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短編小説:AM3:00

 カウンター席の片隅、寂びれたイタリアンバー。客は自分と、隣に座る女性だけ。
 カウンター越しのバーテンダーは気怠い顔で、ついさっき出て行った客のグラスや食器をシンク台で洗っていた。
「午前三時ね」
 スカーフを首に巻き、少しだけ皺が目立った顔。三十路過ぎの女性は俺に向かって言うと、Y字型をした小さなグラスを爪先で持つ。その中には、白く濁ったカクテル・バラライカが入っていた。
 彼女はそれに口をつけ、半分まで飲む。静かにグラスをカウンターへ置くと、流し目で俺を見た。
「もう一件って気分じゃないわ。それに、もう『一回』もね」
 ジャズピアノの曲が店内音楽として流れている。
 彼女は怒っているかもしれない。俺からは何も言えないし、今日のこの店で締めるつもりだ。
「貴方、二十歳でしょ」
 よくこんなおばさんを選ぶ気になったわね、と言いたそうな表情を浮かべながら彼女は、コートのポケットから煙草の箱と、ライターを取り出す。それに釣られて俺も煙草が吸いたくなった。
 十八歳から酒と煙草に溺れた。今吸ってるのは、ハイライト。手元にある酒はスミノフ。ついでに言うと、女の味も今日知った。
 多分、彼女にしてみれば、不完全燃焼な運動だっただろう。
 もちろん、自分で何をやっているか分からない。でも、あの肌寒い繁華街で男と金を求めている彼女の顔をちょっと見ただけで、自然と体が動いていた。
「お待ちどうさま」
 顎に無精ひげを生やしたバーテンダーが、俺と彼女の間に皿を置く。その上には、オイルサーディーンで味付けされた、イワシのマリネが夜食に相応しい匂いを醸し出している。
 彼女は何も言わず、皿と一緒に添えられたフォークを使って料理を口に運んだ。
 俺は黙々と煙草を吸い、吸殻を灰皿へ落とし、酒を飲んだ。
「なんで、キスをしなかったの」
 ナフキンを使って唇を拭く彼女は、俺が一番聞かれたくなかった疑問を口に出した。俺は彼女の、柔らかい唇を見る。
 隠してもしょうがない。元から嘘を突くのが苦手な性分だ。ここは正直に話そう。
「ファーストキスは、まだ駄目なんだ」
 我ながら恥ずかしい本音。それを彼女が嘘か真か。どちらを選択するのか。俺は十中八九、嘘だと彼女は信じるに違いない。
 こんなことをする男に、いざこんなことを言われて信じる方がおかしいのだ。
「あら、そうなのね。それじゃ仕方ないわ」
 もう一度、唇にバラライカが入ったグラスを付け、残っているそれを一気に飲む。空になったグラスを置いた途端、俺の顔を見るなり平手打ちが飛んだ。
 パァーン、と勢いよく音が鳴り、右頬に痛みが伝染する。俺は何が何だか分からずに唖然とすると、彼女は俺の首へ手を回し、顔を近づける。
 接吻。柔らかいと思っていた彼女の唇と俺の唇が、不本意にも合わさった。その時間は一瞬で終わりを告げた。
「私はね、遊びの恋愛は嫌いなの」
 彼女は妖艶な笑みを浮かべながら、ナフキンで唇を拭く。彼女が飲んでいたバラライカの香りが、俺の唇に漂っていた。

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