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「自分の人生は自分だけのものではない」覚悟を決めて人生を再スタートさせた双子のお兄ちゃんの話 | 西田 悟視

こんにちは!

今回は今までの人生と私の生き様をお伝えする為に
自己紹介を書こうと思います。

私の人生は、双子という人とは少し違う形でスタートしました。

今振り返ってみると、年少時代は「顔一緒やん!」と言われることが辛く、双子で生まれてきたくなかったとお母さんに伝え、泣かせてしまうことがありました。

しかし、今は心の底から双子で生まれてきてよかったと思います。

本当にありがとう。

今ではそう感じ、双子がきっかけで人生を再スタートさせた私について
の31,439をぜひ読んでください。

保育園時代 ー人の目を気にして生きるようになるー

皆さんは何歳からの記憶がありますか?
赤ちゃんの頃からの記憶があるという方もいれば、小さい頃の記憶はもう全くないという方もいると思います。

私の記憶は4歳の保育園の年少クラスに入る前からスタートしました。

今でもはっきり覚えています。

お母さんが運転するマーチの助手席に乗り、どこかから家に向かっている時から私の人生の記憶がスタートしました。

私は一卵性双生児として生まれました。

さとしとやすし。

さとやすといつも家族や友達から呼ばれていました。保育園に入る前までの私は双子であるという自覚はありましたが、人とは違うということについては自覚していませんでした。

保育園に入ってからも双子ということに対して特に意識はしていませんでしたが、
ある日をきっかけに双子であることを自覚しました。

あの子たち顔一緒やん。双子や。

保育園ではなく、外出先のスーパーかどこかで全く知らない人に言われました。
そして、この言葉を言った時の表情は僕たちのことをどこか不思議な存在、変わった人としてみているのがわかりました。

その日から人生が変わりました。

2人でいる時は人の目を気にするようになり、なるべく近くで一緒に歩かないようにしたり、そっくりの顔を下を向いて歩くようになりました。

今思えば、私の人生はその時から人の目を気にするようになっていました。
それは私が1人でいるときも思うようになっていました。

あの人はどう思っているんだろう
普通とは違うと思ってないかな
自分ってどうみられているんだろう

そう考えているうちに、人からよく見られたいと思い、よく見られようと思いながら生活をするようになりました。

今でも変わらないところがあり、気の利いた知り合いからは「プライド」が高いと言われることもあり、そのプライドが原因で失敗したこともあります。

また、保育園時代は人生で一番ヤンチャしていた時代でもあります。

お母さんが大好きで家から徒歩2分の保育園で朝お母さんとバイバイした後に、全力で走って窓から外に出るというヤンチャぶりを双子の弟と発揮していました。

弟とはいつも同じ行動をしていました。

しかし、

今思えば、目立つような行動も、人から見られている感覚が出てきてからは少なくなったように思います。

小学校時代 ー努力|いじめ|命の時間を大切に生きるようになるー

小学生時代は習い事といじめをした思い出で構成されています。

○私がしていた習い事○
①ソフトテニス(小3〜小4)
②トランポリン(小2〜小6)
③サッカー(小3〜中3)
④そろばん(小3〜小6)
⑤水泳(小3)
⑥学習塾

一番忙しかった小学3年生の頃は週7で習い事が入っていました。どれだけ忙しくても全てが楽しく、want toだけで人生を歩んでいました。

活躍できている時、うまくいっている時の私は一切人の目を気にせずに自信を持って行動することができていました。

元々、ソフトテニスをずっと続けるつもりでしたが、トランポリンを一緒にしていた友達がサッカーをすると言い始め、弟のやすしが小学2年からサッカーをしていたこともあり、サッカーを始めることになりました。

日々、練習の後にみんなでリフティングの練習をしたり、練習中も心の底から楽しむことができていました。

学年が上がるにつれ、個々のスキルの差が出始め、チームもAチーム/Bチームと別れて練習するようになりました。

私はAチームに所属していたのですが、その時の自分は上のチームにいることができていることに喜びを感じていましたが、その反面、周りの上手い子がいる中で失敗をしたらどうしよう、失敗している姿を見られたくないという気持ちが芽生え始めました。

○郡選抜に選出される○

そして、小学5年生の時、トレセンとは別の郡選抜に選ばれました。弟が選ばれず、私が選ばれたことが衝撃的でしたが、自分の実力が認められたことに対してすごく喜びを感じました。

とはいえ、県トップクラスの実力者が集まる選抜(高校選手権に出ていたメンバーがほとんど)だった為、今まで以上に周りの目を気にするようになりました。

私の存在を知ってもらおう、見せようと必死でした。

しかし、ある大会の予選で、仲間の選手から、

20番いけ!

名前ではなく、背番号で呼ばれました。自分の存在が認められていないんだと感じた瞬間でした。その時から、選抜の練習に行くのが本気で嫌になりました。練習は行きましたが、最後の大会は当日の朝にお母さんに想いを泣きながら伝え、大会には出場しませんでした。

人から悪い印象を持たれているのではないか、失敗したらどうしよう、心の中で自分自身と葛藤する日々が続きました。

失敗したらさらに失敗を繰り返す

という負の連鎖に追いやられ、サッカーがだんだんと私を苦しめるようになりました。

レベルの高い選手との練習の中だからこそ得られた発見もあります。

褒められて伸びるタイプ

これが自分の性格なんだということです。

弟ではなく兄の自分が選出されたということもあり、弟の分も必死に頑張るんだという思いがありました。レベルの高い練習の中で、必死にもがき、着いていくことができているという実感もあり、がむしゃらにやっている姿を見て「頑張っているな」とチームの仲間や監督から褒められる機会が増えてきました。

他の人以上に練習すれば、成長も感じられるし、褒められる

ことに気づいた私は、人の目を利用し、逆に努力して見てもらえるように練習すると視点を変えることで、サッカーの練習の原動力にしていました。

○小学校のサッカーを通して気づいたこと○
努力が認められることが嬉しい
「褒められると伸びるタイプ」
一つのことに集中した時、周りの人以上に努力できる
人の目を気にするようになった

○人生で最初で最後のいじめ経験○

私の小学校のクラスは1組しかなく、32人という小さなクラスでした。

32人中、7人が虐められていました。

その中で、私はいじめをする側でした。
小学校3年生から何気ないことがきっかけで始まったいじめ。
女子同士の噂がきっかけで始まりました。

その噂がクラスの陽キャメンバーに流れ、20人以上が1人の女の子のことをいじめるクラスになっていました。

その中で私自身もいじめの集団の一員になっていました。

みんながしているから私もする

ということがきっかけでいじめをしていました。

次第にいじめがエスカレートし、いじめる側の行動ががより過激になってきました。

・給食でその子の食欲がなく少しでいいといえば限度を超えて少ししか入れない
・休み時間中、体育服が入った袋をバイ菌袋と言って投げ合う
・机、椅子に触れたら必死に洗う(罰ゲームがその子の椅子に座る)
・その子が持ってきた家の物を勝手に使用し、壊す
・無視する/話しかけない

そしていじめをする生徒間でのいじめも勃発し、

いじめをするメンバーの家の前の道路に「死ね」とスプレーで書かれる
いじめをするメンバー同士で言い合いになる

小学校3年生から始まったいじめはクラス替えがないので、小学校6年生の夏まで続きました。

よりいじめがハードになるにつれて、いじめられるメンバーが1人、2人、3人と増えてきて、最終的には32人中7人がいじめられているクラスになっていました。小学校の中で最悪のクラスと言われていました。

他の小学校にも噂は伝染し、中学校では私たちの小学校の生徒と関わるといじめられるというレッテルを貼られていました。

いじめがエスカレートするにつれて、

いじめなかったら私もいじめられるのではないか

という意識に変わっていました。

小学校6年生の時の担任の先生は毎日泣いていました。
終礼の時間にいじめについて毎日話があり、生徒が泣き、先生も泣いていました。

道徳の時間には、いじめられている7人の子が教室の前に立ち、

「私たちをいじめないでください」
「なぜ私たちをいじめるんですか」

いじめに対する想いを手紙に書いてきて発表していました。
学級崩壊していました。それでもいじめはなくなりませんでした。

しかし、小学校6年生の夏休み前の親と担任の面談で全ての親に
いじめの事実が伝えられました。

私とやすしは家でお菓子を食べていました。

お母さんが帰ってきたとたんものすごい声が聞こえてきました。

さとやす出てきなさい!!!!

普段はたまに厳しいながら、すごく優しいお母さんからこんなに怒っているのを見るのは初めてでした。

いじめの事実を認め、すぐにいじめられている子の家に謝りに行きました。

いじめを今までダメなことだと指摘する人は担任以外におらず、生徒同士で正当化していたように今思います。

いじめはダメなことなんだ

いじめられてきた子の気持ち、時間、思いを自分事として考えました。

心の底から反省しました。なんてことをしていたんだと。
この4年間のその子の時間を変えることはできないんだと気づきました。

僕とやすしはこの日からいじめっこを辞めました。

いじめに対して反発するようになりました。

クラスの先生から僕とやすしに「最近のいじめはどうなっているか」と
定期的に聞かれるようになりました。

素直に事実を伝えるとともに、友達にもいじめをやめよう、そんなことしても人が傷つくだけだと素直に言えるようになりました。

その日から私は心に誓いました。

いじめを絶対に許さない
いじめを見たらすぐに止める

今でもこの時のことを鮮明に覚えています。

その日から人を褒めるようになりました。
人の悪い部分ではなく、良いところに目を向けるようになりました。

○いじめを通して気づいたこと○
・いじめは人として最悪最低の行為
・命の時間は戻ってこない

・いじめが起きていいことは全くない/悪いことしか起きない
・人の思い込みや周りに合わせることは良くも悪くも働く
・自ら考え、行動し、表現することをするようになった
・「褒める」ことはいいことしか起きない

中学校時代 ー全力|失敗を恐れない|打たれ強くなるー

正直いうと中学時代の記憶はサッカーと恋愛しかありません。

○中学サッカーで打たれ強さを身につける○

小学生時代、人の目を気にするようになり、褒められて伸びるタイプと気付かされたサッカーを中学校でも続けることにしました。

正直いうと中学のサッカー部に入るのはめちゃくちゃ迷いました。
先輩がヤンキーみたいな見た目で、問題を起こしている人が多かったからです。

いろんな部活見学をした結果、結局サッカーを続けることにしました。
(実はこの時、お母さんはソフトテニスをして欲しいと思っていたそうです。
そしてテニスをすればよかったと後悔する出来事も起きます。)

中学の顧問の先生は「高橋先生」という地元の中学では知らない人が絶対にいない強烈に怖い先生でした。普段は寡黙。授業も淡々と進める。

しかし、サッカーになるとサッカーに対しての全力さ、本気度が伝わってきました。小学校の時から先生のことは知っており、何も知らない私たちは「高橋」と勝手に呼び捨てにしていました。

ですが、中学に入り、高橋先生に会ってから呼び捨てにする人は
いなくなりました。

高橋先生が練習を観にくると、練習の空気がピリつくのがすぐにわかりました。みんなの集中度がこれでもかと上がるのがわかりました。グラウンド全体に響き渡る先生の声。チャラついていた先輩もそんな雰囲気を全く感じさせないくらい本気になっていました。

私は中学のサッカー部に入ることを改めて決意しました。

中学のサッカーは小学校時代とは比較できないほどハードな練習でかつレギュラー争いが厳しかったです。

ウォーミングアップが学校の外周3周計3km。毎回タイムを測り、ランキングをつけていました。ウォーミングアップから全力でした。陸上部より走っているという自負が勝手にありました。

年齢なんて関係ない、負けたくない

全体の中でも最初の方は真ん中より少し上に位置していましたが、この頃から負けず嫌いの性格が築かれた気がします。

自分の実力がタイムとして示されることにやりがいを感じ、厳しい練習ながら、毎回出し惜しみなく走り続けました。少しでも楽をすると数字として現れる。頑張れば努力が数字として現れる。

結果が出るまでのプロセスと結果の両方に価値を持つ

ようになりました。

その結果、40人ほどいるチームの中で順位が真ん中からランキング3位以内を常に争うようになりました。努力が数字に現れた瞬間でした。

中学のサッカーでは、中学1年まではベンチにも入れずBチームで結果を残すことに必死になっていました。今思えば、中学を通して本当に心の底から楽しいと言えるサッカーはこの瞬間でした。

全員が楽しくサッカーができる環境を作りたい。

そう本気で思っていました。

それをより感じ始めたのは中学2年のAチームに選ばれてからでした。

Aチームの雰囲気とBチームの雰囲気は全く違いました。

Bチームのメンバーはすごく楽しそうにサッカーをしていました。
試合中は常にお互いを褒め合い、失敗してもドンマイという声を掛け合う。
みんなで勝とうという思いが全面に出ていました。そして何よりもみんなの表情が笑顔でした。

私はBチームでキャプテンを務めている時がありました。

その時心掛けていたのは、

「全員がサッカーを楽しむ/失敗を恐れない」チームづくり

を意識していました。小学校時代の人の目を気にする、失敗を恐れる自分がいたからこそこれを心がけることができたのかもしれません。

Aチームには結果が求められていました。

常に高いレベルのサッカーが求められていました。

私自身も日々の練習により集中し、成長できるように努力しました。

毎朝の練習や木曜日のよるに開催されるサッカークリニックに参加しました。
必死でした。また、周りの人も参加しているので、今思えば、参加しないとサボっていると思われるのではないかと心配だったのかもしれません。

Aチームにいる私は必死に努力しているのように見えて本質であるサッカーを楽しむということを忘れてしまっていました。

試合中も仲間が失敗すると仲間がため息をついたり、なんでだよと失敗を責める言い方をみんながしていました。

Aチームの試合に参加できるのは嬉しく誇りを持っていましたが、その反面、小学校時代の郡選抜を思い出し、失敗を恐れるようになっていました。試合中のみんなの表情は真剣でしたが、笑顔は少なかったです。

小学校時代にサッカーの監督が常に私たちに聞いていたことがあります。

君たちの目標はなんだ?
→FIFAワールドカップ出場!

この時の私たちの表情は圧倒的に笑顔で
ワクワクしていました。

だからこそ、Aチームに入った私は、必死に周りのメンバーを大声で褒め続けました。どれだけ失敗して、周りのメンバーから厳しい言葉で責められたとしても、私はサッカーを楽しみ、失敗を恐れず挑戦できるチームを作ろうと必死でした。

中学3年間の練習は本当にきつかったです。

真夏の練習は3時間ぶっ通しで水を一切飲まない。
意識朦朧の中真夏の日差しのもと必死に練習。
毎週の公式戦や練習試合。
変わらず続くウォーミングアップでの外周3km。
練習での先生からの厳しい指導(たまにコーンで友達が殴られる)
終了時間がわからない終わらない練習。
学校の授業終わりに突然の練習試合。
20時に帰って次の日は朝の6時から自主練。
帰って必死に学校の課題をこなす日々。

ここまでを読むと、辛いことばかりの印象ですが、この中学3年間の厳しい練習、高橋先生からのパワハラに近い厳しい指導、メンバーとの関係全てを中学時代に経験できたからこそ、「打たれ強さ」を身につけることができました。

この経験があったからこそ、陸上部での人生で一番きついと思った練習にも、今の仕事の体力的にも精神的にも大変な仕事においても耐えることができています。

そして、それは打たれ強さだけでなく、私自身が挑戦し続け、努力し、成長を続けているからこそ、めげないでいられるのです。

全ての経験が私を成長させるきっかけになる

と信じているからです。

中学サッカーでは、結果として、

・新人戦で石川県2位(1位は当時全国1位のメンバーが揃う星稜高校)
・女子プロリーグ1位のINAC神戸レオレッサとの試合

のようになかなか経験できないような経験をさせていただきました。

○中学サッカーと高橋先生から学び気づいたこと○
・圧倒的な忍耐力
・本気で全員が楽しめる環境づくりをしたい
・楽しむことが何よりも最優先
・何のために行動しているのかを考えるようになった
・人に対して本気になるということ(相手の成長を最優先に考える)
・圧倒的な負けず嫌い
・どんな状況にも諦めない圧倒的な打たれ強さを得た

○人生初めての恋○

中学では人生で初めての失恋と恋をしました。

人生で初めての失恋は中学1年生の頃。小学生のときに一緒に少年団のチームでソフトテニスをしていた1個上の「めぐ」と呼んでいた先輩でした。

その先輩とは小4にソフトテニスを辞めて以来会っていませんでした。そして、彼女の中学校は違う校区で同じ中学校に行くことはないと思っていました。

田舎では中学受験が主流ではなく、地元の中学に行くのが一般的です。

しかし、中学入学の初日、まさかの中学校の廊下で再会したのです。

私は戸惑いました。

すごく可愛くて他の人からも人気の存在。そして、3年ほど会っていなかったのにも関わらずまさかの彼女は私のことを覚えてくれていたことにも驚きですが、同じ学校に通っていることに一番驚きでした。

今まで彼女に対して好きという感情は特になく、仲の良い先輩としか思っていませんでした。

しかし、中学で会った瞬間、好きになりました。

ある意味一目惚れでした。

その日からその先輩がいないか探すようになりました。

その先輩はソフトテニス部に所属していました。そのことも知っていましたし、小学校の頃から一緒にソフトテニスをしていた友達からもテニスに戻ってこいと誘われていたので、サッカーを選ぶかテニスを選ぶか本気で迷いました。

しかし、書いた通り、私はサッカーを選びました。高橋先生のもと、友達とサッカーを続けたかったからです。

ある日、衝撃の事実であり、現実から目を背けている自分に気づかされる出来事が起きました。

彼女には彼氏がいる

中学上がりたてで付き合うという概念がほとんどなかった自分にとって、彼氏がいるという状況を全く想像していませんでした。

失恋です。

その日から心にぽかんと穴が空いた気がしました。
恋愛においてスピード感が必要なんだと気づかされた大きな出来事でした。

どうすれば距離を縮めることができるのか、どうすれば話す機会を増やすことができるのか、どうすれば私のことを好きになってもらえるのか、考えるようになりました。

彼氏がいてもいずれ別れるのだろうと本気で思ってました。なので、中学2年に入るまで彼女のことを考え続けました。

しかし、サッカーと授業が忙しくなり、次第に彼女について考える機会が減り、失恋をしたことを忘れていました。

ここから恋愛においてほぼ撃沈する人生がスタートです。
大学1回生まで続く長い歴史の始まりです。

次に好きになった子は同じクラスでかつ横の席かつソフトテニス部という
運命的な子でした。

中学2年の私は初めて本気でアプローチすることを決めました。
恋愛にはスピード感が必要だからです。

このことを同じソフトテニス部でかつ保育園から一緒の女の子に相談しました。
相談しているうちにその女の子が私のことが好きだと告白してきました。

当時の私はその隣の子が好きだという気持ちに加えて、女の子と付き合うという経験という未知の経験を得たいとも思っていました。

私は後者の欲求に身をまかせ、付き合うことになりました。

しかし、そういう形で始まった恋は3ヶ月で終わりを迎えました。

今では隣の女の子は現役のCAとして活躍しています。
後悔はしていませんが、その時本当の私の気持ちを伝えていたらどうなっていたんだろうとすごく気になります。

その頃、弟のやすしは彼女もいてサッカーも上手い、完璧でした。成績だけでも勝とうと必死に勉強を頑張りました。双子のお兄ちゃんとして、学年順位だけが唯一弟にマウントを取れる手段でした。

今思い出すとすごく惨めだったと感じていますし、当時から弟に対しても負けず嫌いの気持ちが強かったのだと感じています。

○中学の失恋と恋愛から学び気づいたこと○
・恋愛にはスピード感が必要
・恋愛は待ってくれない
・好きな人には好きと言える人生でありたい
・自分の気持ちを伝えないと後悔する
・恋愛は人に対して本気で向き合うことができる人生で最初の手段
・弟に恋愛においても負けたくない

高校時代 ー現状の外側のGOAL設定|努力は人を裏切らない|仲間の大切さー

私の高校時代は、
陸上との出会い(人生で最高の体験)
で構成されています。

○人生で初めて明確に現状の外側のGOALを設定し、成し遂げた話○

高校ではサッカーではなく、
陸上競技を始める決断をしました。

結論からお伝えすると、人生で初めて現状の外側のGOALを設定し、
達成することができた最高の高校生活
でした。

陸上競技を始めたきっかけは、
①将来の子供に走るのが速い「かっこいい」お父さんと言われる為
②自分の努力の結果が最大限目に見えるスポーツがしたかった
③中学で死ぬほど走り、タイムが伸びた経験から陸上でも通用するか自分を試す為

そして、新しいことにチャレンジしたいという自分がいました。

新しい世界を見て、新しい人と会いたい。

まだ見ぬ世界で自分がどれだけ通用するのか試したいという思いがありました。

そして、兄が中学まで野球をし、高校から陸上を始め、結果を残していたので、私自身もいけるのではないかという浅い考えもありました。

人生で初めて生活に大きな変化が出たのは、
この高校での新しいチャレンジを始めてからでした。

ここからは内容が今まで以上に濃いので学年別に分けていきます。

○高校1年生 現状の外側のGOAL設定と現実に直面(1年間予選落ち)

陸上を始めて決めていたことは短距離の100mで活躍することでした。

陸上競技といえば100m
陸上競技の花形で活躍したいという思いがありました。

人生初の大会は
石川県高校総体加賀地区予選会でした。

私は宣言通り100mに出場。

結果は 13.56 (当時同じ高校の女子のTOP選手のタイムは12.50前後)

女子よりも圧倒的に遅い。現実を突きつけられました。
待てと。中学まで必死にサッカーで走り込みを続け、他の人より足は速いという自負はありました。

しかし、大会に出てみると散々の結果。

今思うと人生で初めての大会で、スタートの仕方もよくわかっておらず、陸上のユニフォームを着ることさえ恥ずかしいと思っている選手がよく走ったなと感心します。

GOALをするときに変な声が出て一緒に走っていた選手が
僕のことを見たのを覚えています。

私は知らないフリをしてすぐに自分の高校の休憩所に戻りました。

悔しい。負けたくない。勝ちたい。

誰よりも練習することを決めた。

そして、高校総体は枠が空いていた800mに参加することが決まった。

高校1年の高校総体の経験がその後の陸上人生に全力で
向き合うきっかけになりました。

高校総体の3日間
高校3年生にとっては最後の大会

初めて陸上の県大会に行きました。
初めての会場の雰囲気、サッカーの時とは全く違う競技場だと思いました。

観客席には各高校の横断幕とフラッグ。
会場中に最後の大会を見届けにきた親や友達、そして選手たち。
そして何より、各高校の陸上の応援。

スタート前、会場全体が静かになる。
スタートの雷管がなった瞬間、会場全体選手の応援が響き渡る。

ゴーゴーレッツゴーレッツゴー○○
いっけーいけいけいけ〇〇
頑張れ〇〇
行けるぞ〇〇
最後だ〇〇

各高校の選手が男女関係なく全力で声を出す
声が枯れるまで腹から声を出す

会場内の空気は最高潮。

仲間の為に全力で応援する姿は本当に美しい。
人生で初めて腹から声を出し、仲間の為に全力を尽くす経験をした。

終わった後は最高の気持ち。

この初めての感覚に驚いた。
全力で仲間の応援をすることがこんなに気持ちの良いことなんだと。

全ての競技において県で6番以内に入ると北信越大会という上位大会に
参加する権利を得られる。

私たちの高校は小松明峰高校という中堅の進学校。

男子陸上競技部は創部以来、リレーにおいて北信越大会に出場したことがない。
そして、決勝に進んだこともない。

高校3年生の先輩たちは4×400mリレー(通称マイルリレー)で
北信越大会に出場することを目標としていた。

そして、小松明峰高校男子陸上部創部以来初のマイルリレーで決勝進出。

マイルリレーは大会3日間の最後の種目。

決勝のみ、出場全選手の名前と高校名がコールされる。

自分たちの高校だけでなく、決勝に進出できなかった高校の選手が自分たちの高校の先輩を応援しにきてくれる。人数は100人を超える。

いまかいまかと名前が呼ばれるのを待つ。

高校名がコールされた時、全力で声を出す。
会場全体が走る選手の為に全力を尽くす。

結果、8位。

北信越大会出場はできなかった。
応援している選手、マネージャー、顧問、全員が泣いていた。

陸上競技ってこんなに感動する競技なんだ。
表彰台に立つ先輩は泣いていたが、笑顔でもあった。

全力を尽くした選手全員が美しく、かっこよかった。

それと同時に私たち1年生全員の中で共通の思いが芽生えた。

僕たちの代で必ずマイルリレーで北信越大会に出場する

私たちの代は陸上経験はあるが結果を残している選手は1人もいなかった。
そして私自身も言えるほどの実力は全くなかった。

人生で初めて、

現状の外側のGOALを設定した瞬間だった。

高校3年生になった私たちはあの表彰台に全力の笑顔で立っている。

鮮明にその姿を思い浮かべることができていた。

その日、私たちは顧問の先生にお願いした。

「僕たちを北信越大会に出場させてください。」
その為に全力で頑張ります。

根拠のない自信を顧問の先生に振りかざした。

エフィカシーが半端なく高かったと思う。
ワンピースでいうルフィの「海賊王に俺はなる」状態。

高校3年の3年生を送る会で顧問の先生が言っていました。
「全く実力も結果も残していないお前らが北信越大会に出場したいと言った時は驚いた。そして、何言ってるんだと思った。しかし、本気で北信越大会に出場させてやろうと思った」と。

本気の想いは周りの人の思いを変化させる。

顧問の先生は向田先生
陸上の実力者(長距離と競歩において全国TOPクラスの実力者)
中学の高橋先生に並ぶくらい厳しい
選手に対して本当に熱い
全力でぶつかる
選手を成長させる為に全力を尽くす先生
私自身本当に尊敬している

こんな先生になりたいと思った。

そして、大会の次の日から死ぬほどきつい練習がはじまった。

北信越大会に出場するまでの3年計画
高校1年ー基礎づくり(体力/身体/精神面/走りの技術)
高校2年ー応用練習(よりハードなレベルの練習と環境で走り込む)
高校3年ー自分たち自身で最高の状態を作るためのメニュー作成
      TOPクラスの指導者とトレーナーからの指導

確実に私たちは成長していた。
陸上にのめり込んでいく自分たちがいた。目標達成の為に、練習後に自重トレを全員で+αの練習として行った。

しかし、現実は厳しかった。

夏の練習を乗り越えて確実に一人ひとりの実力は上がっていた。
数字としても結果は出始めていた。

高校1年の秋の新人戦に出場した男子選手全員が予選落ちした。

年内の最後の大きな公式戦

成長したのにもかかわらず、他の高校の選手と圧倒的な差があった。

私たちの成長度は他の高校以上だったと自負していたが、
現実は甘くはなかった。

そのまま12月のシーズンが終わるまで、
誰1人大きな結果を残すことはできなかった。

そして、冬季の練習。

これでもかというくらい追い込んだ。
苦手な体幹トレーニング、走り込み、筋トレ、全てに全力で打ち込んだ。

同じ高校の選手としか練習しないので、
私たちがどこまで成長しているかわからなかった。

でもただひたすらに目標達成に向けて泥臭く練習に打ち込んだ。

高校1年生の記録(個人)
100m 13.56→11.40
200m 24.50(1度のみ出場)
400m 58.90→55.40
800m 2"16'00
目立つ記録は一切ない

○高校2年生 飛躍の年/個人の現状の外側のGOAL設定更新/ダークホース

この年、「努力は人を裏切らない」という言葉が私の教訓となりました。
そして、現状の外側のGOALを更新するという今までしたことのない経験を
した年でもあります。

今でもこの言葉は私の教訓であり、
この教訓が私に自身を持たせてくれています。

冬季練習を終えた私は自信に満ち溢れていました。
なぜなら、「誰にも負けないくらいの努力」を冬季にした自信があり、かつ、
冬季練習では、どの練習においても1位を取り続けたからです。

しかし、1つ不安なことがありました。

それは、「大会でかつ経験がない」ことでした。

高校2年生の春の高校総体
100m/200m/400mに出場

200m予選

スクリーンショット 2020-10-05 18.46.14

大幅記録更新!!!
前年12月の記録は24.56

圧倒的に記録が伸びていました。

会場がどよめいたのが自分でもわかりました。
結果ができた時、記録にも自分自身にも驚愕し、身体が震えたのを覚えています。

スタート地点へ荷物を取りに戻ると、周りの選手からの視線が
僕に集まっているのを感じました。

スタート前の友達と会った時に言われました。

どうしたん!?
みんなが誰やあいつって言ってるぞ!
ダークホースが現れたって言ってる人もいたぞ。

私の感覚ではあるが、高校で陸上競技をしている人のほとんどは小学校、中学校から陸上をしている人が多い。だからこそ、みんな知り合い同士で準決勝、決勝に残るメンバーは大体決まっている。しかし、私は高校から始めた為、他校の陸上の友達が1人もいなかった。

だからこそ、注目された。

「ダークホース」だと驚かれた。

やってやったと思った。
努力は報われるんだと思った。
最高に嬉しかった。
決勝に行きたい。そう思った。

これが人生で初めての予選通過だった。

結果、準決勝では身体がガチガチになり、
予選と比べてタイムを落とし、準決勝敗退。

予選のタイムが出ていれば決勝に進出できる可能性があった。

完全に会場の空気に飲まれてしまった。
経験不足、そして、決勝に残るメンバー全員、決勝に出ることが目標ではなかった。

もっと上の目標を掲げている以上、決勝に残るのは当たり前。

試合が始まる前から勝敗がついていた。

目標をどれだけ現状の外側に設定するか。
目標が自分の自信になる。それを人生で初めて理解した瞬間だった。

大会後、私の個人目標を

予選突破 → 200mで北信越大会出場

に切り替えた。
私にとってこんなに早く目標を変える瞬間が来るとは思わなかった。

大会を終えてから、普段練習する競技場が別物に見えた。

今までは足の速い選手がたくさんいる競技場で練習することでさえ、
緊張していた。

しかし、もうその感覚はなくなっていた。

自信を持って競技場で声を出すことができるようになっていた。
自信を持って競技場で走ることができるようになっていた。
自信を持って目標を語れるようになっていた。

競技場では様々な高校の先生から声をかけられるようになった。

本当に嬉しかった。

1年前には全く想像もできなかったことだった。

努力をすれば現実をかえることができるんだ。
努力は人を裏切らないんだ。

心の底からそう思った瞬間だった。

自信がついた私はさらに練習するようになった。

心の底から陸上を楽しむことができていた。

目標達成をするために、全力で走り続けた。
全力で走り続けることが周りのメンバーのモチベーションを上げることにつながると思っていた。

自分の為であり、みんなの為になる。
僕がモチベーションの源泉なんだと気づいた瞬間でもあった。

これは現在の私の在り方になっている。

素直で全力、全ての人のモチベイティスト

高校2年の練習は1年目の基礎づくりのおかげで
間違いなく練習の質が上がっていた。

練習の質も量も上がることで、毎日の疲労度はピークに達していた。

けれど僕たちは走り続けた。

なぜなら、明確な目標がある。

マイルリレーで北信越大会出場
個人としては、200mで北信越大会出場

心の底から達成したいう目標は全くぶれることはなかった。

だからこそ、毎日の走る練習、基礎体力づくり、筋トレ
全てがwant to(したいこと)になっていた。

だからこそ、日々の練習+αの練習を私たちはした。
必死に毎日の練習に取り組んだ。

毎日の練習は他の高校の生徒もしている。
だからこそ僕たちは練習の量でも石川県で一番練習することを決めていた。

苦手なトレーニングに心が折れそうになったこともあった。

心の底からのwant to(したいこと)だからこそ、
心の底から達成したい現状の外側のGOALだからこそ、
苦手なhave to(しなければいけない)と思ってしまうことも
難なく取り組むことができた。

誰よりも最高の時間を過ごすことができていたという自負がある。

その時間を過ごし、全力で素直に練習に取り組むことができていたからこそ、
チーム全員の現状の外側を達成しているという根拠のない自信(エフィカシー)
に溢れ、モチベーションにつながっていた。

そして、秋の新人戦。
明らかに去年の新人戦で全て予選落ちした競技場とは違う競技場に見えた。

私自身、勝てるという自信に満ち溢れていた。

200mの予選、準決勝を走り、明らかにタイムが上がっていた。
走りに余裕ができ、リラックスした状態で走ることができたのを
今でもはっきりと覚えている。

石川県高校新人陸上競技大会200m決勝

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石川県2位

「努力は人を裏切らない」
心の底からこの言葉を体現できた瞬間。

最高。
めちゃくちゃ嬉しい。
実力は上がっていたが、この結果になるとは思っても見なかった。
なるべくしてなったのではない。
自分で、チームで勝ち取った最高の結果だった。

タイムとしては振るわなかったが、確実に勝つという経験ができたことは
私にとってさらなる自信につながった。

ここまで来るまでの1年半、
本当に苦しかった。結果が出ないことは本当に苦しかった。

私だけじゃない。
チーム全員がそう思っていた。

そして、4×100mリレー

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石川県5位。

新人大会では、4位以内が上位大会である
北信越大会への出場権を獲得できる。

その差、0.14秒

陸上においてその差はめちゃくちゃ大きい。
しかし、勝てない試合ではなかった。

個々の実力では確実に北信越大会に出場できる可能性はあった。

勝ち切る力が足りなかった。
そして、北信越大会に出場する高校はおそらく
北信越大会で結果を残すことを目標としていた。

私たちは北信越大会に出場することを目標としていた。

何を目標として練習に取り組むか、
何を目標として大会に臨むか。

その差は大きいのだと結果が出てから気づいた。

本当に悔しかった。
泣いた。
全員で来年勝つ為の方法を考えた。

○現状の外側のGOAL更新○
北信越大会に出場する → 北信越大会で結果を残す
200mで北信越大会出場 → 200mでインターハイ出場

目標を更新し続けることが大切だと結果を通して改めて感じた。

私自身はインターハイに出る為の練習をするようになった。
チームとして北信越大会で戦う為の練習をするようになった。

チーム全体の意識がさらに向上し、練習への取り組み方が変化した。
目標が変わることで視座が高まったのが明らかに分かった。

高校から始めた陸上競技にこんなに本気で取り組むようになるとは
全く想像もしなかった。

高校から始めた陸上競技で高校の最高峰の大会である「インターハイ」
目標とするとは全く想像もしなかった。

陸上を始めた時の自分とは、

身体 精神 意識 目標

全てが変化していた。

高校2年の冬季練習は前年の冬季練習とは全く異なっていた。

今まで以上に全力を尽くした。
自信を持って全力を尽くしたと言える。

この経験は人生において大きな価値であり財産となった。

そして迎えた最後の大会。

平成25年度石川県高校総体陸上競技大会

この3日間の為に、
出場する私たちの高校の選手全員はここが考えた練習に
大会1週間前から取り組んだ。

3年間の練習を経て、私たちは最高の状態で走る為の
調整の仕方を身体で理解していた。

だから私は目的の日に最高のパフォーマンスを出す為の方法を知っている。

陸上においてだけでなく、
これは全てのことで言えることだと思っている。

○気持ちの持って行き方
○身体の調子の持って行き方
○周りのメンバーが最高のパフォーマンスを当日にできるようにする為のコミュニケーションの取り方

そして迎えた当日、
4×100mリレー予選通過
しかし、準決勝敗退

めちゃくちゃ悔しかった。
勝てると思っていた。しかし、実力は周りの方が上だった。

他の高校も本気で勝ちに来ている。
最高の状態で大会を迎えている。
自分たちだけではない。

改めてそれを感じた瞬間だった。
改めて2年前の先輩たちの姿を思い出した。

私たちはこの日に勝つ為に練習してきた。
先輩たちが達成できなかった北信越大会出場を達成する為に
3年間全力で走り続けてきた。

最終日、4×400mリレー予選
メンバーを変えて出場。チーム全員の実力が上がっていた。
予選2位通過。圧倒的な自信になった。

そしてついに迎えた
200m予選

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200m準決勝

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200m決勝

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石川県2位 自己ベスト大幅更新!!!

最高。
インターハイ出場を目標としている私にとって最高の形で終えることができた。
そして、圧倒的な自信になった。

これだけでは終わらない。

200m決勝の1時間後。
4×400mリレー決勝が待っていた。

私は4走でした。アンカー。
最後、ゴールラインを駆け抜ける役目。
みんながつないできたバトンをGOALまで持っていく役目。

一緒に走る3人にスタート前に伝えた言葉を今でもはっきりと覚えている。

「どんな順位でも、俺が最後必ず6番以内でGOALする。だから、みんな悔いなく自信を持って、全力でバトンをつないで欲しい。全員で北信越大会に出よう。

今思い出すと恥ずかしいが、当時の私は本気だった。
心の底から思っていることを伝えた。
それくらい、3年間努力してきた。自信しかなかった。

4×400mリレー決勝

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北信越大会出場決定!!!

今までの人生でこれ以上ない最高の瞬間だった。
全員で勝ちを喜んだ。
この瞬間のために3年間努力してきた。
高校1年生の時、スタンドから先輩を応援し、
次は自分たちだと誓い、目標を立てて努力してきた。

「目標は達成できる」
「全力でした努力は人を裏切らない」

この瞬間、私の人生の価値観になった。

現状の外側のGOALを更新し、北信越大会で勝つ為の
練習をしてきた私たちにとって北信越大会出場は通過点でしかなかった。
とはいえ、目標にしてきたのは事実であり、
現状の外側のGOALを更新したからこそ、達成できたのだと確信している。

GOALラインを切り、電光掲示板に確定結果が映し出された瞬間、
仲間と肩を組み、全力で勝ちを喜んだ。

今もこれからもその瞬間のことを忘れることは絶対にない。

最高の瞬間だった。

こうして大会を最高の結果で終えることができた。

第52回北信越高等学校陸上競技対校選手権大会

県大会が終わり、私の個人のGOALを達成する為の
スタートラインにようやく立てた。

最高のパフォーマンスを持って当日を迎えることができた。

個人の200mの前に4×400mリレーが2日目最終種目であった。

4×400mリレー予選

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周りのチームに圧倒された。
高校3年間のリレーは終わった。

しかし、私たちは全力で走りきった。
だからこそ、終わった後も笑顔だった。

最高の景色を見ることがチームででき、
そして、来年の後輩の番にリレーのバトンをつなぐことができた。

そして私の個人の番になった。

○現状の外側のGOAL○
200mでインターハイ出場

本気でこの目標を達成するために走り続けてきた。
どんなに辛く、厳しい練習だとしてもチームのメンバーと一緒だから、そして、
この目標があるから全力で頑張ることができた。

200m当日
1日で予選、準決勝、決勝と走り、決勝で6番以内に入れば
インターハイの出場権が与えられる。

予選に向かう前、チームのメンバーみんなに背中に気合を入れてもらった。
みんなの想いも一緒に背負って走ると決めていた。

私のランキング(出場者の県大会での最高記録順でのランキング)は全体の6位。
十分にインターハイ出場を決めれるタイムを持っていた。

200m予選

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身体の状態は最高だった。
驚くくらい身体が軽く、走っている時もリラックスして走ることができていた。

追風参考ではあるが、GOAL直前に体力温存の為に
力を抜いたのにもかかわらず自己ベストのタイム

200m準決勝

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非常に厳しい組だった。
各県の1位が3人も揃う組だった。

管野くんは今まで一度も勝つことができていない、
中学から圧倒的な速さを誇っていた石川県の圧倒的短距離のエース
ランキングも北信越大会で圧倒的に1位

私自身、GOAL直前まで全力で走り切った。
ガチガチに身体に力が入っていたが、

負けない

という気持ちは誰にも負けなかった。

GOALの3m前で管野くんを抜いた。
決勝進出。

準決勝後、管野くんは泣いていた。
そんな姿を見たことがなかった。

彼の分も全力で走ると決めていた。

そして、ついに時がきた。
6位に入ればインターハイ決定

私は8レーンの一番外側。
青色の選手。

小松明峰高校のチームメンバー
応援にきてくれていたメンバーの家族、
小松高校の陸上部のメンバー
小松市立高校の陸上部のメンバー
小松工業高校の陸上部のメンバー
石川県短距離沖縄合宿で一緒に時間を過ごしたメンバー

そして、私の家族

100人以上の人たちがスタンドから僕のことを応援しにきてくれた。
みんなの声がスタートラインからも鮮明に聞こえた。

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7位
6位との差 0.02秒(約10cmほど)

私の高校の陸上人生はこの瞬間終わった。

GOAL直前まで、顧問の先生の

西田!いけーーーーー!!!!!

という応援の言葉が聞こえていた。

GOAL後、電光掲示板の結果を見て現実を受け止めた。

GOAL後すぐに表彰式があった。

スパイクを履き替えている時、顧問の先生がきて言葉をかけてくれた。

お疲れ様。最高の走りやった。
全力で声を出して泣いた。

この瞬間のことを一生忘れない。
人生でこんなに悔しい経験はもうしないだろうというくらいの経験。

一緒に走った6位の大聖寺高校の子には今までどんな試合でも、
練習でも負けたことがなかった。

初めて試合で負けた。

一緒にその子が表彰台まで行ってくれた。
今でもその瞬間は忘れない。

その時の唯一の後悔は、

現状の外側のGOAL
200mでインターハイ出場 →200mでインターハイで戦える選手になる

こうすべきだったかなと思った。

現状の外側のGOALを更新し続け、私自身は3年間で最高に成長した。

高校3年間の陸上生活で学び気づいたこと
○現状の外側のGOAL設定が現状の自分を大きく変える
○個人よりチームで達成するGOALの方が何倍も嬉しい
○目標に対して全力で周りを巻き込みながら努力することができる
○最高の時間、経験、人との出会いをすることができた
○「全力でやった努力は人を裏切らない」

大学時代 ー行動が人生を変えることに気づく|価値観|命の時間の使い方を学ぶー

大学は大阪にある関西外国語大学外国語学部英米語学科に進んだ。

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大学での私の人生で初めての挑戦が
今の私の価値観を構築してくれた。

それくらい挑戦し続け、大学4年間の命の時間を
精一杯使い切ったという自負がある。

①人生で初めての1人での海外渡航(オーストラリアでの国際ボランティア参加)
②1年間の交換留学+3ヶ月のニューヨーカー(日系企業でのインターン)

人生で初めての1人での海外渡航
(オーストラリアでの国際ボランティア参加)

私自身、留学で新しい自分に出会う為という理由で関西外大を選んだ。
そして、私自身、海外旅行の経験がほとんどなかった。

小学校の時に、お父さんの海外出張の関係で中国に2回行ったぐらいだった。

だからこそ、

海外の人と関わりたい
海外の人の価値観を知りたい
英語のスキルを学びたい
海外に行ってみたい

そんな思いで国際ボランティアへの参加を決めた。
大学には新しいチャレンジをする為にきた。新しい自分に出会う為にきた。

だからこそ、この決断に至るまでに時間は必要なかった。

CIEEという団体が提供する国際ボランティアに参加した。

世界35か国での国際ボランティアの機会を提供する団体。
そのボランティアには世界中の人が参加する。

私が参加したのは
オーストラリアのシドニーで開催される森林保護ボランティア

ボランティアといえば森林保護

という安易なイメージで参加を決めた。

ボランティアは2週間の日程で参加した。

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このボランティアで得た価値観

人との出会いの尊さ
命の時間の使い方(行動)で人生が変わる

シドニーを選んだ理由はオーストラリアの観光地であり、
カフェ文化が根付いているから。

ボランティアがない週末にはカフェ巡りをし、
オーストラリアのカフェ文化について調べようと思っていた。

当時の私はアルバイトでスターバックスコーヒーに勤めており、
コーヒーについて勉強したいと思っていたところだった。

現地の集合場所についた瞬間、
現地の人に言われました。

You're going to go to Canberra, which is CAPITAL of Australia, Congrats.

英語の意味はわかった。
しかし、どういうことか全くわからなかった。

そしてわからないまま、オーストラリアの首都である
キャンベラ行きのバスに乗っていた。

バスに揺られること3時間。

いわゆる田舎だった。
ホステルについて早々、男女同じの部屋に入れられた。

今までホステルでの宿泊を経験したことがないので、
どうしたらいいのかわからなかった。

一緒に参加していたメンバーは、
日本人 2名
中国人 3名
韓国人 1名
スウェーデン人 1名

リーダーにはスウェーデン人の女の子がなることになった。

ついさっきまで全く知らなかった人たちと一緒の部屋で一緒の時間を過ごす。
いままで経験したことのないことばかりであった。

すでに、日本で過ごしていた時間とは全く違う時間を
過ごせていると感じることができていた。

いままでの自分は周りの人からの視線を気にしながら生きてきた。
英語を使うのも、下手だと思われたくなかった。

しかし、僕以外のメンバーは母国語を英語としないメンバーしかいなかった。
それにもかかわらず、物怖じせず、英語で会話しようと全員がしていた。

間違っても気にしない。
人の目を気にせず、伝えたいことを英語で伝えてくれた。

自分の中で初日から価値観が変化した。

いままで人の目を気にしてきた人生を歩んできた。

失敗したらどうしよう
格好悪いと思われたらどうしよう
他の人からどう思われているんだろう。

そんなことばかり考えて生きてきた人生だったが、
それは西田悟視のプライドという殻の中に生きていただけだったと気づいた。

その時から、周りの目を気にせず、
自分の意見を言えるようになった。

相変わらず、英語は下手でみんなからしたら、
何を言っているかわからなかったと思う。

だけれどもみんなは真剣に私の話を聞いてくれた。
私のことを知ろうと話しかけてくれた。

何のためにここにきたのか。

改めて目的を思い出し、行動することができるようになっていた。

自分の殻をその日、少し破ることができ、
すでにオーストラリアに来て、新しい挑戦をすることができてよかったと
初日から思えた。

オーストラリアでのボランティアは
私の人生を変える大きな転機となった。

1週間がたち、慶應義塾大学の学生がきた。
帰国子女で英語は流暢。学力も最高レベル。地頭もいい。

完璧な人が来たと思った。

その人の前ではまたかっこ悪い姿を見せたくないという
プライドが出てきてしまった。

1週間を通して、自信を持って話すことができ、
行動できていた自分がいたのにもかかわらず、その人を前にして、
自分を隠すようになってしまった。

しかし、その人は私自身の気持ちをすぐに悟っていた。

さとしは僕の前で自信がなさそうに感じる。
何のためにここにきたのか。
自信をもっと持っていいんだよ。

こんな会話をしたのを覚えている。

人によって対応を変えてしまっている自分が本当に嫌だった。
もっと自分自身に自信を持って話せるようになりたいと心の底から思っていた。
そう思っているんだと気づいていなかったが、それを言われた瞬間ハッとなった。

人によって態度を変えるのをやめよう。
自信を持って自分について話そう。

そう改めて行動しようと意識が変化した瞬間だった。

そして、オーストラリアでは人生を通して関わっていくと思う出会いがあった。

久野こうき
同い年
会社を辞め、1人でオーストラリア横断
ロードバイクに30キロ以上の荷物を積みながら移動し、宿泊は野宿
シドニーが横断のGOAL

そんな人が泊まっていたホステルに現れた。
最初、日本人が1人でいると思っていた。

1人で食事をしていたので、声をかけてみた。

同い年とは思えないくらいの人生を歩んでいるという話を聞き、
めちゃくちゃワクワクした。

こんな人生を歩んでいる人がいるんだ。
僕もこんな人生を歩みたい。
初めて会った日、朝4時まで一緒に食堂で話した。

人生について語り合った。
彼の話を聞いて、心の底からもっとチャレンジしたいと思った。

その日から毎日のように人生や夢について語り合った。
一緒にお風呂に入り、一緒に遊びにいき、完全に意気投合した。

行動しなかったら、オーストラリアにいくという決断をしていなかったら、
この出会いはなかった。
それ以外にもたくさんの出会いがあった。

オーストラリアでの国際ボランティアは私の人生を大きく変える出来事になった。

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今でも彼とは交流が続いている。

僕に会うために山梨から大阪に来てくれた。
オーストラリアで会ってから3年以上立ったが、お互い変わっていなかった。一緒に夢や目標について語り合った。

最高の出会いになった。

○オーストラリアでの国際ボランティアで学び、気づいたこと○
・プライドは良くも悪くも働く
・行動が最高の出会いを生んでくれる
・命の時間の使い方次第で人生が変わる
・自分をさらけ出すことは怖いが、自信がつく
・失敗したらどうしようは自分が思っているだけで周りはそんなに気にしていない
・行動は人生を最高にワクワクさせてくれる

1年間の交換留学+3ヶ月のニューヨーカー(日系企業でのインターン)

関西外大に入学した理由。
それは、留学し、新しい価値観に出会う為。

目的の交換留学に参加できるのは、
12,000人の学生の中から選ばれた100人。

本当に狭き門ながら、私はリベラルアーツ留学の
権利を獲得することができた。

私が留学したのは、

アメリカ合衆国ミシガン州にあるイースタンミシガン大学

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留学を通して得た気づきや価値観
人は様々な価値観を持って生きている

非常にシンプルだが、私の人生にとってかけがえのない、
これから生きていく上で大切な価値観となった。

アメリカは人種の坩堝(るつぼ)と言われるくらい
様々な人種の人たちが同じ環境で生活している。

ネイティブのアメリカの血のみを血統として
持っている人はいないのではないだろうか。

白人、黒人、黄色人種(アジア系)
その中にも様々なバックグラウンドを持った人がいる。
お金持ちだけでなく、その日生きるのも精一杯な生活をしている人

それぞれが持っているお互いのイメージがある。

例えば、白人に対してのイメージ。
鼻がたかく、イケメン。
教養がある。
生活に余裕がある。
人種において圧倒的優位なイメージ

もしかしたらこんなイメージを持っている人が
多いのではないだろうか?

様々な人種が同じ環境で生活しているからこそ、
お互いのバックグラウンドを理解することができる。

だからこそ、人種に対する理解は厚いのではないかと思っていた。

しかし、現実は違います。

アメリカで1年間生活して思ったのは、

アメリカは人種差別で溢れている
人種に対して、過去の歴史というフィルターを通して互いを見ている人が多い

親しい友人でさえ、黒人を見ると差別用語を平気でいう。
その黒人は白人に対しての差別用語をいう。

日本人の僕たちに対して、

F**k Jap

と日本人に対しての差別用語を言われた経験がある。
めちゃくちゃ怖い。全く知らない人に、過去のイメージが要因で
差別用語を言われる。

もちろん一人ひとりが持つバックグラウンドは異なる。
持っている価値観は違う。

だからこそ、アメリカに行って一番感じた、
大切な価値観は

人は様々な価値観を持っている

ということであり、私の人生にとって、留学をし、実際に様々な人種の人と話したからこそ得られた価値観だと思っている。

3ヶ月のニューヨーカー生活

私は夏休みの4ヶ月のうち、
3ヶ月をアメリカのニューヨークで過ごした。

・新しい挑戦がしたい
・新しい人たちと出会いたい
・新しい価値観に触れたい
・ニューヨークに住んでみたい

そういう思いで夏休み前にニューヨークにある日系企業での
マーケティングインターンシップに参加することを決めた。

オフィスの場所は世界的に有名なタイムズスクエアから徒歩3分
毎日の生活でタイムズスクエアを横断していた。

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マーケティングのインターンでは、
日本の企業がアメリカに商品展開する為の物流、
商品開発、営業のサポートを行っていた。

日本で販売されている製品は日本人の衣食住に合わせて作られている。
例えば、清掃用品は日本の一般的な家で使えるサイズで、日本人の好みの色やデザインが施されている。

その製品をアメリカで売るためには、
アメリカ人の衣食住に商品を改良する必要がある。

僕が任された仕事は、

プラスチックのカップをアメリカのカフェに導入してもらえるよう
改良する為のマーケティング調査

インターン開始の翌日には、
会社の社長と部長と社員と私の4人で連日MTGを行った。

何をターゲットとするのか
インタビューは誰にすると効果的なのか
現在、どのようなカップがカフェに導入されているのか
カップの物流の拠点はどこか
カップ一個あたりの原価はいくらか

これ以外にも様々な点について調べる必要があった。

私に任せられたのは、

ニューヨークシティ中のカフェに行き、
・扱っている全てのカップのサイズ
・デザイン
・扱うカップとリッドのメーカー調査
・日本企業が導入したいカップを見てどう思うかのインタビュー

をするというものであった。

その日から毎日5件以上のカフェに行き、
その店のマネージャーにインタビューをし、
インタビュー結果とその他の情報をまとめる。

という忙しい毎日を過ごすようになった。

おかげで私自身、今でもマンハッタンの地理を完璧に覚えており、
ニューヨークのどこのカフェが美味しいかを案内できるという自負がある。

ニューヨークでの生活は最高だった。
3ヶ月住んでいたが、毎日が新鮮だった。
毎日新しい出会いがあった。

その一方、ニューヨークでの生活で現実を見ることにもなった。

ニューヨークといえば、
明るくギラギラしたイメージがあるのではないでしょうか?

確かに5th Streetなど映画でもしょっちゅう出てくるような
キラキラした街並みが有名です。

しかし、ニューヨークで住んで思ったのは、アメリカで行った都市の中で一番ホームレスの人が多い都市だということです。

昼からお金を求めてくる人。
道端に座って拾ってきたスターバックスのカップを前に置き、
家、お金がないと話す人
マクドナルドのゴミ箱から食べさしのハンバーガーをとって食べる人
電車の中で突然大きな声で貧困について訴える人
両足がないひとで車椅子を借りる余裕がなく、手を使って移動している人

その反対に

きらびやかなブランドを身につけている人
高級なスーツを着こなし通勤する人
最高級のホテルに泊まり、最高級のご飯を食べ、酔っ払っている人
楽しげに時間を過ごす観光客
ニューヨークの夜景を毎日見れるマンションの高層階に住む人

こんな人たちを私は3ヶ月間毎日のように見続け、
本当に人生とはなんなんだと思うようになりました。

そして、いろんな人がいて、その人たちは自分の価値観をもとに全力で毎日を生きているという事実を知りました。

このニューヨークでの経験はかけがえのない時間になりました。

アメリカでの留学、ニューヨークでの生活は私の価値観や人との関わり方を大きく変えるきっかけとなりました。

その経験をしてから、人に対して今まで以上に反発したり、怒りを覚えることはなくなりました。

どんな時でも、どんな人と出会っても、
その人にはその人の価値観がある。

この人はこういう人なんだと思えるようになりました。

○留学とニューヨークでの生活で学び、気づいたこと○
・人には様々な価値観がある
・違うということは素晴らしい
・その人にはその人らしさがある
・全ての人が素晴らしい
・全ての人を受け入れるよう努力したいと思った

就職 ースターバックスとの出会いー

大学卒業後、スターバックスをフランチャイズで
運営する企業に就職しました。

スターバックスコーヒーで学んだことは、

・企業のmission(企業理念)/values(価値観)の大切さ
・Mission&Valuesの従業員への落とし込み方
・一人ひとりの従業員とのコーチングを用いた関わり方

仕事の内容に関しては大きく分けて2つです。

①オペレーション業務(接客/ドリンク作成/その他業務)
②マネジメント業務(店舗運営に必要な採用から育成計画、育成、経理関係等)

内容に関しては仕事の関係上、詳しくいえないので、入社してから経験した大きな私自身の成果についてお伝えします。

全国売上圧倒的2位の店を全国1位の店舗へ

私が在籍した店は全国のスターバックスでも有名な繁忙店であり旗艦店でした。
スターバックスの顔であり、世界中からくるお客様にとっての日本のスターバックスのイメージを決める店でもあるような位置付けとして重要な店で副店長をしていました。

私たちの店舗としての目標は全国売上1位。
しかし、全国1位店舗の売上は全国で圧倒的に1位であり、
私たちの店舗とは比較できないくらいの売上を誇る店でした。

全国のスターバックスの中でも社員の数が多い店舗で、
社員間で役割分担をしていました。

店長ともう1人の副店長(ビジネス)
私と他の社員は従業員(人/モノ)

経営の3要素(ヒト・モノ・カネ)を社員間で分担し、各社員の強みを活かすことで売上を最大化、店舗運営の安定を図りました。

私の役割は、副店長として従業員との1on1を行い、
店舗が進む方向と個人が進みたい方向を合わせることでした。

何の為に売上を上げるのか。
何の為に働くのか。
何の為に企業理念、価値観を理解するのか。
なぜ日本一を目指すのか。

全国でもトップクラスの従業員数を誇る店舗であり、約90人(1人当たり1時間)に対してマインドセットを行いました。

様々な価値観や目的を持って入社してきてくれています。

社員が売上にフォーカスしすぎることは、一般的に反発を生みます。
なぜなら、スターバックスで働く従業員が入社したきっかけは、

理想のバリスタになりたい
スターバックスの素敵な雰囲気を作り出したい
お客様にまた来たいと思ってもらえるような素敵な会話をしたい

このように様々な理由があります。
そして、その理由のほとんどがヒトにフォーカスしています。

だからこそ、
「社員が売上にフォーカスする=たくさんの人を捌く、スピード重視」
というスターバックスとは逆行したネガティブなイメージがつくのです。

一般的にスターバックスは

パートナー(従業員)
カスタマー(お客様)
ビジネス(お金)

の3軸を成り立たせることでスターバックスでの感動体験を生み出します。

パートナー(従業員)
素敵なパートナーがお客様にまた来たいと思ってもらえるようにする為に、常に素晴らしいサービス、質の高いドリンク、清潔で居心地の良い店舗環境を作り出します。そして、お客様一人ひとりに合わせたサービスができるよう、常にお客様のニーズを察し、繋がり、期待に答えます。
カスタマー(お客様)
最高のサービスを受けたお客様にとってスターバックスが第3の居場所(家でもない、職場でもない、それ以外の自分の居場所と感じられる場所)となります。
ビジネス(お金)
また来たい、自分の居場所と感じてくれるお客様の店舗はお客様の笑顔に溢れ、それが店舗を運営するためのお金に変わります。そして、感動体験をさらに提供できるようになります。

この順で考えるのが一般的なスターバックスです。
そして、これを体現できている店舗を作り出せた時、従業員にとっても、お客様にとっても最高に居心地の良い店舗ができます。それはスターバックスの価値観に則り、企業理念(Mission)を体現することにつながります。

もちろんスターバックスに入社してくれる子のほとんどの子が
これに共感してくれます。

しかし、私たち社員はより経営目線で店舗を見ていました。

ビジネス(お金)
売上を向上させることで、安定した雇用を確保することができる。従業員も売上があるからこそ、契約時間を伸ばすことができ、たくさん働くことができる。つまり、たくさん働くことができるということは、お客様と繋がることができる時間が伸びるということになる。
パートナー(従業員)
契約時間が伸びるだけでなく、より多くの従業員を採用することができる。その結果、1時間あたりに働ける人員の数を増やすことができ、一人ひとりに求められる作業負担が減る。負担が減ったパートナーはより多くの時間をお客様との会話にかけることができる。たくさんの会話を通して、入社した時の理想のバリスタに近づくことができる。ニーズをより察することができるようになり、人としても成長することができる。
カスタマー(お客様)
従業員数が多い為、多くのお客様が期待している「素晴らしいサービス」「質の高いドリンク」「清潔で居心地の良い店舗環境」を常にお客様は感じることができ、またきたいと思ってもらえるようになる。その結果、お客様の再来店頻度が高まる。そして、お客様の日常が豊かで活力あるものになる。

私はこのことと一人ひとりのパートナーが求めるなりたい姿についてすり合わせし、店舗の従業員全員が同じ方向に向くようにマインドセットを行いました。

もちろん、それでも反発する人はいました。

だけれども、私たちは従業員とお客様を信じ続けました。

その結果、1,000万円以上あった売上の差を逆転し、売上において

日本一のスターバックスを作り上げることができました。

日本一になった時、店舗がすごく輝いていました。
従業員がすごく成長していました。
そして、スターバックスとしてのあるべき姿(企業理念)を
体現することができていました。

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○スターバックスで学び、気づいたこと○
・物事を当たり前とは異なる視点で見れるようになった
・企業のMission&Valuesを従業員のあるべき姿に合わせて落とし込めるようになった
・圧倒的に売上を上げる方法を一つ知ることができた
・カフェを運営できるようになった
・様々な価値観を持った人を同じ方向に向くように企業理念を根本から理解できるようになった
・心の底からスターバックスが好きになった。

Next Stage ーコーチングとの出会いとこれからー

コーチングと出会ってから約4ヶ月。
私の人生は大きく変わりました。

私の言葉、思考、行動、周りの環境が驚くほど変わりました。

私は心の底から4ヶ月前の自分と比べて進化したと
自信を持っていえます。

なぜなら今の私は現状の外側に生きているからです。

2ヶ月前に設定した現状の外側のGOALに
圧倒的なスピードで近づいています。

だからこそ、今後も現状の外側のGOALを更新していきます。

今こんな人生を歩むことができているのは6月のある人との
出会いがきっかけです。

株式会社GOAL-Bの山宮健太郎さんです。

山宮さんの動画に出てくる、
山宮さんのコーチングを受けた人たちの言葉や表情。
初めて見たとき感動しました。

この人と話すだけでこんなに人は変わるのか。
こんなに生き生きした表情をするのか。

僕も人をこんな表情にしたい。
人の成長をサポートしたい。
人の進化を作りたい。
これからは僕も人の進化を作っていく仲間になる。

私は2020年6月から変わりました。

私が今まで歩んできた人生は常に「人」と共にあった。
「人は様々な価値観を持っている」
「人は変われるんだ」

そして

「人を全力で信じたい」

全ての人には最高の可能性がある。

人種なんて関係ない
年齢なんて関係ない
言葉が違うなんて関係ない
住む環境なんて関係ない

全ての人が素晴らしいという事を25年という短い人生であるが
感じることができている。

だからこそ、私は全ての人に向き合っていく。
全ての人の可能性を信じたい。

だからこそ、
どんな時も全てのことに全力を尽くす。

これが私の生き方。

全力で行動しているときの人は美しい。

人生を通して得た価値観をこれからも大切にしていく。

見栄を張らず、全ての人がその人らしく
生きれる世界を作っていきます。

「コーチング」は自信を持たせてくれます。
今の自分に自信を持っていいんだと気づかせてくれます。

「コーチング」を受けると
僕がそうであるように、人生が圧倒的に加速します。

私はプロのコーチとしてこれからも
全ての人の可能性を引き出していきます。

私のクライアント様やGOAL-Bの皆様からいただいた声

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スタバ退職 ースターバックスとの別れー

2020年12月末

私は2年7ヶ月働いた、CCC株式会社を退職しました。
本当にCCCで働いた経験が今後の人生に大きく影響することを確信しています。

CCCではスターバックス事業部の社員として3店舗を社員として経験しました。
スターバックス約1600店舗の中でも売上トップクラスの店舗を経験し、苦しい経験がほとんどでしたが、非常に多くの学びと成長を感じることができました。

店舗=小さい会社

と私は考えています。

店舗マネジメントにおいて、「ヒト・モノ・カネ」を常に考え、1年以上先の店舗の姿を考えて運営をする必要があります。

採用から育成
売上を立てる戦略を考える
利益を生み出す
理想の未来を描く

ごく一部であり、さまざまなことをする必要があります。
2年7ヶ月、店舗業務を一通り行った上で、いつも考えていることがありました。

私の強みが生きる場面とサポートが必要な場面が
私の中で明確になりました。

私が一番生き生きと強みを活かして
働くことができた場面はどんな時か

それは

従業員(スタバではパートナーと呼びます)の未来を一緒に考え、なりたい姿から逆算し、ではどんなバリスタになりたいのか、直近4ヶ月では何ができるのか、どんな姿になっていたいのか、について一緒に考え、行動にうつした時がもっとも上長や従業員から評価された部分だと考えています。

そして、私自身もその仕事がもっとも好きな仕事でした。

これをスターバックスでは、

・目標設定MTG
・人事考課

と言います。

だからこそ、人の未来の幸せを一緒に考え、長期的に人の人生に関わることができる仕事がしたいという気持ちになりました。

転職する

そう私の中で決心がつきました。

なので、退職を伝えた時によく聞かれたのが、

・何か嫌なことでもあったのか?
・不満が溜まっていたのか?
・何か言いたいことはないか

こんな質問を上長にされました。

しかし、私自身、後ろめたい理由は一切ありませんでした。
なぜなら、今回の転職は

・私自身の強みを活かし、将来的に活躍できるような環境にいきたい
・20代のうちにもっといろんなことにチャレンジしたい

という理由だったからです。

もちろん、スタバで継続して店長を目指すことも十分に考えました。
転職活動でもよく「なぜ店長にならなかったのか?なぜ店長を目指さなかったのか?」

とよく聞かれました。

しかし、私自身、転職の理由/軸が明確であった為、
どんな質問がきても答えることができました。

改めて、学生時代より約6年間働いたスターバックスでの経験は私にとってかけがえのないものになりました。

本当に感謝しかありません。

会社のVISIONの大切さ/人にVISIONを伝える難しさ
お客様のニーズを察し、繋がり、答えた経験
コーヒーの面白さ
一緒に働いた上長やアルバイトPTRの皆様との関わり

かけがえのないものになりました。

たくさんご迷惑をおかけした部分も多々ありますが、
この経験をもとに次のステップに進みます。

僕と一緒に働いてくれた方、
常連の僕のことを応援してくださった皆様、
本当にありがとうございました。

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2021年3月2日 追記

新たな挑戦 ーコーチングカフェ兼個展(Gate_Tokyoの誕生)ー

2021年1月10日 私は一つの大きな決断をしました。

コーチングカフェ兼個展を5月の誕生日に開催する

昨年7月よりずっと開催したいと思っていたけど、
1歩踏み出すことができていなかったことでした。

おそらくほとんどの人の心の内に「〜したいけど、できていない」
ということがあると思います。

特に、2020年3月より急増した未曾有の感染症、コロナウイルスの蔓延により私たちの生活が大きく変わりました。

私たちの日常が大きく変化しました。

外に出たいけど出ることができない
大学で授業を受けたいけど受けることができない
人と会いたいけど会うことができない
留学に行きたいけど行くことができなくなってしまった
何かしたいことがあったけど諦めることになった
etc...

世界中にこんな言葉が溢れた年になったのではないでしょうか?

私も店舗を運営する立場としてコロナの影響を大きく受けましたし、コロナの影響を受けてしたいことができなくなった人を多く見てきました。

この状況で何かやるせない気持ちになっている人が

少しでも今だからこそ何かできるのではないかと考え、1歩踏み出して欲しい。
その1歩を踏み出すきっかけになるカフェを開催したい。

この思いがこのプロジェクトを決意したきっかけです。

(単純にカフェをしたいという思いもずっと持っていました笑)

このプロジェクトを立ち上げ、何をしたかというと

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どんなカフェにしたいのかについてブレインストーミングを行いました。

「コーチング」×「カフェ」×「個展」

この3つの価値をお客様に提供します。

カフェの概念についてまずは考えました。
今まで行ったカフェの共通点は何か、なぜカフェに私は魅了されているのか?

・長居できる
・美味しいコーヒーが飲める
・自分の居場所と感じられる
・ゆっくりとした時間を過ごし、リラックスできる
・店員さんとの会話が好き(スタバ)

私にとってのカフェ像を考えたときにこれに魅了されているのだと感じました。
このnoteを読んでいる方も共感していただけるのではないでしょうか?

この中でも絶対に外せないなと思ったのが、

・美味しいコーヒーが飲める
・自分の居場所と感じられる
・ゆっくりとした時間を過ごし、リラックスできる
・店員さんとの会話が好き(スタバ)

私がどんなカフェを作りたいと思ったか、
それは、

少しでも今だからこそ何かできるのではないかと考え、1歩踏み出して欲しい。
その1歩を踏み出すきっかけになるカフェを開催したい。

先ほど書いたこんなカフェです。
これを達成するために、何が必要か?

前に1歩踏み出すことができていない人にとって
「自信がない」「私なんかにできるはずがない」「新しいことを始めるのが怖い」
となっているのではないでしょうか?

めちゃくちゃわかります。
僕も同じ気持ちです。

誰にとっても前に進む(=現状を抜け出す)ことは怖いことだと思っています。

私たちはその不安を「気づき」を通して解消します。

「気づき」→自己理解が深まる

と考えています。

私たちのカフェに来て、「気づき」を得て、自己理解が深まったとき、何かその人にとって「〜したいけどできていない」ことに挑戦したいと思う。

前に1歩踏み出し、行動したくなる。

そんなカフェ空間を提供します。

Gate_Tokyoコンセプト=「早く帰りたくなるカフェ」

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・美味しいコーヒーが飲める
・自分の居場所と感じられる
・ゆっくりとした時間を過ごし、リラックスできる
・店員さんとの会話が好き(スタバ)

この価値を維持しつつ、今までのカフェの概念を覆す、

「早く帰りたくなるカフェ」

を実現し、「あなたの踏み出すことができていなかった1歩」
のきっかけになります。

では、どのように「気づき」をカフェで得るのか?

それは私たちのカフェが提供する価値からお客様が
「気づき」を得ることができます。

そして、その価値の感じ方は私たちが提供し、感じてもらいたい!ではなく、
来てくださった方一人一人が見て感じていただいた結果、何かしらに価値を感じていただき、その結果、「気づき」に繋がるものだと思っています。

「コーチング」を通して、あなたの気づいていなかった良さに「気づく」
「コーヒー」を飲んでリラックスして内省しているときに「気づき」を感じる
「個展の作品」を通して製作者の思い/作品に対しての想いから「気づき」を得る

2021年2月20日(土) 21:00〜

クラウドファンディングを開始しました。

開始まで様々な準備をしてきました。
私のプロジェクトに共感してくれる人が仲間になってくれました。
プロジェクトの想いに共感し、アドバイスをくださる方がいました。
プロジェクトを応援してくれる人が毎日増えていきました。

5月4日5日、開催の為に私たちは全力でまずはクラウドファンディング成功に向けて頑張ります。

ぜひ一緒に実現しましょう。

あなたの支援が誰かの「きっかけ」になります。
あなたが支援することが既に「行動」になっています。

プロジェクトに関しては以下のクラファンサイトに詳細を記載しています。
一緒に実現しましょう!

人生再スタートー「自分の人生は自分だけのものではない」ー

2020年7月 私の双子の弟が

急性リンパ腫白血病

を発症しました。

成人の1年間の発症率は約10万人に1人程度。

人生において、兄弟以上の存在。
一緒にいなくても心が通じ合っている双子の相方が
いつも通りの生活を送れなくなりました。

コロナの影響で、お見舞いにいくこともできない。
顔を見ることもできない。
話すこともできない。
頑張れっていうこともできない。
私は実家に帰ることもできない。

いつも通りの日常。
それが当たり前ではないと改めて感じた瞬間でした。

急に姉から電話があり、
姉は泣いていました。

仕事の休憩中に電話に出ました。

休憩中、外で声を出して泣きました。
涙が止まりませんでした。
そんなはずない。弟がそんな病気にかかるはずないと
自分自身に言い聞かせていました。

それでも涙が止まりませんでした。

私はそれから1週間、
仕事を休みました。

考えたらすぐに涙が出ました。
弟への応援メッセージ。

カメラに向かってメッセージを言うだけで、
涙が溢れてきました。

1週間、今までの弟との人生を振り返りました。

「自分の人生は自分だけのものではない」

心の底から出てきた言葉です。

いつもの日常を送れない弟がいるのに、
YouTubeを見ている自分に怒りました。

いつもの日常を送れない弟がいるのに、
時間を無駄にしてしまっている自分に怒りました。

弟の分も人生を豊かにする。
自分の時間は自分だけのものではない。

弟の分も時間を大切にして生きていく。

そう誓いました。

最後に

今の自分がいるのは圧倒的に
今まで私に関わってくれた人のおかげです。

私を支えてくれた方々のおかげです。

私は人生を通して「感謝」
人に伝え続けていきます。

本当にありがとうございました。

そして、これからも全力でサポート
よろしくお願いいたします。

25年間、「人」に生き、「人」に時間を使い続けた人生でした。

それくらい私は「人」が好きです。

なぜなら、
全ての人は素晴らしいからです。

これからも全ての人の素晴らしい人生を
もっと素晴らしいものにできるよう「コーチング」を
提供していきます。

出会った人に私のリソースを全て注いでいきます。

私の時間を全力で「あなた」に注ぎます。

あなたの人生を全力でサポートします。

最高の人生を共に歩んでいきましょう!


「西田悟視」に興味を持ってくださった方。
そして、
「もっと人生を加速させたい」
「加速させたいけどどうしたらいいかわからない」
「僕と一緒に最高の人生を作っていきたい」

と思っている方、ぜひ僕の「コーチング」を受けてみてください!
話を聞いてみたいと言う方も大歓迎です!

コーチングの申し込みやSNSは以下にありますので、ぜひご覧ください。
そして、共感してくださった方、ぜひご連絡ください。

○Twitter
https://twitter.com/NishitaSatoshi

○note
https://note.com/satoscoaching

○YouTube
https://youtu.be/QwHDz8y1hQU

YouTubeでは私の日常をルーティン動画として投稿しています。
まだ始めたばかりですが、ぜひ応援お願いします!












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最後までお読みいただき、誠に感謝致します。 よろしければサポートをお願い致します!今後、プロコーチとしての活動(CTI受講料/コーチング資料購入)に活用し、みなさまにアウトプットさせていただきます!