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ポール・セザンヌ紀行②

 エクス・アン・プロヴァンス。強い日差しである。この町には、少し離れたTGV駅からバスで入るかマルセイユから地方線で入るかだが、どちらから入ってもゴツゴツした石灰質の岩山に陽が照りつけるプロヴァンスの風景が味わえる。石灰岩の白、緑、大地の茶色がグラデーションのように拡がるその世界は、まさにセザンヌの絵である。
 画家のエミール・ベルナールは1904年、マルセイユから当時開通したばかりの列車に乗ってセザンヌを訪問したが、その時にも車窓からセザンヌの絵の世界を見ている。ゴッホがプロヴァンスにやってきた時も、セザンヌの絵を思い出したと言っている。セザンヌの絵に慣れ親しんだ者にとっては、その風景は絵とは切り離せない。
 エクスの目抜き通りであるミラボー通りを抜けた先の、細い路地を入って行くと、セザンヌの生家がある。そこにあると知っていても気づかないくらいの、拍子抜けするような現れ方である。漫然と歩いていたら通り過ぎてしまうだろう。クリーム色の壁のその家は、通りに面した一階は入口以外に窓はなく、隣の塀越しに庭の緑が見える。
 ミラボー通りに戻ってすぐのところには、セザンヌもよく通ったカフェ・ドゥ・ギャルソンがある。1792年創業で、セザンヌが生まれる五十年近く前から、現在も同じ場所で店を構える。私は店には入らず、隣の店からしげしげと見つめていた。
 通りの北側は賑やかな旧市街で、南側は閑静なマザラン地区となっている。セザンヌの通った中学やデッサン学校はマザラン地区にある。中学では後に作家となるエミール・ゾラと知り合い、親交を深めて行った。
 旧市街の奥にあるサン・ソヴール大聖堂は、セザンヌの葬儀が執り行われた場所でもある。ちなみにベルナールがエクスを訪ねた際、大聖堂の前でセザンヌのことを訊いて回ったが、ほとんどの人がその名を知らなかった。ベルナールが訪ねた頃にはパリの社交界ではすでに絵画の革新者としてその名が通っていたが、地元エクスの人の間では興味の対象ではなかったのである。
 街から西へ15分も歩くと、左手に緑のある広大な敷地が現れる。東京ドームが軽く二つは入るだろうというその敷地の入口は、門が固く閉ざされている。ここはジャス・ド・ブッファンという施設で、プロヴァンス語で風の館という意味らしい。セザンヌが二十歳の時、銀行家として財を成した彼の父がここに別在を購入した。画家が60歳で手放すまでの40年間、エクスにいる時はこの歩いて15分の別荘を使用していた。
 もっとも、街から外れると広大なぶどう畑が拡がっていた当時と、住宅街が続く今とでは違う。マロニエの並木が印象的な中の景色は当時のままである。風の館の名の通り、樹々のそよぐ風の通り道は、往時と変わらない。
 この景色のなかで画家は多くの作品を遺した。上野の国立西洋美術館に、そのうちの一点がある。ちなみに日時指定のツアーを予約すれば中に入れるとのことだが、私は近くのホテルに一週間いながら、それを知ったのは日本に帰った後のことだった。
 
 
 サン・ソヴール大聖堂から北に向かって坂を登って行くと、セザンヌのアトリエがある。
 レ・ローヴの丘。画家が晩年になって建設したアトリエで、街なかにある自宅から、毎日ここに通った。夏の暑い日などは坂を登るだけで大変である。19年の再訪時は記録的な熱波がフランスを襲っていて、喘ぎながら私は坂を登った。
 初めて訪れた16年夏。入口を入るとすぐ、それは目に飛び込んできた。オリーブの木立の中に、特にこれといった装飾もない簡素な造りの二階屋がある。木陰の風は涼しい。背中の汗を乾かして、中に入る。入るとすぐに階段があり、上がった先にあるのが、夢にまで見た画家のアトリエだった。
 アトリエは、南側の縦長の窓からは抑制された光が差し込み、北側はいちめんに大きな窓枠が採られている。壁は目立たない渋い薄めの灰色で統一されている。すべて絵のために考え抜かれた設計だった。その空間に、画家の絵に度々登場するモチーフが置かれてある。
 中央のテーブルの上には、果物皿の中にりんごとオレンジの置物、無造作に置かれたテーブルクロス。傍らには瓶とグラス。右に視線を移すと髑髏が三つ並んでいる。上野でやっていたデトロイト美術館展で観た絵と同じ構図である。
 左の隅には、ずいぶんと年季の入った洋服と帽子が掛けられてある。120年前にセザンヌが実際に着ていたものが今もそこにある。
 セザンヌはいつも朝早く起きて、街なかの自宅から歩いて六時にはここに来る。昼前に自宅に戻って食事を摂り、午後は画材を持って自然のなかへ入って行く。時には5kmほど歩いて画材を置き、モチーフの山に取りかかる。私は少しの間、目を瞑った。
 画家はアトリエで描いている。しばらくすると、何かブツブツ呟きながら辺りをウロウロし始める。それでも足りない時は部屋を出て、階段を降りて行く。そのうち、何かを思いついたのか突如呻き声を上げて、再び階段を駆け上がり絵の前に戻る。ベルナールの著書「回想のセザンヌ」にある描写が、いま私のなかに蘇る。
 目を開けると見物客がいて、現在に戻った。初めて訪ねた16年は、静物や洋服などの展示される前はロープとポールで仕切られ、写真撮影も不可だったが、19年夏の再訪時は仕切りもなく写真もOKだった。その代わり日時指定の完全予約制となり、入口で日本語の音声ガイドを渡される。案内文の日本語はしばしばあるが、音声ガイドまで日本語が用意してあるということは、日本人も多く来訪するのだろう。私はもう一度部屋を見渡して、そこを辞した。
 エクスに一週間いた16年夏は、アトリエからさらに坂を登って行った。サント・ヴィクトワール山を遠望するためである。アトリエからこの山は見えない。しばらく進んで行くと、右側の家の切れ目から不意に、それは顔を覗かせた。何度も絵で観てきた山の形である。
 私はさらに歩を進めた。傾斜がなだらかになってきた頃、左手に糸杉や花々に彩られた空間へと続く階段があった。急いで階段を上がり振り返る。家々の屋根の向こうは低木とぶどう畑がグラデーションのように拡がり、地平線上に鋭角にちょこんと空を突いているのが、サント・ヴィクトワール山だった。その佇まいは、セザンヌの絵そのものである。
 辺り一帯は広場になっている。様々な視点で捉えられた画家の山の絵が、広場を取り囲んでいた。私は振り返って、地平線上にある実際の山をもう一度見つめた。そして思った。ここまで来たら、こう思うより他はない。
 ーあの山に近づかなければならぬ。


16年夏に初めての渡仏を決めた瞬間から、脳裡に浮かんだのが、エクスに行ったらとにかく、サント・ヴィクトワール山に迫りたいということだった。しかし距離がある。鉄道は通ってない。町から10kmあまり。車を借りるほどの距離でもない。歩いてもいい。本当はバスが山の近くを通るのだが、この時はそれを知らなかった。これほどまでに山に迫りたい理由は、セザンヌの絵の視点に立ちたいからである。
 セザンヌのサント・ヴィクトワール山への視点は大別して二つある。一つは、エクスやその周辺から山を遠望するもの。山までのなだらかな景色はパノラミックに拡がる。レ・ローヴの丘の上の広場から見える山もこの視点である。そしてもう一つが、より山に迫った視点で、日本ではアーティゾン美術館所蔵の絵がまさにこれである。前景の緑や茶色は粗いタッチで描かれ、そのすぐ先に、石灰質の山が大きく強調される。


 2016年6月23日、その日私は、セザンヌの絵のなかの山に、自転車で迫った。フランスはカラッとしていると言うし、自転車はさぞかし気持ちいいに違いない。日本にいる時は私はそう思っていた。しかし夏の南仏の突き刺すような日差しの中で自転車を漕ぎ続けるということが、こんなにも大変なこととは思わなかった。
 町を外れると遮るものがなくなる。ところどころ木立が続くが、思ったよりも起伏があり、汗は止めどなく出てくる。肝心の山はなかなか見えて来ないが、セザンヌの道と名付けられた一本道をひたすら東へ進むだけなので、迷うことはなかった。車はたまにしか来ない。自転車は時折見かけるが、皆、私と違って軽快に進んで行く。
 木立が続く中でシャトー・ノワールがあったが、入口は閉ざされていた。セザンヌの絵の視点であるあの上に行けば、山は大きな姿態を現すかも知れない。しかし先へ進むしかなかった。山は時折、木立の切れ間からその一部をちらちら覗かせるばかりだった。
 ル・トロネという小さな集落に着いた。木立の中に疎らに民家や商店が散在している。オープンスペースの広いカフェに入った。他に客はいない。ところどころに木洩れ日が差している。私はそこでアプリコットジュースを注文した。南仏の暑い日の休憩には最高である。
 自転車を漕いでいる時は流れ続けていた汗も、気づけばどこかへ吹き飛んでいた。このカフェでのひと時は忘れられない。車で来ていたら、こういうひと時は味わえない。決して楽ではないが自転車の醍醐味である。
 たっぷりと充電を済ませた後は、再びペダルを漕ぐ。ここからは起伏は幾分緩やかになるも、木立の中の走行はしばらく続いた。
 もうそろそろのはずである。もうそろそろ、左斜め前方に、待ち焦がれていた山が大きな姿態を現すはずだった。そして、その時はやってきた。
 力いっぱいにペダルを漕ぎ続けていたその時だった。木立は切れ、待ち焦がれていたものは不意に、目の前に現れた。予期していたことだったが、まったく思いがけなかった。
 ーおおぉぉぉ!
 まず石灰質の大きな塊が、空のなかに現れた。それをそれと認識した時には、周りの自然も意識の中で縁取られて行った。私はいちめんのぶどう畑の手前で無我夢中に自転車を降りた。なだらかに続くぶどう畑のすぐ向こうに緑の帯があり、その上に神々しいまでに岩塊は白く輝いていた。
 まさにセザンヌの絵のサント・ヴィクトワール山だった。というより、いま目にしている感覚が、セザンヌの絵だった。目の前の岩塊のヴォリュームと存在感。この感覚を絵にする。これこそがまさしく絵画である。私はしばらく時が経つのも忘れて、そこに立ちつくしていた。想いに想いを重ねた一つの山が、ただ私の前に置かれていた。

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