見出し画像

クレオパトラに逢った ③

 

クレオパトラとロンドンの片隅で


 会合に一緒にいた男性が 君は誰々に似てると言って思いっきり、男性性をあらわにし、クレオパトラ風女性に話しかけていた。 この女性が一体どういうふうに対応したのかどうか確認できずだったが、その話は長く続かなかったようである。 
 
食事の時に彼女(クレオパトラ)と同じテーブルだった。そしてもう一人の年配の黒人女性と一緒に3人で食事をしたが、3人とも終始無言だったのである。 それはやはりこのつまらなそうな東洋人のせいであろうか?
 
ちょっと東洋人とは西洋ではどんなイメージなのか話したい。偏見も踏まえて。
 
西洋の国では東洋人男性とはこういうイメージがある。
 
「はなしてもつまらなそう」 
「冗談が通じなそう」
「かっこわるい」
「男性性がまったくない」
「うっとおしい」
「魅力的でない」
「に、人間に見えない」
「馬鹿にしても差別しても誰も怒らなそうだから差別したくなる、いじめたくなる」
 
などなど。
 
昔のロンドンはまさにこんなかんじだったでしょうが、今のロンドンではそんなことはないですし、やっとのやっとで広告や映画、ドラマなどでも多くの東洋人が起用されてきています。
 
なのでみなさん恐がらず西側諸国に来てください。石投げられたりしません。
 
それでもまだスーパー白人な人たちは同じように偏見を持っているだろう。 特に中途半端な地方に行くと...
 
つまらなそうな男が目の前にいるから、これは話しても何も始まんないだろうと思って話しかけなかったのかもしれない?
 
東洋人とかそういうことでなくて、サトシ ダテがつまらなそうで、はなしてもくだらないうんちくをあびせさせそうな雰囲気をもっているからかもしれない。
 
これはも東洋人さべつでなくて、サトシ差別である。
 
「あなたの肌の色とか、文化とか、伝統とかどうでもいい!それを通り越してあなたは本当に本当に退屈でつまらなそうで、話しかけてくるだけ吐き気がするの!!」
 
かもしれない。
 
 
いやそれとも 僕らは単に一緒に瞑想していたのだろうか。食べることに集中して。静かに静かに。
 
といってもクレオパトラは携帯を時々いじってた。 
 
たぶん瞑想するのが嫌だったんだろう…
 
またしてや!ここで僕は話す機会を逃したのである!
 
僕にはわからない。そういったもやもや 憶測 などが。 彼女自身も僕に対して何らかの憶測もあるだろう( いや 何も考えてないかもしれないけど…)、 そういったものを突き破って変えていくっていうことが 行動 なんだなぁと改めて思った。
 
憶測や無駄な知識によって、僕らはブロックしてるのだと思う。
 
いま読んでる「フランケンシュタイン」では
怪物となった男(フランケンシュタイン)は
「知識(knowledge)が増えれば増えるほど苦しみが増える」と言った。
 
だからあるいみで私たちの知識、知ることは防御となり、膜となり、ぼくらの使命を邪魔するのだ。
 
失敗してもいいから行動することは大事ということがある。
 
しかし失敗の中にも無駄でもある「失敗」 というものもあるのではないのだろうか。 行動をしたが故に それが行動とみなされなく、行動に値されてない行動であったりするかもしれない。
 
ようするに、厚かましくて、おこがましくて、 やたらと人に声をかける、それが日常になってる人である。そういうのはただうっとおしいだけで、勇気から来るものではない。
 
普通に考えてみて 仕事場は一緒だったり、 どこかで一緒になった後、帰りが一緒であったら、声かけるのが普通ではないだろうか?
 
読者にもそういう経験が絶対あったであろう。
 
仕事場や、学校から帰るとき、ばったりと話したい人に逢ってしまうとき。
 
声をかけるべきか? かけないべきか?
 
 
僕はこの前日本で講演した時も小学校6年生の可愛らしい女の子たちが 駅前でばったり やって話しかけてきてくれた。
 
「先生これからどこに行くんですか?」
 
そして話が弾むのである。
 
とくに彼らも意味もなく話す場合がおおい、 ただいるから話しかける。 無視するよりは礼儀としてよいではないか?
 
そこでさようならをしたっていい。
 
同じ方向にいるのだから、奇遇ですねと言う事でその縁を大切にするということだ。
 
そう、縁を大切にするという事ではないだろうか?
 
 
さっと、会ったことがある人がいるから、躊躇なしに声をかける。とても気分が良い もちろん そこには何のエゴもなければ純粋な気持ちからきている。
 
 
続く…

よろしければサポートをお願いします。 これからの活動に役立たせていただきます。