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第二ペテロ3章15節ー16節

「ペテロの尊敬する人」
使徒ペテロは主イエスの忍耐深さについて語るのです。実際、主の忍耐がなかったならば、救われる人などひとりもいないのではないかとも思うほどです。感謝なことに神は決して短気な方などではないのです。むしろ神がいかに神の民に対して寛容で忍耐強くあられたかを聖書は力強く証言しているのです。現に、当のペテロ本人にしても主イエスの自分に対する忍耐を何度となく体験してきただけに説得力を増すことではないでしょうか。

これは私たちに対する励ましでもあるのでしょう。これからも私たちは失敗をすることでしょう。迷いもするはずです。過ちも犯すだろうし、罪も犯すかもしれません。だからといって主が私たちをお見捨てになるということなど絶対にあり得ないことなのです。そんな心配は無用です。かえって主は忍耐をもって私たちと関わって下さり、最後まで導き通して下さいます。その主の忍耐こそが終末がまだ訪れない理由だと言いたいわけなのです。

ここでペテロはパウロの名前を出しています。それはこの時代、パウロの手紙があちこちで読まれ影響を持っていたことが念頭にあるからだと思われます。しかもペテロはパウロを愛する兄弟と呼びます。主にある同労者として尊敬を払っているのです。ライバルではありません。主イエスの語ったこととされたことは神がパウロに与えた知恵によって整理され、福音として伝えられました。パウロの信仰理解とペテロの信仰理解は一致しているのです。

別にパウロの福音やペテロの福音があるわけではないのです。福音を伝える人は多くいたとしても福音はひとつなのです。奉仕は種々あるにせよ福音はひとつです。今もそうです。多くの教会が様々な教派に分かれ、特色を生かして存在しています。しかし、福音においては一致しているのです。私たちだけの集団だけが真理を握っていると思うことほど危険極まりないことはありません。むしろ福音は孤立ではなく豊かな交わりを生むのです。

ところでパウロの手紙の難しく理解しにくい箇所とはなんのことでしょう。想像するに信仰義認に関する教理のことを指しているのでしょう。救いは恵みによる。行いではない。この立場を曲解した一部の人たちが救われたのだから何をしても自由だろうと履き違えて、間違った考えを広めていたことが背景にあるのです。しかし、もちろんそれがパウロの本意ではありません。自由どころか滅びに至る道にすぎないと戒められているわけです。

実際は、恵みによって救われた者は、その恵みを無駄にしようなどとは決して思わないことでしょう。感謝しながら主の愛に精一杯お答えしていこうと願うものではありませんか。そこがわからずにやりたい放題に生きようとする人は学んでいないと言われても、心が定まらないと言われても無理はないのです。私たちは絶えず聖書を指針として、聖書がなんと言っているかに注意深く耳を澄ますひとりひとりでありたいと願わされるのです。

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