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ストラスブール考察

 16年6月29日。ストラスブール駅。イメージしていた駅に着いて、私は興奮していた。
 中心に町の象徴として大聖堂が聳えるストラスブール。しかしその駅は、そのイメージの凡そ対蹠点にあると言える。この駅を経て、大聖堂に至る。それがストラスブールである。ホームから駅舎である建物を出ると、目の前はすべてガラスになる。強烈に眩しい。しかしそこはまだ駅舎の中である。
 外に出て広場を歩いて振り返る。駅の全貌が明らかになる。19世紀の石造りの駅舎の外側に、巨大な楕円形のガラス張りが、駅舎すべてをスポイルしている。駅の再開発でここまで大胆な事例は私は他に知らない。
 駅舎をガラス張り空間に造り変えるということはよくある。例えば金沢駅は、大きなガラス張り空間に日本風の門を合わせ、話題を呼んだ。その意匠は斬新で面白いが、駅舎も門もすべてが新しい。
 それに対してストラスブール駅は、古いものをそのまま遺した上で、新しいものを大胆にぶつけている。古い駅舎すべてをガラスでスポイルするというブッとんだ発想を、本当にやってのけるのが凄い。しかもそれは奇妙なように見えて、絶妙に調和している。ルーブルのガラスのピラミッドもそうだが、新旧のまったく違うものを、いざ合わせてみると幾何学的調和をなすというのが、いかにもフランスらしい。
 駅前広場から旧市街に向かって歩いていると、モダンなトラムが目の前を通って行った。中世の街と言えるストラスブールの旧市街の中を行く先進的なトラム。これもまた、絶妙に調和している。
 もともと路面電車は洋の東西を問わず昔から走っていて、交通量の増加とともに廃止されて行ったのも洋の東西を問わない。しかし近年は見直され、環状道路を整備して旧市街から自動車を締め出し、そこにトラムを通すという街づくりを、多くの都市に先駆けて実現し、そのモデルとなった。これにより街は人で賑い、活気を取り戻す。
 ストラスブールは旧市街全体が世界遺産に登録されているが、そんな遺産の中にあって、新しい街づくりの機運を創った先進性は、この町の大いなる特性と言っていいだろう。
 先進性と言えば、この町では自転車レーンが広く取られている。歩行者も自転車も皆、定められたところを整然と進む。こういったところは、フランスというよりはドイツの感じが強い。
 極めつけは信号待ちである。皆、青になるのを待っている。何も驚くことはないのだが、フランス人は自分で判断して渡る人が多い。それに慣れてきた眼には、この光景は異様に映る。
 一見して日本人のそれに近い。しかしそこに何故か親近感はない。よく見慣れてるはずの光景だが、どこかが違う。日本においてはルールを守るというよりも皆に合わせる、という感じがすべてに行き渡っていて、信号待ちにそれが顕著に出る。しかし目の前で待っている彼らからは、何か別の意志を感じる。歩行者レーンも自転車レーンも、信号待ちも、すべては混沌から整然へと、自分たちで考えて定められたのであって、そこに疑問を挟む余地はない。そんなドイツ的な思考が見えてくる。赤信号、みんなで渡れば怖くないと言った芸人が昔いたが、目の前で信号を待つ人たちは、本質的に我々日本人とは違う人たちなのである。
 ストラスブールという町はどういうところなのか。地図で見ればフランス東部、ドイツ国境至近の一地方に過ぎない。しかしそれだけでは語れない多層的なものが、この町にはある。欧州議会が存在し、古くからヨーロッパの十字路と呼ばれるこの町の魅力、先進性は、今に始まったことではないだろう。
 
 
 ストラスブールは昔、町の名をシュトラスブルクと言っていた時代がある。というより、ストラスブールとシュトラスブルクのせめぎ合いを続けてきたと言っていい。現在は欧州議会も置かれ、近年は欧州統合と平和への発信地としての歩みを続けているが、古くはずっと、血で血を洗う凄惨な歴史の舞台でもあった。
 EUの本部があるブリュッセルのフランドル地方にしても、ストラスブールのアルザス地方にしても、その美しい豊穣な土地の下には、無数の屍が埋まっているとはよく言われる。三十年戦争からフランス革命、ナポレオンを経て、普仏戦争、一次大戦、そしてヒトラー、二次大戦と、長きに亘って仏独の間で翻弄されてきたのが、この地方の歴史なのである。
 元々この地方で話されてきたアルザス語はゲルマン語系で、ドイツ語の方言と言っていい。事実、三十年戦争の後にフランスの帰属となるまで、この地は神聖ローマ帝国、つまりドイツ側にあった。
 カトリックとプロテスタントによる宗教戦争にヨーロッパ中の国の利害が絡んで起きた三十年に及ぶ厄介な戦争は、当時のドイツの人口が半分以下になるという惨憺たるものだった。元々カトリックであるはずのフランスがプロテスタント側についたことで、勝敗の趨勢は決まった。
 フランス革命からナポレオンに至る激動の時代をフランスの中で過ごしたストラスブールは、次第にフランス化する。19世紀半ばには、ほとんどの人がフランス語で簡単な読み書きができるようになるまでになっていた。しかもそれは、当時のフランス全体で最先進の水準だったというから驚きである。
 フランス語が浸透し、フランス文化が根付いて行ったストラスブール。それはちょうど、パリ大改造を導いたナポレオン三世の時代だった。道路を広くし、街に光を通したこの大改造は、マネや印象派画家の絵の舞台ともなり、現在我々が目にしているパリでもある。対外的にもスエズ運河の獲得など、国民の高い支持を得ていたナポレオン三世だったが、最後に大失態を犯す。
 隣国ドイツの首相ビスマルクの世論誘導により火が点いた両国民のムードに乗ってしまい、宣戦布告。兵力も武力も劣るフランスの勝算は常備軍だけだった。徴兵制のドイツに即座に戦端を開き、一気呵成に攻め込んだはいいが、ほどなくして反撃に遭い、敢えなく敗北。すべては両国の世論を巧みに動かし挑発したビスマルクの掌中にあった。フランスの甘い見通しにより、アルザスは再びドイツの保有となった。
 しかしシュトラスブルクの時代は50年と持たなかった。第一次大戦の戦後処理により再びストラスブールに。その後はナチスの侵攻もあり、さらに短いスパンでフランスとドイツの間を行き来する。
 第二次大戦後、仏独の間で翻弄されたこの町こそ、平和への発信地にとの思いから、欧州議会が置かれる。
 旧市街の外にある共和国広場の慰霊碑には、母子像がある。息子は二人で、それぞれ東西、つまりフランスとドイツの方角を向いている。二人の息子を抱きかかえる母は、ストラスブールを表している。
 
 
 フランスの地方都市にしてヨーロッパの中心都市。大聖堂の聳える先進都市。旅する前からあった私のストラスブールのイメージである。それら二面性はそれぞれ対蹠点にありながら、であるが故にか、合わさった時にはそれぞれが絶妙な調和をみせる。
 この町にまつわる話は数多い。あのフランス国歌ラ・マルセイエーズも実はここ、ストラスブールで産声を挙げたという話である。マルセイエーズとある通り、フランス革命期にパリに北上したマルセイユの兵士たちが口ずさんでいた歌がパリ市民に流行したのが由来である。しかしその少し前に、ストラスブールの兵のために作られた「ライン軍のための軍歌」が元ネタだったという。
 また古くからヨーロッパの十字路と呼ばれるこの町は、南北はライン川交流のルート上にあり、東西はパリからウィーンやプラハに至る結節点とも言える場所に位置していた。
 グーテンベルク、エラスムス、カルヴァン、モーツァルト、そしてゲーテ。この町にゆかりのある人物は多い。言わば、国家の中では辺境に位置したストラスブールは、ヨーロッパ文明の最前線であり、中核だった訳である。
 大聖堂はじめ歴史ある建築群のなかに、モダンなトラム、欧州議会などの現代建築、自転車専用道路、そして古典と近未来が絶妙に調和した駅。今も大聖堂は天空を突き、周りをそれら先進的な結晶が輝いている。
 ある時、大聖堂下の広場をセグウェイの一団が走っていた。垂直に伸びる重厚な大聖堂の下を、近未来の乗り物が軽快に水平移動している。違和感は少しもなく、絶妙なる調和の瞬間がそこにあった。
 天を突く大聖堂はじめ歴史の重層が厳としてあるからこそ、先進の事物も際立ってくると言えるのではないか。
 よく知られるグーテンベルクの活版印刷もこの町、ストラスブールで起きた。大聖堂からも近いグーテンベルク広場には像がある。当時この町には、彫金師や鍛冶屋などの活版印刷に必要な技術と材料が揃っていた。それらを駆使して、入れ替え可能な金属活字で聖書を印刷したグーテンベルクだったが、商業的には大した成功は収められなかった。しかしその技術は、後のルネサンスや宗教改革、啓蒙時代に大きな影響を与えて行く。特に宗数改革での伝播の速さと大きさは決定的で、後世の社会に知識と情報の近代化を促した側面は計り知れない。
 近代細菌学の開祖と言われるパスツールも、ストラスブールで研究を続けた。家が皮なめし業を営んでいたことから、そこで使う酒石酸の性質を解明し、ストラスブール大学の教授に。以降の活躍は目覚ましく、ワインの腐敗理由を調べるうちに、アルコール発酵が酵母によることから、低音殺菌法を開発。微生物が発酵や腐敗を引き起こすことから、微生物が病気の原因にもなるという想を得て、予防接種によるワクチンの開発に繋がって行く。科学の進歩を先取りし続けたそれらの業績によって、後世に与えた影響は計り知れない。
 サッカーのイングランド・プレミアリーグのアーセナルで長く指揮を執ったアーセン・ヴェンゲルも、出身はアルザス地方で、ストラスブールで育っている。2003-04シーズンの無敗優勝は広く知られるが、この監督が偉大なのは、キック&ゴー一辺倒のイングランドに新しいサッカーを植えつけ、プレミアリーグの大勢を変えたその先進性にある。攻撃の機会を増やすことで、創造性の発露を促す指導。黒人選手の走力を、サイドを上下動することで活かした戦術。食事管理なども含めて、現在当たり前のように行われているこれらのやり方も、ヴェンゲル・アーセナルがもたらしたものだった。
 先進性が脈々と息づく町、ストラスブール。その中心には、今も大聖堂の尖塔が、天空を突いている。私は、旅する前から、そのイメージを瞼に浮かべていた。大聖堂の尖塔は、天に向かって、真っすぐに伸びている。
 
 
 大聖堂を目の前にして、私はカフェで休んでいた。陽を浴びて燦然と輝き、赤味がかった壮大にして垂直な壁は、空の一角を占めている。幅51m、高さ66mの堂々たる建物正面と、その上にぐんぐんと伸びる尖塔は、142m。1439年の完成当時は世界一の高さを誇ったという。下にあるカフェから見上げると、頭上の遥か彼方の空を突いている。
 あのてっぺんから俺は今、降りてきたのだ。興奮が再び襲ってきた。私は今日のこれまでの行程を振り返った。ホテルを出て、イル川の川辺を散策しながら、中洲になっている旧市街の中へと入って行った。すぐ眼を射ってきたのは、建物の肩越しに見える塔で、それは紛れもなく大聖堂の尖塔だった。
 私は逸る気持ちを抑えながら、ゆっくりと進んで行った。グーテンベルク広場を抜けると、アルザス風の木組みの家が並ぶ通りの正面に、これまでに何度も臉に浮かべた大聖堂が、唐突に大きな姿となって現れた。両側に土産物屋が並ぶ通りを、大聖堂に向かって一歩、また一歩と足を進めた。
 目の前に来た。広場を挟んで、ゴシック調に装飾が施された巨大な壁がそそり立ち、両側からは、五、六階はあると思われる木組みの家がそれに迫っていた。
 三方から建物が空に伸び、視界から青空の多くは遮られていても、その景色は圧倒的なスケールで私に迫ってきた。目の前の巨大な壁の左側上部に、真っすぐに伸びた塔が頭上の空を突き刺していた。
 大聖堂の尖塔を登ることはあまりないかも知れないが、このストラスブール大聖堂だけは上まで登らなければならぬ。
 私は螺旋階段をぐるぐると上って行った。人が一人通れるくらいの狭い階段である。降りて来る人とすれ違う時は止まらなければならない。螺旋階段なので踊り場もない。そうして、いつ果てるとも知らぬ暗い階段を、延々と上って行った。途中いくつか窓があり、光が差し込んだ。いつしか木組みの家の屋根が眼下に拡がり、下の広場はみるみるうちに小さくなって行った。
 66mの高さから眺めるストラスブールの街並みは壮観だった。街を上から眺めることはあまりないが、それでも、他のフランスの街と比較するとやはり異質に見えた。
 他のフランスの街にあるような、どこかゆるい感じはこの街にはない。いたるところ整然としていて、濃淡さまざまな緑に彩られたアルザスに抱かれた美しい街である。普仏戦争の時の被害は甚大だったようだが、見事に修復した。若き日のゲーテが見た18世紀後半とほぼ同じ美しさが今も拡がっている。
 街並みの向こうには、欧州議会などの現代建築も見える。旧市街はもちろんだが、旧市街の外を見渡しても、高層建築はほとんど見受けられない。
 東側に視線を移すと、少し様相が変わってくる。街並みの向こうに現代的な白い建物が見え、その向こうには深い森が拡がっている。あそこはもうドイツである。5km先のドイツから、この町に通う人も多いという。
 目の前に聳える尖塔は高さ142m。ここからさらに80m近く上である。尖塔は空に伸びている。青空に浮かぶ雲は摑めそうだ。視界の端から、飛行機雲が、一筋に空を描いて行く。
 不意に、鐘の音が間近で鳴った。それはしばらくの間、ストラスブールの街に響いていた。

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