見出し画像

エズラ3章                

帰還した民は、エルサレムに集まって主への礼拝を始めます。礼拝があってこそ、神殿の基礎工事も意味を帯びてきます。イスラエルは苦難の連続、歴史の波にさらされてきましたたが、主の恵みといつくしみは変わることがなかったと、心から歌うことができたのです。なぜ、民は大変なところを潜り抜けながら、主の恵みに立てたのでしょうか。それは罪の自覚の深まりによってとしか言いようがありません。

とは言え、神殿の基礎が据えられた時の人々の反応はそれぞれです。老人たちは泣き、若い世代は喜びました。しかし、嘆きも喜びも同じ主に向けられたのであるなら、意味はあるのです。自分はこの程度の奉仕しかできないと申し訳ない気持ちで嘆く人もいるでしょう。かつてはもっと色々なことができたのに。自分の奉仕はこれで精いっぱいだと満たされている人もいるでしょう。

神があなたの奉仕を用いる以上、自分の限界以上の結果が必ず与えられると信じることもできるはずです。自分の限界はここまでと勝手に線を引くこともないはずです。主のわざは自分の思いをはるかに超えるのです。

なぜなら主は将来を創られる方だからです。私たちは現時点のことだけを見て悲しみ、喜びます。しかし、それは大きな主の計画のプロセスの一部にすぎないのだとどこかでわきまえておきましょう。その先があるのです。悲しみはやがて喜びに変えられます。喜びはさらなる喜びへと高められます。私たちが主のためになしたことは無駄ではない。教会の今までの歩みもプロセスにすぎません。ここが終点ではない。わたしたちの目的地は永遠なのですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?