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コート・ダジュールと南仏の画家たち③

 アンティーブの駅を出ると、列車は起伏のない長い海岸線に浴って進んで行く。車窓の右手は砂浜が続く。サーファーや海水浴客の姿がちらほら見える。地形的には湘南に似ているが、光と空気の質感が全然違う。明るくゆったりとした南仏の海辺の情景が続いていた。
 こんなところでぼーっと過ごせたらどんなにいいだろうと、私は憧憬の思いで見ていた。毎年ひと夏をここで過ごす。溢れる光と爽やかな風と、どこまでも青い海を目の前に、ゆっくりと時を過ごす。そんなヴァカンスを夢想していると、列車は次の目的地、カーニュ・シュル・メールに着いた。
 駅を降りて大通りを少し歩いて左に入る。細い路地を進むといつしか急勾配の坂道になり、その先にあるのがカーニュの旧市街である。丘の上の猫の額ほどの土地に、家々は肩を寄せ合っている。石畳の路地はくねくねと続いていて、ピンクや黄色に彩られた家々の壁が絵の中の世界のように連なっている。
 坂道を振り返ってみると、家々の間からは、地中海が覗いている。有名無名を問わず、多くの芸術家がこの地に移り住んだと言われるのがよく判る光景である。
 来た道を戻り、大通りを少し進んで左に曲がる。坂を登って行くとそこにあるのが、ルノワールのアトリエである。
 アトリエ・コレット荘は、オリーブの樹々に囲まれ、オレンジの果樹園もある緩やかな坂一帯の広大な農園の中にある。
 1907年、老大家となったルノワールは、この農園を購入しアトリエを建設する。マネは生涯パリに居てパリの現在を描き続けたが、その弟分である印象派の画家たちはパリを離れ、それぞれの地で自らのモチーフに取り組んだ。モネのジヴェルニー、シスレーのモレなど、多くはパリ郊外のセーヌ河畔に場所を定めたが、ルノワールは南仏の明るい光の中にキャンバスを置いた。家も庭も、ルノワールの絵のように柔らかく、優美な世界が拡がっている。
 ー私にとっては、絵画というのは愛らしく、喜ばしく、かわいらしいものでなければならない。
 この言葉が示す通り、リウマチを患い紐で筆を縛りつけて描いた晩年に至るまで、彼の絵は人間味ある温かさに溢れていた。
 花々に彩られた前庭のスロープを上がり、邸内に入る。コレット荘はアトリエだけでなく、ルノワール家の生活空間でもあった。
 邸内にはルノワールや彼を信奉する画家の絵とともに、ルノワール家の写真などの資料も展示されている。食堂やキッチンといったかつての生活空間に、それらルノワール家の目常の一コマひとコマがあった。子どもたちが可愛らしい。画家の絵のモデルにもなっている。後に長男は俳優に、次男はフランスを代表する映画監督となった。
 庭に出ると柔らかな陽が落ちていた。広大な芝生が拡がり、オリーブや果樹園となっている辺り一帯は、緩やかに時を刻んでいる。
 庭から眺める光景は、ルノワールの絵の構図そのままである。同じ南仏でもそこは、セザンヌのエクスとは違う世界だった。地中海的な明晰とは少し違って、そこにあるのは、柔らかく、曲線的で優美な世界。私はその一角に腰を下ろし、芝生拡がる、樹々の間から遠景に拡がる家々を、悠遠な気持ちで眺めていた。
 
 
 再び大通りに戻り、バスに乗り、サンポール・ド・ヴァンスへ。山道を20分あまり上って行くと目的地に着く。
 コート・ダジュールには、人里離れた小高い山や急峻な崖の上にへばりつくようにして築かれた集落があちこちに散在し、鷲の巣村と呼ばれる。敵の侵入を防ぐために中世に造られたもので、周囲は城壁で囲まれ、細い路地は迷路のように入り組んでいる。建物も路地も当時のまま通っている。中でもサンポール・ド・ヴァンスは、シニャックやデュフィがキャンバスを置いて制作に励むなど多くの画家を惹きつけ、シャガールにいたっては晩年の20年をこの地で過ごしたという。
 私は期待に胸を膨らませていたが、バスを降りるとげんなりした。小さな村は、ツアー観光客によって占拠されていたのだった。村の細い路地をあちこち入って行っても、やがて前からも後ろからも彼らは押し寄せてくる。そうなると風情などあったものではないが、村自体はどこを歩いても絵になった。急斜面の細長い形状の中にある通りを歩く。広場や坂道の陽だまりは眼に鮮やかである。
 ポーラ美術館所蔵のシャガールの「大きな花束」には、村が小さく描かれる。題名の通り花束が画面の多くを占め、左下に背景として村の家々が見える。戦乱のなか移動を余儀なくされたシャガールは、サンポール・ド・ヴァンスに安住の地を得る。前面に花が大きく描かれるその絵からは、シャガールのかなしみが滲み出ているような気がする。
 バスに乗ってさらに奥に進む。しばらくするとヴァンスの村が見えてくる。こちらは丘の上の鷲の巣村なので丸い形状となっているが、居心地のいい素晴らしい所だった。
 まずツアー客がいない。急斜面にへばりついている訳でもないので、そこまで呼び物とはなっていない。必然的に村全体の雰囲気はとてもゆったりしていて、いかにも南仏の村といった風情である。
 入り組んだ細い路地は、どこに入って行っても趣きがあり、絵になった。路地を彩る草花も、石造りの家の渋味も、それらすべての光と陰のコントラストも、どこを切り取っても美しかった。次から次へと観光客が押し寄せるサンポール・ド・ヴァンスとは違って、村の人も普段通りの呼吸をしている。
 広場のカフェで休むひと時も気持ちよかった。次訪ねる時は、ここに滞在してみたい。しかし今回ここへ来たのは、村巡りとは別の目的があった。この村に、マティスの礼拝堂があると聞いていたからである。
 
 
 村から谷を挟んだ向こう側に、礼拝堂はある。といっても距離にして500mくらいで、ぶらぶら歩いて行ける。
 1943年、大戦の最中に、ニースから内陸へ8kmほど入ったここヴァンスに、マティスは避難する。そしてそこでドミニコ会の修道女から礼拝堂制作の相談を受ける。療養中のマティスを彼女が看護したという機縁から、彼はそれを快諾する。
 始めはステンドグラスだけのはずだったが、結局礼拝堂全体のデザインを任されることになる。建築の図面を書くのはオーギュスト・ペレだったが、内装から祭壇、司祭の祭服にいたるまで、あらゆる装飾はマティスの制作によるものだった。
 晩年のマティスは、鮮やかな彩色と思いきったデザインで、「スイミング・プール」などで知られる切り紙絵に移行する。ロザリオ礼拝堂は、その時代のマティスの総合芸術であり、画家の言葉を借りれば、画業の集大成である。
 白い壁に青い屋根。シンプルで美しい外観ではあるが、知らないで訪れた者には何の建物か判りにくい。空に向かって長く伸びた十字架に三日月が配われているのも、見る者を惑わせる。
 中に入るとそこは、天井も壁もいちめんに白い空間が拡がり、連続した細長の窓から幾筋もの光が差し込んでいる。壁には礼拝堂制作時の写真や、画家によるキリストのデッサン、よく見る一筆書きのような女性の顔の絵などが展示されていた。
 展示空間は写真OKだったが、礼拝堂だけNGだった。目に焼きつけるしかない。私にとってはコート・ダジュールへの旅の目的の一つがこの礼拝堂であり、旅の前からそのイメージは膨らんでいた。今、その空間に足を踏み入れるのである。
 礼拝堂に入り真っ先に目に飛び込んできたのは、ステンドグラスだった。いちめんに白の世界なので、それは瞬間的に目を射った。
 色は青、緑、黄の三色で構成されており、それぞれ空、植物、光を表すという。まず祭壇の向こうにあるステンドグラスは、青に少しの緑。その中に黄色い葉っぱが浮かび上がる。不毛な砂漠に花を咲かせ、実をつけるというウチワサボテンがモチーフになっているらしい。
 圧巻なのが側面である。壁いちめんのステンドグラスは、三色が上から交互にリズミカルに配され、夥しい光を室内に届けている。椰子の葉をデザインしたというそれは、伸びる光の影の長さが季節や時間帯によって違う。マティスはこの色の構成と配分を考え抜いてデザインした。
 もう一方の側面と背面の壁には、白いパネルに黒の線で聖母子、キリスト、聖ドミニコが、それぞれ輪郭だけで描かれる。マティスの線描が、光のシャワーの中で踊っている。そこに宗教色はあまり感じない。独特の祈りの空間である。私は光の粒子漂う空間を、しばらく見惚れていた。
 テラスに出る。色とりどりの花々の向こうに、ヴァンスの集落が一望できる。非常に気持ちのいい村の一角に、小さな祈りの空間がある。建築家のル・コルビュジエは、勇気を掻き立てられたと、この礼拝堂について語っている。
 コート・ダジュールの奥、ヴァンスの村。光が溢れ、爽やかな風流れるそこには、今もマティスの精神が息づいている。

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