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使徒言行録3章11節-26節

「命への導き手」
人が集まるにはそれなりの理由があります。舞台はエルサレム神殿です。ペテロの周りのソロモンの廊に人だかりが出来ます。無理もありません。足が不自由な男がいきなり歩き出したのですから。ペテロは集まる人々にやおら説教を始めます。強調されているのは主なる神です。自分がこの男をいやしたのではない。主の御名なのだ。あなた方が信じている先祖の神がなさったことなら驚くまでもないことではありませんか。
 
自己宣伝でも消極的な沈黙でもありません。私たちがするのは神の僕イエス様を紹介することです。そもそもイエス様が生きて働かれるならば、人々のほうで勝手に私たちのところにまで集まってくるのです。そういう相手に主を紹介することなら、自信をもって勧めることができるはずではありませんか。なぜなら、わたしは知っているからです。この方がわたしの救いですと。あなたも必ず救われますと。
 
ところでペテロはイエス様を聖なる正しい方とも呼び、いのちの君と呼んでいます。聖なるとはこの方が救い主だという告白です。正しいとは人格的にも正しい方ということです。しかもこの方は新しいいのちの創始者として救いを生み出すことのできるいのちそのものです。そんな素晴らしい救いなら誰もが欲しいと望むでしょうか。そうでもないのです。人は正しいもの、必要なもの、を拒み、亡きものにしてしまうことがあり得ます。
 
身につまされます。正しいとわかっていてもみ言葉に従えません。必要だと気づいても、決断できません。それどころか無視し憎みさえする。安住にとどまろうとする。かえって自分に滅びに招きかねないものを愛するどうしようもない矛盾を抱えているではありませんか。それでも人を救う神の意志は何にも最後まで成し遂げられるのです。そういう者だからこそ救われないといけない憐みを神はお持ちです。
 
死人がこんな力を持つはずがない。実際、神はキリストを墓の中から復活させて下さいました。いのちそのものである方が死に閉じ込められたままであるわけがない。いのちの君を死に追いやった私たちを生かすのです。この方が生きておられるなら、その驚くべき愛の前に私たちは抵抗をやめるのです。罪に対して無知であった者に福音が告げられました。それなら心の向きを神へと方向転換する時なのです。
 
何故なら、キリストはあなた方に遣わされた僕であり、預言者なのです。あなた方を悪から立ち帰らせ、祝福する方です。自分には無関係だなどと言えません。この方に従う責任があるのです。逆から言うとこの救いを拒む責任重大さが測られているわけです。福音に預かっている私たちはこの恵みのうちにどこまでもとどまり続け、福音を証しする者でありたいのです。

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