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セーヌ河畔のシスレー

 いつ頃からか私は、美術館で観る印象派の絵の中で、ある画家の絵の前に立ち止まることが多くなっていた。900点以上に及ぶ画業のほとんどが風景画で、パリ郊外のセーヌ河畔を生涯に亘って描き続けた画家、シスレーである。
 モネとシスレーは水を描き、ルノワールは人を、ピサロは大地を描く。あるいはシスレーは空を描くという評もある。
 ただ水を描いたといっても、特に水辺の光の効果に執心したとも言えない。なるほど空は確かに美しく、この画家を特徴づけてもいる。しかし空を描く画家というよりは、空によく表れる画家と言った方がいいかも知れない。
 面倒な話はさておいて、シスレーの絵はとても癒される。絵の前で釘づけになるのも癒されるからである。例えばセザンヌの絵を前にすれば興奮から思わず鼻息が荒くなるが、シスレーを前にした時は緩やかな詩情に包まれる。もし家に飾るならセザンヌは書斎で、シスレーはリビングがいい。いつ、どの美術展に行っても、シスレーの前では癒される。
 ただ癒しといってもシスレーの場合は、ルノワールのように温かい感じが全面に溢れている訳でもない。人間は描かれても小さい。空は大きく描かれるが、モネのようにその時の印象だけで思いきりよく描かれるという訳でもない。
 モネやルノワールは描きたいものを光の効果で描く。シスレーの場合は、光の効果で描くのは同じだが、空も水辺も、人間も、静謐な画面の中に収められている。描きたいものを思いきり描いているというよりも、画面は一定のトーンに保たれている。
 オルセー美術館の五階には、シスレーの絵も多くある。まず挙げるのは「洪水のなかの小舟、ポール・マルリー」。この絵からはシスレーの魅力が余すところなく伝わってくる。「洪水のなかの」とあるが実際には洪水の後の情景で、明るく澄みきった空からも、水嵩の増した水辺からも、小舟を漕ぐ人物からも、その瞬間が伝わる。
 印象派は一瞬の光景を描くが、シスレーのそれは、情景を謳いあげている。そしてそこには必ず、人間の営みがささやかに描かれる。自然のなかのささやかな人間の営み、その情景を、抒情詩のように謳いあげる。そこにこの画家の特質がある。
 オルセーでのもう一枚は、「モレの橋」。空と水辺を大きく描き、斜めに配された橋の向こうには教会が見え、モレの街並みが拡がる。橋の上には、やはり人間の営みがささやかに描かれる。シスレーらしい情景美である。
 モレとその周辺で多くの作品を描いたシスレー。その舞台は、アルジャントゥイユなどの他のセーヌ河畔の印象派の舞台とは違って、現在も変わらない風景が拡がっているという。私はそこに行ってみたくなった。
 しかしその前に、パリにいた頃のシスレーの家を紹介したい。偶然にもそこは、19年に滞在したホテルの間近だった。
 300mほどの一本の細い路地で、そこだけが賑やかなバティニョール街の中で、ひっそりとした異空間になっている。双方の入口は、車が通る時だけ門が開く。建物は道まで迫り出してなく、塀と門柱と樹々が両側に続いている。
 旬になると果実が成る樹々は、ところどころ花を咲かせていた。人はほとんど見かけない。たまに子どもの歓声が聞こえる。近辺の喧噪をよそに、そこだけが閉じ込められたようにひっそりとしている。
 シテ・デ・フルール27番地。そこにシスレーは住んでいた。

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