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Twitter現代川柳アンソロ2~鑑賞~3

・TLに流した、X(Twitter)現代川柳アンソロ2の感想 #ツイ川ア・ラ・モード  をnoteにまとめ始めました。
・一部に加筆修正をしています。掲載は時系列でもページ順でもなく、加筆修正順のランダムになっております。
・あと、その時の気分で、文体が「ですます調」「である調」「口語調」に変わるので、いろいろ、混じっています。読みにくいかと思いますが、いちいち直すと、またタイプミスとか増えそうなので統一しません。
すみませんがご了承ください。

恋人に金継をして撫でている / おだかさなぎ (p4)
@spice16g

恋人を器に見立てている。見立てられた器は欠けたる器なのだ。しかし作中の主人公は欠けたる器に金継(=フォローや対応)を施すことで、その人間全体としての存在を鑑賞に値する景色=魅力とうけとめて、撫でている。

読んでいて、この「恋人」の在り方は自分にちょっと近いとおもった。
ただ、自分は掲句の「恋人」よりは金継された箇所が全身にわたっている。欠けたる所というよりは縦横斜めに割れ線が走って景色とはいいがたい状態だろう。

金継をしてくれる身内とよべる存在がいたり、もう少し範囲を広げて、こんな自分でもお付き合いしてくれる仲間がいるということ。有難い。
そんな意味でハッとさせられた句。
作中の主人公は慈愛に満ちた、度量のある、また、お互いにフラットに尊敬しあうということ、尊敬しあう仕方を知っている存在だろう。
ハート・ウォーミングな一句だ。

+++

とめどなく雫溢して泣けど豚 / 片羽雲雀 (p5)
@anju92091554

この句の鑑賞をアップすることは自分にはとても難しい、ハードルが高い作業である。この句は、作中主体の性認識の表明がされていない。が、今回は、作中主体の性認識は女性で、性の嗜好は男性に向いている存在として読みを進めてみる。もちろん、それ以外にも、掲句に対する色々な角度の読み筋が当然存在すると思う。

この句は、
1.ジェンダー=社会通念や慣習の中には,社会によって作り上げられた,「男性像」,「女性像」があり,このような男性,女性の別を「社会的性別」(ジェンダー/gender)の論

2.LGBTQ=「Lesbian(レズビアン)」、「Gay(ゲイ)」、「Bisexual(バイセクシュアル)」、「Transgender(トランスジェンダー)」、「Queer(クィア)/Questioning(クエスチョニング)」の頭文字を取って名付けられた、幅広いセクシュアリティ(性のあり方)の総称

3.マウンティングやいじめ

などの、部分を多量に含んだ作品と思えるから。
上記3のようにも読めるし、3の読み筋でも難しいのだが、更に1~2の読み筋になったとき、自分にとってのハードルが一気に上がるということ。

そして、自分の育った環境を顧みるに、鑑賞文を書くことで、現在の1~3の正当な感覚から、自分の感覚がズレている=遅れていることが発覚するのが恐ろしい、という現実がある。自分の育った環境では、性認識も性のありかたも、差別意識も、いまより数段単純化されて流布していたからだ。だから現在に在ってはより注意深くならなければ、社会から置いていかれてしまうだろう。そういう意味で、掲句は自分にとって、地雷原な句ということになる。

掲句は「いくら泣いても豚は豚」というような、ジュニークでも詠み切れる、一つのテーマで詠んだ毒のエッセンスを内包している。

1.江戸時代俳風柳多留初期の冷酷に見つめ現実を突きつけるスタイル
2.私性の濃い「嘆き」のスタイル

の二通りで読める。今回は1を中心に読んでみる。

「とめどなく雫溢して泣けど」の含む、或る概念vs豚(豚を蔑称として使うネガティブな概念)の取り合わせ、あるいは二物衝撃の構成。

「とめどなく雫溢して泣けど」の含む或る概念 → 泣くという行為によって感受される、或る古典的ステレオタイプな女性性・女性観=美、セクシー、弱い、儚い、可愛い、守ってあげるべき存在などなど。
泣くという行為が、とめどなく、雫、溢す、とこれでもか!というほど強調されているフレーズ。その古典的女性観の強調なのかもしれない。泣きを尽くすことで、本来ならば、優しくされたり、ケアーされたりするということが裏の前提となった言い回しである。

しかし、「豚」なのである。ネットで調べてみる。
西洋文化的背景の情報として:
『世界大百科事典』「象徴」として「ブタは西洋では不潔な動物の代表であり,怠惰な人間を揶揄(やゆ)するときにも,しばしば引合いに出される。(中略)一方で多産の部分が強調され,〈貪欲〉や〈性欲〉のあからさまな象徴ともなった。(中略)古代ローマからブタと性欲との強いむすびつきは成立していたらしい。

日本の江戸期の資料として:
『日本国語大辞典』「太っている人、醜い女などをあざけっていう語。*雑俳・たから船〔1703〕「あの人は後(うしろ)で美人前でぶた」」

身近なところでは、映画『千と千尋の神隠し』のウィキペディアから、

千尋をよそに、探検気分の両親は食堂街の中で一軒だけ食べ物が並ぶ無人の飲食店を見つけ、店員が来たら代金を払えばいいと勝手に置いてあった食べ物を食べてしまう。両親の誘いを断って食堂街を一人で歩く千尋は、旅館のような大きな建物の前の橋に着き、橋の上から下を走る電車を見ていた。背後からの気配に気づいて振り返ると少年が立っており、彼は強い口調で「すぐに戻れ」と言う。急速に日が暮れる中、両親を探すが、店では両親の服を着た大きなブタが二匹いて、食べ物を食い散らかしていた。千尋の両親は、神々に出す食べ物に手をつけた為、罰としてブタにされてしまったのだ。

というのもある。貪欲とか愚鈍(思慮分別が浅い)といったところか。
ただ、これは両親ということで、男性も含まれているから、今回の自分の読み筋とは、すこしポイントがズレてくることになるのだが。

一方、トリュフを嗅ぎ当てることのできる豚などは、最高のものでは1億円前後で売買されるということだ。トリュフ豚のような凄い特技の存在もあるわけだ。これは豚についてのポジティブな情報である。

話を戻して、とめどなく雫溢して泣く=限定された女性観による最も女性らしい行為、女性らしい扱いを受けるふるまい。それを一生懸命にしても(ナチュラルにその状態になったとしても)、豚=ネガティブな存在としてしか評価や扱いを受けないという現実。する側にとってもされる側にとっても両者の間に「人間の悲惨さ」という冷酷な現実が横たわっている。

川柳には、人間諷詠の伝統から来た、悪意、毒、悲惨、残酷といったテーマも残っていて、お題や大会のテーマなどでもしばしば、取り上げられるそうだ。
掲句は、現代川柳におけるもっとも微妙で、現在を感じさせる現実とそれにともなう、悪意、毒、惨めさ、残酷などが詠まれている作品だと言えるかもしれない。なかなか明解に言語化できないので、この辺でやめておこうと思う。

+++

赤くない中華料理屋秋茄子 / 菊池洋勝 (p6)
@kikutitg

掲句を読んでハッとさせられた。確かに、中華料理屋で内装に赤を使っていない店ってあったっけ? どこかしらに赤が必ず入っている気がする。赤くない中華料理屋って、凄い所に目をつけるなぁと。。。

句の中盤から後半にかけてすべて漢字が使われている。一続きかというと実は句の構成上、明らかに意図された「切れ」が設定されている。
中華料理屋 / 秋茄子(あきなすび)の切れである。「や」「かな」などの切れ字を使わずに切れを生み出したいときは、名詞を重ねることで切れを作ることができるという例を掲句は示している。

文脈的には、赤くない中華料理屋につづけられる秋茄子は、赤くない中華料理屋から自然に連想される、連想内の単語の部類からは遠い言葉であろう。
それが強引に接続されることで、取り合わせによる、イメージ同士の衝撃の効果をうみだしているともいえる。

赤くないと言われることによって、読者は逆に、強烈に中華の赤を意識させられることになる。そして、秋茄子の深い紺色とのコントラスト。そこから広がってくる、錆びた秋の風情・季節感をも意識させられるのである。

いぶし銀のように渋い技巧が光る一句だとおもう。

→ 鑑賞4に続く













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