、リンゴがあるとします。
そして、「それらが同じであるか」と問われた場合を想像してみてください。

「はい、同じです」と答えることもできます。なぜなら、「どちらもリンゴであるから」ですと。

一方で、「いいえ、違います」と答えることもできます。
「右のリンゴは、左のリンゴよりも少し小さいです」、「左のリンゴには、ヘタの部分に傷がありますが、右にはありません」、「色合いが微妙に異なります」などの理由を挙げられます。

これを深く掘り下げてみるます。すると、どれだけ外見的に全く差が見られない2つのリンゴを用意したとしても、それらが存在している場所が微妙に異なります。

場所が数センチずれていることで、周囲の気体との相互作用や、太陽の光の当たり方が異なります。

それによって、リンゴ表面の状態が異なってきます。つまり、物理的に形状を持つ2つのものが、全く同じ場所に存在することは不可能なため、必然的に差が生まれます。

一方で、これらの「モノ」に付与されている情報、今回の例では「リンゴ」という名前、は同じになり得ます。

最も抽象的な情報のレベルに焦点を当てると、例えば「コップ」と「リンゴ」であっても、どちらも「物質」という点で一緒だと言えます。

それらは「物質」として一緒だと言える一方で、物としての形状や性質は明らかに異なります。

このような視点から考えると、「男女の脳に差があるか」についての議論も、何を基準に、どの視点から見るかによって異なる結論を導くことが可能であると言えるでしょう。

男性の脳と女性の脳について議論する場面では、「どちらも脳だから同じ」とも言えますし、一方で形状や大きさが違えば、それらが全く同じであることは、厳密にはあり得ません。

さらに、例えば、男性の脳が、女性の脳よりも平均的に大きかったとして、それが具体的に何を意味するのでしょうか?

私たちが本当に知りたいのは、解剖学的な差異ではなく、その脳の機能の違いではないでしょうか。

また仮に、男性の脳が平均的に大きいとしても、それは全ての男性に当てはまるわけではありません。

一部の女性の脳は、一部の男性の脳よりも大きいかもしれません。

一旦大きさの話題はここで終え、一般的に重視される機能の問題について考えてみましょう。

例えば、論理的な推論の能力はどうでしょうか? 言語を操る力や、記憶力はどうでしょう?

これらの能力については、しばしば統計的な有意差が検討されます。しかし、「統計的有意差」という言葉の意味を理解している人は、決して多くないでしょう。私自身も、統計学について深く知る訳ではありません。

人間が理解しやすくするためには「有るか無いか」、「0か1か」のような二元的な表現が求められます。「差があったか、なかったか」というような簡易的な表現は、対外的に発表する際には、理解の助けになります。

例えば、ある結果が出たときに、具体的な数字が示されても、多くの人は「この数値は具体的に何を意味しているのだろう?」と思うでしょう。

それは統計の世界でも同様で、p値が0.05以下ならば有意差がある、それ以上ならば無いとされたりします。

しかし、実際には0.049と0.050の間に本当に決定的な差があるのでしょうか?

このような閾値を設定することで、本来連続的な数字が単純化され、二分化されてしまいます。

例えば、言語能力や記憶力に差があるとされたとしても、「なぜそこに閾値を設けたのか?」、「なぜ境界線を引いたのか?」という議論が必然と生じます。

そして、何をもって有意とするかは、分野により異なります。それは、本来境界線が存在しないところに、人間が設定するからです。

これらはトリビアルな議論であり、総合的に考えるとそれほど興味深い議論ではありません。男女の脳の違いについての議論よりも、認知のメカニズムや、睡眠のメカニズムのような、全ての脳に共通する一般的な話題や、逆にアインシュタインやモーツァルトのような例外的な成果を残した人物の脳の研究など、具体的で例外的な議論の方が面白いと感じます。

例えば、「神奈川県民の脳と、千葉県民の脳を比較する」などといったテーマには、個人的にはあまり興味がありません。

それと同じように、「男女の脳を比較する」といったテーマも、どうしてそこに焦点を当てるのか疑問に思います。確かに、そのような話題は社会的に魅力的で、誰もが興味を持ちやすいです。何かしらの能力について、差が出る可能性はあります。

しかし、もし実際に差が見られたとしても、「それが本当に性別由来の差なのか」は確定できません。結果が生物学的な要因によるものなのか、それとも他の要素が関与しているのか判明しないからです。

例えば、アメリカではアジア系の学生が数学が得意であるというステレオタイプがあります。実際に、学生に自身の民族性を意識させるアンケートを行った後に数学のテストを受けさせると、アジア系の学生のスコアが上がるという研究結果があります。つまり、「自分がアジア人である、つまり数学が得意である」と期待されているという意識が、その後のパフォーマンスに影響を及ぼすというわけです。

この事実は、男性と女性についても同様に適用される可能性があります。たとえば、社会的には「男性は論理的な能力が高い」というイメージが未だにあると思います。これは事実とは限らないものの、そのような社会的な期待があると、「自分自身が男性であることから、論理的な思考が得意であるべきだ」という期待を無意識に背負い、そのように振る舞うようになる可能性があります。

「女性の方が言語能力や、感情を読み取る力が優れている」という説が提唱されることがあります。これについても、「自分は女性だから、これが得意なはずだ」と思い込み、結果として本当に得意になる場合があると考えます。

しかし、それは本当に性別由来の差なのか、それとも単に社会的な期待によるものなのかを判断するのは難しいと思います。染色体の違いよりも、社会的な期待や、偏見が大きな影響を持つ可能性があるからです。もし社会的な期待や偏見がなくなれば、その結果も変わると思います。

「性別由来の差」と結論付けることは非常に困難です。なぜなら、我々は生まれた瞬間から社会的な文脈にさらされているからです。「女の子だからこうしよう、男の子だからこうしよう」という期待は確かに存在します。それが形成される過程で、社会的な影響を受けて脳が変化していきます。その結果、「性別による差がある」と結論付けることは単純ではありません。

この期待が変われば、結果も変わる可能性があります。それが性別によるものであると断定することは難しく、男女の脳を比較すること自体があまり意義のあることではないと感じます。

それよりも、個々の脳の機能や特性に注目するべきだと思います。例えば、ある特定の能力が定着するメカニズムについての研究や、「天才」とされる人物の脳についての研究などの方が面白いと思います。その点において、「男女の脳に差があるか」という議論は、あまり面白みがないと個人的には感じています。

【SNS】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?