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新たな命の誕生を迎えて思うこと

先日、おかげさまで無事に子供が産まれました。

「天使のような寝顔」という表現がぴったりの顔ですやすや寝ています。
命がお母さんのお腹に宿るという現象はまさに神秘で、僕には天から贈り物としか思えません。
どの子もまさに天からのお使いなのだと思います。

そして、赤ちゃんを見ていると、みんな最初からすべてが備わって生まれてくるのでないかと感じます。
備わっているんだけれど、開花していないというか。

あくまでこれは感覚的なことなのですが、その開花していない自分の芽を一つ一つ見つけて花開かせていくことを「成長」と呼ぶのではないかと感じます。
ですから、成長するということは、外にある新しいものを獲得していくというよりは、元々内側にある、まだ気がついていない自分を見つけて磨いていくこと、と言い換えてもいいかもしれません。
私たちは元々宇宙のように完璧なんだよ、と赤ちゃんが教えてくれている気がします。



一方で、僕の父はいま急速に人生の最期を迎えようとしているように見えます。
認知症になった父の晩年は、まるで子供に返っているかのようでした。
良い意味で「我がまま」で生きている。
記憶ということをしないで生きているので、まさに今だけを生きている。
人間は現世に生まれて、生きて、また元に還って行くものなのだなぁと思います。



私たちの魂は、元々一つのものから生まれている、という話を聞きました。
僕にはそのイメージがすんなりきます。
一つのところから生まれて、また一つのところへ還って行く。
そこではきっとすべての生きとし生けるものが渾然一体となっていて、私たちは元々一つだからこそ、他の命との一体感を感じられるのではないかと思っています。
大豆を炊いているとき、僕がかまどや豆と一体になっている感覚を得ているのも、不思議なことではないのかもしれません。



さて、これで僕は7人の子の父親になりました。
赤ちゃんが産まれたのと時を同じくして、前妻との第一子が成人しました。
こんなに長く子供の成長に関わらせてもらえることは、この上なく幸せなことです。
そして、未だに自分も子供のようでいられることを嬉しく思います。

子供が成長する姿を見ることがなぜ幸せなのかといえば、きっと自分もそれと一緒に成長しているからだと思います。
私たちは、他者に何かを与えると同時に何かを受け取っている。
共に成長できることが、他者と共に在ることの一番の喜びではないかなと思います。



赤ちゃんの名前は「大空(そら)」と名づけました。
空は、「そら」でもあるし、「くう」でもあると思います。
自分が「くう」でいれば、「そら」の流れにお任せして生きられるような気がしています。
大空を羽ばたくように自由に生きて欲しい、というのが、たった一つの親としての僕の願いです。

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