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セーヌ河畔のシスレー②

 パリのリヨン駅から地方線で20分もすれば、モレ・ヴヌ・レ・サブロンという駅に着く。のどかな田舎町風の駅である。さらに20分ほど歩けばモレの町に至る。
 町の門には、シスレーの絵が看板となって掲げられていた。傍にある観光案内所では、日本語版の地図にシスレーゆかりの地や描いた場所などが記される。ちなみにここから出るバスはフォンテーヌブロー城と往復している。どちらも駅からは距離があるので、パリからの日帰りで両方回る場合は便利である。
 門を潜って少し歩くと気持ちのいい広場があり、そこにもシスレーの絵の看板がある。さらに目抜き通りを200mも歩いて行くと町の反対側に出る。そこにロワン川とモレの橋があるのだが、その手前で右に曲がるとすぐ、教会が見えてくる。
 シスレーの「モレの教会」は全部で14点あり、それぞれ同じ角度で天候や季節、時間帯を変えて描いている。同じファサードを描いても午前と夕方では表情が変わり、まったく違った印象になる。そうしたところはモネの「ルーアン大聖堂」を思わせるが、形態は溶け込んではいない。シスレーらしい穏やかな色彩で描かれている。
 一つはパリのプティ・パレ美術館にあり、私はそれを観た上でここに来た。絵と同じ視点に立つ。教会は一つの塊となって私の前に置かれている。それ以外は空である。形態の質感。光の当たり方。空を流れる雲。すべてがシスレーの世界である。量塊から見え隠れする雲の流れを、私はしばらくぼんやりと見ていた。
 教会の近くに、シスレーの晩年住んだ家がある。シスレーはイギリス人だが、父が貿易商だった関係でパリで生まれ育った。裕福な父の援助もあり、画業の前半は恵まれていた。印象派の画家は裕福な家庭に生まれ育ったケースが多く、シスレーも例外ではなかった。画壇も世間もどこ吹く風で、自らの絵の追求のために生きるという彼らの姿勢は、それなりの家庭に生まれてないと難しいことだった。
 ところがそんなシスレーに転機が訪れる。父が破産するのである。父の遺産で何不自由なく自らの絵を追求できたマネやセザンヌとは違い、シスレーの生活は困窮した。パリを離れ、セーヌ河畔を渡り歩くようになる。晩年の10年をモレの地で過ごした。入口のプレートに刻まれたその家には、静かに陽が落ちていた。
 再び目抜き通りに戻り、ロワン川に架かる橋を渡って左へ。しばらく進むと芝生の拡がる気持ちのいい広場がある。そこから川を挟んで橋と町を見渡すと、それはそのままシスレーの絵だった。川は静かに流れ、アーチ状の橋が斜め上に伸び、町はきらきらと輝き、空はどこまでも伸びやかだった。
 川辺で二人の子どもが遊んでいる。前景に動きのある子どもが入ることで、さらにピトレスクな風景となったが、このピトレスクはシスレーというよりはルノワールだった。シスレーの絵には幸福そうな人や俗っぽい人は登場しない。彼の詩情を表現するには、その土地に根ざした生活者でなければならない。そこだけが、この美しい町の光景のなかで唯一、絵とは違っていた。
 そこからさらに川に沿って進んで行くと、二俣になっているところに出た。川辺の舗装されていない一本道は、シスレーの絵のなかを歩いている感覚になる。
 道は川と平行して空に伸び、対岸は背の高い樹々の列が埋め、川は視界の向こうでもう一つの川と合流している。合流点には小舟が浮かび、向こう岸の緑と建物がこの風景の一つのアクセントになっている。その上を占める透き通った空には、ちぎったような雲がいくつか浮かんでいる。抒情的な、シスレーの世界が拡がっていた。
 さらに川治いを進むとサンマメスに至る。モレから河川輸送の要衝の地だったサンマメスにかけては、シスレーの絵の舞台が点在している。しかし歩くにはかなり距離がある。帰りのことを考えると億劫だ。サンマメスに駅はあるが、モレから枝分かれしたその路線には、ほとんど列車はやって来ない。
 しかしそのまま歩いて行くと、やがてセーヌ河と合流する手前に橋が見えてくる。そこを渡ればモレの町に戻ることなく、モレの駅の裏手側にショートカットできる。できれば一日かけて、シスレーの絵の世界を巡りたい。
 印象派の活躍した時代は近代化まっただ中で、鉄道やレジャーといったその題材を描いた画家も多い。しかしシスレーの描く絵は、もっと普遍的な美しさを我々に示してくれる。

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