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家族の話

どうも専務佐藤でございます。

今年で創業30年を迎えたおおぎ荘の一応3代目候補です。

皆様のおかげで30周年。心より感謝申し上げます。

はい。3代目候補って言うのは、私、男4人兄弟の長男でして。もしも弟3人の誰かが帰って来て『兄貴には任せられない。俺が旅館やる。』って爆弾発言ぶっ放したら、山口百恵よろしくそっとステージにマイクを置いて、三浦友和を影で支えようと思っております。

いや、まあ。多分。弟の方が僕よりしっかりしてます。

だってねー。文章読んだら分かりますでしょ。

ね。お兄ちゃん、こんなんですもん。

これ弟が貴乃花だったら、僕なんかとっくの昔に絶縁されてますよ。

断髪式にお兄ちゃんは来るのかって連日ワイドショー賑わせてるはずです。

坂上忍あたりがバイキングでイジってるはずです。色黒の元力士、龍虎さんをコメンテーターに迎えて。坂上忍が「これさー。どうなの?」とか野々村真あたりにフッてるはずです。で、野々村真がアタフタするんです。もう目に浮かぶ。いやホント良かった。弟が貴乃花じゃなくて。

えっと。最初にサラッとヌルッと創業30年と言いましたが、別にアニバーサリー的な何かは特にしてません。ホントはしたかったんですけど、コロナ禍のこの状況で『30周年アニバーサリー宿泊プラン!来てはいよ!』とか銘打ってもね。世間では不要不急の外出は控えてください。って言われてるときにどうなの?って思ってやめました。いずれ何かしようと思っております。その時は是非来てはいよ!

旅館おおぎ荘の創業当時は私はまだ4歳で、ホントに記憶にないです。旅館業というものに初めて取り組む初代社長の祖父。初代女将の祖母。そして旅館業を行う事に反対しながらも、祖父母の意見を無理矢理通された当時まだ20代の父と母。

父は長距離トラックの運転手でした。私が1、2歳の頃は大型トラックの助手席に乗せて親子2人旅って感じで日本全国を走り回ってたそうです。いやホント申し訳ない。俺には全くその記憶が無いぜ。

それがいきなり「今度、旅館するからトラック運転手やめて手伝え!」ってなって渋々父と母は、旅館を手伝いだしたそうです。意見など聞かれずに。

祖父は、幼い私から見ても理不尽の塊って人でした。

気に入らない事があるとすぐに物に当たる。
気に入らない事があるとすぐに怒鳴る。
気に入らない事があるとすぐに焼酎を呑んで酔って文句言う。
気に入らない事があるとすぐにふて寝する。
気に入らない事があるとすぐに燃やす。

燃やす?

はい燃やしてました。

祖母が買ってきた服が気に入らないとかで新品の洋服を田んぼでゴンゴン燃やしてました。いまだに強烈に覚えてます。

うわ、おっさん買ってきたばっかの洋服燃やしおるわ。って小学生の私、度肝を抜かれて見てました。

あと小学生の頃、私が弟とキャッチボールをしていたら「俺もさせろ。」と言って弟のグラブを借りてキャッチボールに参加してきました。

じいちゃんとキャッチボールなどした事も無く、初めての体験にワクワクした私は張り切って初めてのじいちゃんとのキャッチボール第一球をじいちゃんの胸目掛けて投げ込みました。

ボールはじいちゃんの取りやすい顔付近にコントロール良く、かつ勢いよく投げ込まれ、グラブを構えたじいちゃんの顔面付近に吸い込まれていき、構えたグラブの隣をすり抜け顔面にめり込みました。熊猟師が見たら絶賛するくらい綺麗に眉間にヒットしました。

じいちゃん…運動音痴だったんです。

顔を押さえて、倒れ込む祖父。
啞然とする私。
祖父の隣で必死に笑いを堪える弟。

時が止まったような静けさのなか、転がるボールのポーンポーンて音だけが響きわたっていました。

ボールが止まったくらいに祖父は何も言わずにスクっと立ち上がり、はめていた弟のグローブを地面に思いっきり叩き付け、無言で帰宅しました。

プロ野球珍プレーの伝説の宇野のヘディングと星野仙一のグローブ叩き付けを間近でセットで見た私と弟はしばらく

「すげーもん見たな。」「うん。じいちゃん、結局ボール一球も触って無いね。」「俺悪くないよな。」「うん。ストライクだった。」

と笑いを堪えながらキャッチボールを再開しました。

帰るとおでこに湿布貼って焼酎飲んでるじいちゃんがいました。

何かこうやって並べて書くと悪魔のような祖父でしたが、私達兄弟はじいちゃんの事、別に嫌いじゃありませんでした。むしろ好きでしたし。たまに俺もやっぱりじいちゃんの血が流れてるなって思う事ありますし。

父とは、あまり折り合いが合わなかったみたいですけど、そこに関しては祖父の理不尽がダイレクトに父に行ってたので、父の気持ちが痛いほど分かります。そりゃそうだよなって思うところです。

祖父ももう亡くなって、5年になります。晩年5年くらいはアルツハイマーやパーキンソン病を患い、意思疎通も難しくなって。

死ぬ前に一回だけでも一緒に焼酎呑んでおけばよかったなって思ってます。

じいちゃん、これ見ても怒らんでよ。俺にはいい思い出なんだから。


祖父は初代社長でありまして、父に会社を譲ったあとに2代目会長となりました。2代目って事は初代がいるって事なんですけど、初代会長は私の曽祖父。ひいおじいちゃんになります。

まあ厳密に言いますと、会長って言いましても曽祖父は旅館経営にはノータッチですし、会社役員でも無かったので会長でもなんでもないんですけど、従業員さんからは会長って言われてました。

言っててややこしいですけど、正式には創業者である、祖父がやっぱり初代会長です。

で、私、この曽祖父にすごく可愛いがってもらってまして。

目に入れても痛くないって感じで寵愛されておりました。

家にじいちゃんが2人いるからか私達兄弟は祖父の事は『じいちゃん』。曽祖父の事は古いじいちゃんで『ふりじいちゃん』。って呼んでました。

このふりじいちゃん。明治の生まれでして私が生まれたときに80歳でした。

私が生まれたときに仲の良い友達などに宣言したそうです。

『この子の結婚式まで生きる』って。

ホント嬉しそうだったって聞きました。

私は生後一か月ほどから、このふりじいちゃんと夜一緒に寝てたそうです。と言うよりも溺愛しすぎて拉致して行ったって聞きました。

自分に子ども生まれて気付いたけど多分、私の母は寂しかったんじゃないかな。って思います。

いや聞いた事無いけど。いや聞く方が気持ち悪いけど。

だって質問が

『俺と一緒に寝れんかったのって寂しかった?』でしょ?

うん。気持ち悪い。

実際、私には父や母と一緒の布団で寝た記憶ありません。常にふりじいちゃんの隣で寝ていました。それが普通って思ってました。

寝るのも一緒。散髪に行くのも一緒。買い物に行くのも一緒。ホント思い返すと常に隣にはふりじいちゃんがいました。

弟達も可愛がってたはずなんですけど、そのなかでもずば抜けて私を可愛がってた。弟も多分思ってると思います。

そんなふりじいちゃんですね。

文字が読めなかったんですよ。

適切な言い方か分からないですけど、文盲でした。もちろんしゃべりはできますよ。ただ、明治という時代もあって訳あってほとんど学校に行っておらず、文字というものを学習してこなかったそうです。ギリギリ自分の名前が書けるくらい。

私が幼稚園の頃、こんな事がありました。

幼稚園から帰宅した私は、園から借りてきた絵本をふりじいちゃんのところへ持って行き

「この絵本読んで」

とせがみました。

ふりじいちゃんは困った顔して

「ふりじいちゃん、読みきらん。ごめんな。」

と絵本を私に返して来ました。

ふりじいちゃんはとても寂しい顔してて。でも私は大人は絵本を読んでくれるものだと思っているから

「何で?」

と何度もせがみました。

「ふりじいちゃんは字が分からんもん。」

と苦笑いしました。

30年前の出来事ですが、このやり取りはなぜかいまだに凄く覚えてます。多分ふりじいちゃんの寂しそうな、申し訳無さそうな顔を見たのがこの時が初めてだったから。

その後、ふりじいちゃんは私の母に言ってきたそうです。

「字を覚えたい。」と。

「曽孫達に絵本を読んであげたい。」

その一心でその日から少しずつ。教育テレビや私が持って帰ってきた絵本を参考にしながら。分からない時は母に聞いたりして。少しずつ少しずつ字が読めるようになっていったそうです。

1年もすると漢字は無理だけど、ひらがなの絵本だったら読めるようになったそうです。

私は、ふりじいちゃんから絵本も読んでもらえるようになりました。ゆっくり字を一つ一つ追いかけるように。

「む」「か」「し」「あ」「る」「と」「こ」「ろ」「に」「お」「じ」「い」「さ」「ん」「と」

みたいにホントにゆっくり間を空けながら読む事しか出来なかったけど、私にはそれが心地良くて。私も一緒に字を追いかけながら読んでたので、私は字を覚えるのは早かったみたいです。

その後もふりじいちゃんは誰かに読み聞かせる時じゃなくてもライフワークの一つとして絵本を声に出して毎日読んでいました。

私にも子どもが生まれて絵本を読み聞かせる機会ができて。

あのときのようにゆっくり読んであげようと。

ふりじいちゃんのようにゆっくり子どもに読み聞かせてあげたときに、あのときのふりじいちゃんとの思い出がフラッシュバックして思わず涙が出て来ました。

その後私も小学生になり、曽祖父も90歳を迎え少しずつ、ふりじいちゃんが弱っていくのが分かって来ました。

2人の関係性は変わらず、一緒の部屋で過ごし、一緒の布団で寝て、朝はふりじいちゃんに起こしてもらい。学校に行くときも見送ってくれて。

その頃のふりじいちゃんは私が高校生になるまでは生きると言っていたそうです。

小学5年生の頃、ふりじいちゃんが体調が悪くなり入院しました。

年も年なので、病院の医師からも「覚悟をしておいてください。」と言われたそうです。

父と母、そして私達4兄弟でお見舞いに行きました。病院は家から1時間ほど離れた所にありました。近くの病院では治療は厳しいとの事で。

病院に向かう道中、父が運転しながら

「最期になるかもしれないから、いっぱい話しなさい。」

と。

私はふりじいちゃんはそんなに悪い状態じゃないと思っていたので

(えっ最期?あんなに元気だったのに?)

と物凄く動揺してしまいました。

そんな事無いと心では思っているものの父の最期という言葉が重く私にのしかかり病院に向かう車中、ずっと胸が張り裂けそうになっていました。

ただふりじいちゃんの前では明るくしようと心に決めて。

病院に着き、曽祖父の入院している部屋を開けると、そこにはたくさんのチューブに繋がれたふりじいちゃんがいました。苦しそうに鼻にも呼吸器を付けて。

私達を見たふりじいちゃんは、か細い声で「来たか。」と言ってそのまま声を上げて泣き出しました。

「会いたかった。」「もう最期かもしれん。」「最期に会えて良かった。」「学校頑張れ。」

と私達の手を握って、泣きながら声にもならない声で話しかけて来ました。

ふと見ると、私達より先に父と母が泣いてて。怖く厳しい父が泣いてる姿など見た事も無く、父は泣かない人だと思っていたのに、そんな父が号泣しながら、ふりじいちゃんの手を握り締めるのを見たときに、泣いてもいいんだと思って堪えてた感情が爆発して私はふりじいちゃんに泣きつきました。

「死んだらいかん。帰ってまた一緒に寝るばい」

と言うと

「うん。うん。」

と頭をさすってくれました。

その2週間後。



ふりじいちゃんは不死鳥の如く元気に帰ってきました。

医者もビックリするくらいの驚異の生命力を見せて、家に帰ってきました。

私は退院するとは聞いておらず、学校から帰るとじいちゃんがいたのにビックリして思わず「死んでないと?」と超失礼な事をふりじいちゃんに言いました。悪気は無いし嬉しかったのに、ただビックリして口から出ただけです。

今でも忘れないその日の小学校の宿題の日記のタイトル。

『ふりじいちゃん、死の淵から生還する。』

担任の先生からすげー褒められたのを覚えてます。いやこれマジなんですけどなんかすげー褒められました。

まあ、ふりじいちゃん帰って来て相変わらずライフワークの絵本読みも続けてたんですけど、やっぱり体調はあんまりよろしくなかったんですね。

その頃は私が中学生まで生きるってのが目標だったみたいです。

在宅治療という形で、家で呼吸器や点滴をしながら過ごしていましたが日に日に弱って行きました。


私が小学6年生の1月、訪問医からこの1週間が峠でしょう。と宣告されました。

でも私のなかでは前回の最期と見せかけての復活劇があったのでそこまで気にしてませんでした。

その日、ふりじいちゃんは自宅で息を引き取りました。

特に今生の別れなどもせずに。

あまりにも呆気なく、私の大好きなふりじいちゃんは旅立って行きました。

中学生になった私を見る事も無く。

私にとっては初めての家族が亡くなるという経験。葬式や火葬などあっという間に過ぎて行き目の前で行われている事が現実なんだろうかと何度も首を捻り。

ただ、ふりじいちゃんと一緒に過ごした部屋は私一人だけが取り残されたようないつもより広く感じる6畳でした。

ふりじいちゃんのライフワークだった絵本はどこにいったのかもう分からないです。ただあのふりじいちゃんとの絵本の思い出は私が死ぬまで無くならないです。弟達の心にも強く残ってるんじゃないかな。



ふりじいちゃん、そちらはどうですか?絵本は読んでますか?こっちはみんな元気です。たまにこんな感じで文章書いてます。ゆっくりでいいんで読んでください。

いや、あのーやっぱり読まないでください。

あなたの寵愛した私のバカさがバレるから。

いずれそっちに行った時の話のネタに取っときます。

ご報告までにとりあえず旅館創業30年を何とか迎えました。

頑張ります。

ではでは。

















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