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舞台芸術(音楽ライブ含む)の一回性について

昨今、音楽ライブを中心に、観客のスマートフォンによる静止画・動画の撮影およびネットへのアップロードが増えてきた。
禁止にする公演(主催者の意向かアーティストの意向かはケースバイケースだ)もあり、むしろプロモーションのため推奨する公演もあり、対応は別れている。どちらも間違いと正しさを含んでいると思う。また、禁止ではないが、できるならやめてほしいというニュアンスのお願いを出している公演もあるし、禁止にはしないが個人的には好きではない、と公言するアーティストもいる。
そのお願いや、アーティストの気持ちは、禁止でないなら無視していいものなのだろうか。

舞台芸術の特徴は一回性(アウラ)にあると思っている。わたしは作品のアウラを守るため、普通の舞台制作者ならする、記録撮影すらしない場合がある。作品映像の販売や動画のアップロードは今のところするつもりはない。せざるを得ないパンデミックを超える事態が起こることや、プロモーションについての考えが変わることはあるかもしれないが、舞台作品を撮影した映像を、作品と呼ぶことはないと思う。

音楽ライブの観客による撮影は、海外のオーディエンスの文化だという説明を聞くが、本当にそうなのだろうか。撮影禁止の日本でのライブでも、かなり撮影する日本人を見かけるようになった。

ここからは私の芸術観の話になる。
舞台作品は、膨大な情報でできている。パフォーマーの動き、衣装、照明のタイミング、スモークの量、美術、生の音、それは絶対に映像では全ては映らない。プロが撮影し、音を録音しミックスしたものでも、それはライブそのものからははるか遠いものだ。そして、映像だけを見て作品とアーティストが判断される、これは作り手にとっても観客にとっても不幸なことだと思う。素人がスマホの脆弱なカメラと録音マイクで録ったものなら尚更だ。アーティストはそれをチェックすることができない。作品のアウラを、アーティストを守ることができない。映像に残ってしまう。心を動かす総合的な芸術のほんの一部が切り取られ、些細なミスやピッチのズレが世界に拡散される。その場でライブで聴けば、それも含めてライブで、むしろ勢いのある演奏だと感じるものでも。

私は、観客によるスマホでの撮影が芸術作品のアウラを、アーティストを損なうと思っている。だから人に何かを強制するものではない。私がそう思っていることを表明しておく。

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