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第二ペテロ3章10節

「主の日」
記念日は毎日のようにあるわけですが、使徒ペテロがここで見つめているのは主の日です。主の日とは旧約聖書からある古い表現なのです。もともとは神がイスラエルに勝利と解放をもたらす喜びの日として理解されていました。しかし預言者が主の日とはむしろイスラエルへの審判の日だと伝え直します。ペテロも預言者の伝統を踏みます。主の日は救いが到来する終末であると同時に主の審判の日でもあるわけです。

大切なのは主の日は人が予測できるような形ではやってこない点です。盗人が突然来るようにとあるのは主イエスも言われたことでした。その日を計算することなどできないのです。ある日突然不意に訪れます。私たちにできることは主の日がいつ来てもいいように目を覚ましておくことなのでしょう。不眠不休でいろというのではありません。普段の生活を営みつつ、いつ訪れがあってもいいように備えておくということではないでしょうか。

その日、何が起こるのかと言うと、天体が消え失せ、自然界の諸要素が溶けるとあるのです。これを必ずしも文字通り理解して空から星が落ちてくるのかと理解する必要はありません。当時、王や皇帝、権力者は太陽、月、星といった天体の動きの諸要素に支えられて権力を保持していると考えられていたからです。星占いにも似ています。それらが消えるとは、人間の作ったあらゆる権力構造が無に帰してしまう日が来ることを意味するのでしょう。

地とそこにあるものが暴かれるとあるように、今まで当たり前と思ってきた価値観がいかに脆く、あっけなく崩れ去ってしまうものなのかが如実にその正体がはっきりしてしまうというのです。それなら、そういう力に頼ることは避けた方がいいでしょうし、そのような崩れゆく世界にどっぷりと浸かる生き方からも距離を置き、遠ざかったほうがいいのです。そんなものは一時的繁栄に過ぎず、やがては消え去ってゆく栄光に過ぎないからです。

ところで、暴かれるというとどうしても否定的な印象を持ってしまうのですが、そうとも限りません。明らかにされると訳してもいい言葉だからです。それなら、今まで無視されてきたことや、不当な扱いを受けてきたことがかえって評価されるようになる時でもあると前向きにとらえてもいいわけです。だからこそ私たちは世間の評価にいちいち一喜一憂することなく、たんたんと主のわざに励みたいものです。

その日には主が王の王としてすべてとなって下さることでしょう。すべての栄光が主に帰されることになるでしょう。主が正義をもって治めて下さることでしょう。もちろんそれは今ではありません。しかし、その時を今か今かと待っている私たちなのですから、この方のみを礼拝をお捧げしたいのです。私たちの唇をもってこの方をほめたたえ、賛美しようではありませんか。マラナタ、主よ来てください。

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