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使徒言行録5章1節ー11節

「教会は主のもの」
新しい年最初の日曜日。初めてのことには印象が残るものです。実は使徒言行録で初めて教会と言う言葉が出てくるのが今日読んだ5章なのです。しかも緊張感漂う場面なのです。アナ二ヤとサフィラ夫妻が土地を売り、代金を使徒たちの足元に置き献金するのです。別に売った全てを捧げる義務などありません。代金の一部でも構わないのです。それを代金の全てだと偽ったと言うのです。神への欺きでした。この偽りによって彼は息絶えてしまいます。

恐らく、彼らは4章に登場した模範的な信仰者バルナバの向こうを張りたかったのではないでしょうか。自分たちも称賛を浴びたい。神を見上げずに人を意識する比較の世界に、誘惑が働き、サタンが心を満たしてしまうのです。キリストにある新しいいのちの満たしと、そこから生まれる新しい生活がないところでは、そのまま進むと遅かれ早かれ死と破滅だと言うことを覚える必要がありましょう。

3時間後、ペテロは使徒としてアナ二ヤの妻サフィラに問いただします。これは厳しい糾弾と言うよりも、彼女の口から悔い改めが語られる機会を与えたと理解すべきでしょう。教会は地上で罪をゆるす権限を与えられているのです。確かに悔い改める者にはゆるしが与えられやり直すことが出来る。これが福音です。しかし、悔い改めを拒み、あくまでも誤魔化そうとする者は悔い改めに導き、いのちに満たす主の霊を拒むことになるのです。

他人事とは思えません。私たちにしても罪を犯す存在でしょう。しかし恵み深い主は決して問答無用で断罪なさるようなお方ではないのです。こちらの言い分にも耳を傾けて下さり、悔い改めの機会を与えて下さる方でもあることを感謝しましょう。聖霊が臨まれるとき、頑なな心で拒むのではなく、主の前に砕かれた心で祈り告白することが求められているのです。主はその心を受け止めて下さるお方です。

大切なのは、この事件の結果、教会全体におそれが生じたことなのです。このおそれは恐怖ではなく、主なる神への畏敬の念がますます強められたことを意味します。地上にある教会は天国ではありません。従って問題も起こりますし、もめごともあることでしょう。しかし何かが起こった時に主が立ちあがって下さいます。なぜなら教会は主の教会だからです。そのたびに私たちは生きておられる主を崇め、ますます畏れ敬う心が与えられるのです。

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