楢崎進弘さんの川柳

「わたしの川柳は文芸をめざしていないし心情も表現しない。いうなれば路傍に生える雑草の小花そのようなものでありたいと願っている。
午後10:51 · 2021年6月7日·Twitter for Android」

ツイッターでフォローさせていただいている、楢崎さんのツイートだ。

今、『現代川柳の精鋭たち 28人集-21世紀へ 西暦二千年度版2800句』北宋社 を読んでいる。一人につき100句掲載されている。楢崎さんの部のタイトルは「震災以後」。阪神淡路大震災は1995年1月で、このアンソロジーは2000年発行。

楢崎さんも精鋭のひとりとして句が収録されているので繰り返し読んでいる。読むたびに不思議なワールドに引き込まれ、その不思議さがどこからやってくるのか?とわからないまま、また通勤の電車のなかでページをめくってみる。夜のデスクやベッドで楢崎句を味わう。その繰り返し。

冒頭の楢崎さんのツイートで楢崎ワールドの一端を覗くことができた気がして嬉しかった。とてもわかった、腑に落ちた!という段階ではないけど、一歩すすんだのだ。

楢崎さんのアティテュード(作句態度)は、究極の日常観(自然体で、しかしあるレベルまで突き詰めた川柳のゾーンに達した状態において)で、てらわず短詩に載せる、ということだろうか?。。。

繰り返し読むなかでみえてきた、自分が惹かれる楢崎さんの川柳の描写の、或る特徴をピックアップしてみる(これだけではないけど)。

片手から片手に移す水すこし
てのひらを閉じれば水の匂いがする
手を洗うたびにうすれてゆく緑
てのひらに疚しさを置き鳥を呼ぶ
ともだちと別れるときに熱もつ指
残業やてのひら淡く発光する
八月の階段うごく手の温み
中年のこぶしをひらく海辺の風景

すべて、手や指に関連する句である。なぜかとても惹かれるのだ。思えば手や指程日常に、密着したパーツはない。偉大なことやモノも生み出すけど、ごく日常のミニマムな所作に寄り添って働くからだの一部でもある。楢崎さんの句は日常の手指という部分を詠みながら、読みようによっては人生の深遠や真理を覗く事もできる作品だともおもっている。そこに惹かれるのかもしれない。

「わたしの川柳は文芸をめざしていないし心情も表現しない」ということでうあれば、ことさら技術的・分析的な読みをすることは無礼かもしれない。

それに2018年の半ばから川柳を始めた自分などには、ハナからそんな高度な読みなど出来ないのも現実だ。ここでは、いくつかの句を抜き出して簡単な感想のみ述べさせていただこうかと。。。

   片手から片手に移す水すこし

すこしだけど、繰り返すことができる。その集積はなにかを生み出すかもしれない。またなにも生み出さなくてもそのひとの日常をたしかに支える働きをしているのかもしれない。右手から左手にかもしれないし、自分から他者へかもしれない。水とは何か?そして水を移す量とは?。あらゆるものの量。そのひとの持つ才能の量。幸せの量。いろいろ考えさせられる句だ。

   てのひらを閉じれば水の匂いがする

心象句かなと。化粧水などなら、掌を開いて香るものである。閉じるとき匂うという一種逆説的な状況のささやかな措辞は、瞑想のようにほのかなポエジーを立ち上げてくる不思議さがある。水の匂いとは、自分に照らし合わせると、甘美な、透明な、根源的な、神秘的ながら日常的な。そのようなイメージ自体へ連想され、導かれていく。

   てのひらに疚しさを置き鳥を呼ぶ

疚しさ=やましさ。疚しさなんていう語を詠みこなしたことがない自分には特に惹かれる句だ。いつかじぶんもこの語の斡旋で一句をなしてみたいなと憧れる。疚しさは自分への負の心の働きであり存在。鳥は疚しさを餌としてついばんでくれる救いの存在の象徴なのかもしれない。腕に抱えきれないほどの疚しさではなく、てのひらにポロンと置くことができるサイズの疚しさ。とにかく、「てのひらに疚しさを置き」の措辞のセンスに惹かれるのだ。好きな句。

   ともだちと別れるときに熱もつ指

名残惜しさが「熱持つ指」に凝縮されているような印象が伝わってくる。指先から放射される何とも言えない別れ際の情感をこんなに具体的に(そして独創的に)詠むことができる語感に痺れる。はたして、じぶんには、別れるときに指が熱をもつような友がいるであろうか?。。。

   残業やてのひら淡く発光する

残業のテーマは、はたらくひとあるある、だけど、サラ川か?というとまた違った詩情があって一線を画しているとおもう。残業というのは負のイメージの語だけど、句全体で鑑賞すると淡々とした句の佇まいながら、不思議な光彩を放つ一種の美しいポエジーが揺れはじめる。青白い、生きることに伴う、淡い諦念のひかりのような。。。

   中年のこぶしをひらく海辺の風景

なにかあると、たちどまって、こぶしをひらく。繰り返し。てのひらからはホログラムのように毎回同じ海辺の風景が立ち上がる。楢崎さんの100句の収録タイトルが「震災以後」だから、もう今では見ることのできない海辺の風景なのかもしれない。また、全然違って、旅先の風景かもしれないし、風景の中に、ある特定のひとが居るかもしれない。いろいろ読める句だ。中年のこぶしのなかには、広大無辺な詩情が広がっているのだ。

以上、つたないが、感想をのべてみた。僕にとっては楢崎さんは生けるレジェンドの一人だから、日常でその新しい句を拝見できるのはものすごく幸運である。ツイッターに感謝である。

※楢崎さんのつぶやきを見て一気に書いたので、誤字脱字があったら、おゆるしください。









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