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Twitter現代川柳アンソロ2~鑑賞~8

・TLに流した、X(Twitter)現代川柳アンソロ2の感想  #ツイ川ア・ラ・モード  をnoteにまとめ始めました。
・一部に加筆修正をしています。掲載は時系列でもページ順でもなく、加筆修正順のランダムになっております。
・あと、その時の気分で、文体が「ですます調」「である調」「口語調」に変わるので、いろいろ、混じっています。読みにくいかと思いますが、いちいち直すと、またタイプミスとか増えそうなので統一しません。
すみませんがご了承ください。

飽くなき予報あれは遺伝の水 轍 / ササキリ ユウイチ

時めく筆記ごく単純な打音 皮 / 同
@you_rissk

ササキリ作品は読みの都合上、二句を並行して読んでいかなければ上手く感想を述べられないと直感。同時並行的に進めることに。

あくなきよほう / あれはいでんの /  みず わだち 
7/7/5(2+3)

ときめくひっき / ごくたんじゅんな / だおん かわ 
7/7/5(3+2)

二句とも同じ律の構成(19音)、下五を構成する音数部分で2/3か3/2かに別れます。

作者は普段から膨大な古典その他を読んでいる模様。

もしそのような知識の背景から抽出された、複雑・広範な概念を伴った語をちりばめた句とすれば、自分にはその方面からの読むのは無理です。古典文学、思想、思想史を嗜むのを避けてきたので。

唯一の手掛かりは、「飽くなき予報」が作者の第二句集のタイトルになっているようだということです。

国際試合基準のボルダリングの壁を登るような読みが予想される、いわく絶壁作品にようやく指がかかりそうなのが、句集のタイトルという点。

まず「遺伝」「水」です。ササキリさんの句や文にはよく、「呪詛」というもうひとつのヒント・ワードが登場します。

掲句中には登場しませんが、遺伝と呪詛は関連性が高そうだな、と。遺伝と水、この関連性から、水=血。

血=血縁、血筋(ネガティブなイメージとしての)+呪詛(はっきりネガティブ)。

これを五感の視点から読めば、水(血)→ 視覚、触覚、血であれば+嗅覚の要素が立ち上がってきます。

後半のフレーズでかなり、生々しいイメージがきます。

轍は跡(通った結果)ですから、血筋の流れの轍としての自分とか、存在とか、そんな印象が来ます。遺伝の末(血筋)としての(呪詛をともなった)存在。的な。

そんな自分がが著すのが今回の『飽くなき予報』なのですよ。と、いうような。これはある種、客観的に自己を突き放しながらもまた、自己を表現せざるを得ない性・業の象徴としての句集を予感します。

時めく筆記ごく単純な打音 皮 / 同

そのような心持にあっても、やはり作品を書くというのはとても楽しく、心がはやるもの。掲句の下五 打音+皮 からは古の羊皮紙のイメージがきます。古代~中世の古典的な映像。

黙々と単純な音を響かせつつ、皮の表面に刻み込んでゆく、自分の作品、その筆圧の打音。上五の「時めく」からその高揚感や喜びが滲み出ているようです。、現代川柳は読みの時代から句集の時代に入っています。その先端を牽引している作者らしい二句だと思いました。

以上、句集タイトルというヒントのみで読んだので、本意とは大幅にかけ離れているでしょうが、自分なりに楽しませていただきました♪

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  • サイドミラーにいそうな顔だ / 暮田真名
    @kuredamana

  • さいどみらーに / いそうなかおだ 7+7の14音。

掲句はサイドミラーだけに映っていそうな顔、そんな顔相ならおもろいわ!とハッとします。語り手(作中主体)自身の顔か?それとも他者の顔?それは謎。でも、その顔相という視点を提示されただけで、新鮮な面白さを楽しめます。

しかし、なぜ、掲句は「いそうな」を居そうなと書かなかったのでしょうか?前半フレーズはカタカナ、後半は漢字。真ん中が、ひらがなで「いそうな」の表記。

サイドミラー」の和製英語

(サイドミラーは米国英語では「side view mirror」か「door mirror」、英国では「wing mirror」だそう)

は、強く意識しない限り複数の意味で読みにくい単語。
「顔だ」も単一の意味で読むのが普通でしょう。同じようにもし「いそうな」が、居そうなと表記されていれば、単一の意味で読みやすくなるでしょう。ところが、掲句ではひらかなに開いていて、あれ?もしかして??となります。自ずと「いそうな」に意識が行くよう誘導されているようです。

「いそうな」→ 位相、移送、異相、など別の語の代入をして読むことが可能になっているようです。

位相を調べると、

1.周期的に繰り返される現象の一周期のうち、ある特定の局面。例:「散乱波の―のずれ」
2.男女・職業・階級などの違いに応じた言葉の違い。

などがあるようです。

実はサイドミラーが写しているのは、様々な局面。例えば、性差、職の違い、階級意識による分野(言葉遣いや、しぐさ、対人間の対応などの点で)ごとの異化なのでは? という妄読可能の設定が?♪ 素通りしそうな、平易な言葉に深い読みの罠。ウワっとなりますね~

なぜ、小池正博さんが暮田さんに出会って、間を置かずに、その自覚せぬ川柳的天性の煥発を見出せたのか? という辺り、ウンウンと腑に落ちるのでした。

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  • カンニング作戦名に愛馬の名  川合大祐

  • @K16mon


  • 愛馬の名は、ハイセイコー=ハイ!成功?(大汗。


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サラダとは何か和尚が消えてゆく / 川合大祐
@K16mon

さらだとは / なにかおしょうが / きえてゆく 

575で綺麗に読める律。

文脈的には

さらだとはなにか / おしょうがきえてゆく

何か? という問いかけと、和尚から、パッとくるのが、禅問答ですね。作麼生(そもさん!)説破(せっぱ!)の掛け合いで始められます。調べると禅問答の言葉で、問題をだす側がいうのを「作麼生・そもさん」。「さあどうだ」の意味合い。そもさんに対し、問題を出題される側は「説破・せっぱ」と応える。説破は、相手の説を言い負かすこと。論破。だそうです。

もし掲句に、柄井川柳時代(江戸時代)のお題としての前句をつければ、おそらく「そもさん、せっぱ そもさん、せっぱ」の77句では?と思いたくなります。

さて、弟子が問題を出したと仮定して、弟子が「サラダとは何か」?と質問したとします。

通常ですと、和尚はそこで答えるわけです。
例えばちょっと長くなりますが「サラダ、即ち、猿じゃ。猿=sal=塩じゃ。salを野菜などに和えたのが原初サラダの食べ方じゃ。芭蕉は~初時雨猿も小蓑を欲しげなり~と詠んだが、サラダはの、猿も藻塩を欲しげなりじゃ。初時雨のように上から塩をかけてから、ようく和えるのが本来のサラダの在り方だったのじゃ。

さて、和える即ち=逢えるじゃ。逢うという字には、親しい人と巡り合うという意味があるのじゃ。仏にな、それこそ、親しい人に巡り合うように接する、これ、まさにサラダじゃ。サラダにはドレッシングが欠かせぬ」

「ドレッシングの意味というのはな、ただ野菜の上からソースかけ回すのではない! ドレスをまとわせるように、野菜などにソースを満遍なくまとわせてやる。それが本来の意味じゃ」

「菜に唯掛けただけでは、真の味わいはわからんのじゃ。やさしく 菜ぜんたいにソースをまとわせねばならぬ。それこそ、われわれ仏道のものが、よくよく、尊い経典の恩恵を日々たっぷりとまとうようにな。わかったか!喝!!」

弟子「ひぇ~、参りました!」というような問答が展開されるはずです。

因みに今の問答内容は、即興の妄想ストーリーです(汗。

ところが、掲句では和尚が応えるどころか、消えてしまうのですね~これ、どういう流れでしょ? 相撲技でいえば、肩透かしってやつですね。

世間一般の反応として当然こうだろうとする常識の破れ→常識が破壊されている状態。

多分ですが、掲句ではこの破れ・破壊に川柳性が露出しているのではないでしょうか?凝り固まった常識に対し、反骨としての理知・機智を伴った場面を置く。「サラダ」の部分は色々な言葉を代入可能なのかもしれません。例えば、「カラダ」。カラダとは何か?と訊かれて、和尚のカラダ自身が消えちゃうというような。そして消えること自体が実は禅問答の形式を借りた、川柳性の問答への回答のような。

という所まで、掲句から妄読が暴走しましたが、読者によって、もっといろいろな読み方が出来ると思います。

それだけ、懐が深い句だと言えるのではないでしょうか。

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飼いぬしに噛まれる眠るまで眠い / 湊圭伍
@umiumasenryu

漆喰が剥げたらへんの虞美人草 / 同

さて、#ツイ川ア・ラ・モード の感想、ついにラストひとりになりました。われらがリーダー(と勝手に私淑していっております)海馬さんの句ですね。

かいぬしに / かまれるねむる / までねむい 

の575 意味的には

かいぬしにかまれる / ねむるまでねむい 

の区切れになります。

前半フレーズと後半の関係性が全く見えないです。これをどう読めばよいのでしょうか?ひゃ~!

共通項を探るとすれば、ふと、意識にささくれがたつ程度の違和感。飼い主に噛まれる。 ん? 普通、「飼い犬に噛まれる」慣用句の入れ替えじゃないの?と。意味的には「日ごろから面倒をみていた人や部下に裏切られる」というものです。

あ、そうか?となりますが、もう一度考えると、自分の勤める会社がブラック企業だとして、飼い主から毎日手ひどく噛まれ続けているという現実にハッとさせられます。穿ち。

然りだ!と。逆転の逆転は正常? 否定の否定は肯定? みたいな。

眠るまで眠い。ん? 眠くなるまでは眠くないのでは? いや、眠くてしょうがない時はそうかもしれないけど。あと、眠く無くて悶々としていてもいつの間にか眠っていることもあるよね? 

あれ?眠くなるまで眠いってどんな?違和感というか、今まで自分が考えなかった視点での、常識の小さな、確実な破れ。盲点を突いてくるフレーズ。

サラダとは何か和尚が消えてゆく / 川合大祐の構造では、前フレーズの大きな設定(伏線)に対する常識の破れがありました。
掲句では一句中に二つの章があり、それぞれに破れがある。二つの章の並列技法ということになりそうです。

一見なんの関連性もない二つの章。それらが、違和感・常識の破れや混乱という要素で括られたとき、初めて川柳性の全貌をあらわしながら、一句としてまとまってくるという。そこにハッとさせられます。

漆喰が剥げたらへんの虞美人草 / 同

しっくいが / はげたらへんの / ぐびじんそう 

綺麗な575。

飼い犬句の二章一句立ての構成に対して、掲句は切れがない一物仕立てなので、川柳の切れがない文体を保っています。しかし、人間諷詠ではない写生句の様相をも呈している点で俳句っぽい印象も来ます(写生川柳もあるでしょうが、ここでは鑑賞が複雑になるのでその考察は割愛)。

漆喰とか、虞美人草から、京都御所の土塀と草花とか、なにやらゆかしい雅さや、侘び錆びがイメージとして立ち上がってきます。

  • 虞美人草は俳句の世界では春季語ですから、俳人は今の時期に読むと、ん?となるかもしれません。以前、川柳スパイラルの東京句会で小池正博さんに、この川柳句には季語に相当する語がありますが、どう読まれますか?と質問したことがあります。その時小池さんは「川柳人は、口が裂けてもそれを季語とは言わないでしょうね」的な回答をされていて、ガーンと来たのが思い出されました。。

なので、虞美人草はこのばあい、季語的色彩を一切持ちません、という前提で読みますw それによって、季語の本意を背景とした掲句の読みに立ち入らなくて済むわけですからたすかります。

さて、問題なのは、俗語?方言? 口語の際立った「らへん」の表現にやはり意識が集中します。剥げたらへん=剥げた辺り?と読みます。俳諧的な古色のイメージの漆喰の塀や虞美人草の間に口語を挟むことで一気に川柳っぽくなる感じです。

あと、剥げたらへんは文法的にありでしょうけど、読んで、ん??と意味を一瞬考えなくてはならない、意識の立ち止まりがあるということかなと。そのへんのちょっとした違和感に柳味があるのかもしれません。

黑い漆喰の土塀だったとして、その剥げ落ちて白やうす黄色に明るく変色している辺りに虞美人草がたおやかに咲いている。それが、日本画の背景のような印象に。一物仕立てですが、内容的には漆喰と虞美人草の対比による二物衝撃になっているとも取れます。

すべて、微妙な、俳諧と川柳の境界線を往ったり来たりしながら、読者の意識を細かく揺らすような技術が使われているようです。

前田雀郎の柳俳往来句のような風韻。二句とも微妙な意識のささくれや漣によって柳味をたちあがらせるという共通項があるようです。ほかの方が読めばもっと深い読み筋があるとは思いますが。

ほかにも、触れたい句はありますが、とりあえず、#ツイ川ア・ラ・モード ひとまず、完走といたします。ここまで、つたない読みにお付き合いいただいた方に御礼申し上げます。本当にありがとうございました。


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