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むらさきのスカートの女

作者の本を読むのは初めてだった。

タイトルが好きなので気にはなっていた。
読書は好きだが、私の読む作者は偏っているので、知らない本も多い。
だが、時々恋愛小説を書く女性作家の作品が無性に読みたくなることがある。
綿矢りさ、島本理生、柚木麻子など。
今村夏子が果たしてそうなのかわからなかったが、本作が文庫化されたのをきっかけに、手に取ってみた。
わたしの持論として、女性作家の描くストーリーはえげつない。なんというか、夢を見ていない感じがする。
この作品もそんな感想を抱いた。


--以下、本編に触れて書きます。--

タイトルのとおり、むらさきのスカートの女が主人公の物語ではなく、その女を見ている第三者の視点としてこのタイトルである。
むらさきのスカートの女は何を考えているのか。働いているのか。歳はそれなりに重ねているようだが、1人なのか家族はいるのか。
子供たちから大人まで、周囲から好奇な目で見られ、テレビの取材も入るほど目立つ。

そんな彼女をずっと観察し続けているのが主人公だ。

黄色いカーディガンを着た女。
むらさきのスカートの女と違い、だれにも黄色いカーディガンを着た女だとは認識されていない。
普通な人。
最初はそんな普通の主人公の目を通して映るむらさきのスカートの女が、いかに特異かという話だと読者は思う。
しかし、読み進むにつれてむらさきのスカートの女が異常なのではなく、主人が異常なのだと気付く。
むらさきのスカートの女を観察する主人公を読者が観察する構図。
よく考えれば最初から違和感があった。
むらさきのスカートの女と友達になりたいと考える主人公なのだが、彼女とお近づきになるためにとった行動のせいでお店の弁償をするはめになる。そのせいで生活がひ迫する。
そんなありえないような話が冒頭でさらっと触れられて、しかしその違和感を読者にスルーさせるように、淡々とむらさきのスカートの女について主人公目線で語られるのだ。

結局この物語が何だったのか、よくわからない。
わからないけど、恐ろしくてぞっとする。
読後だが少し腑に落ちたのは、巻末の作者のエッセイだった。本作にまつわるエピソードが描かれている。作者の心の中の叫びが、ものすごく主人公とリンクしていたのだ。
以前、小説というものは、小説家が一から全く違う世界を作り出すものだと思っていたが、大人になって何冊も読んでいくと、小説家によっては登場人物や設定が変わろうと、根幹のテーマというか、言いたいことはどれも同じなんだということに気づいた。
例えば村上沙耶香はコンビニ人間が代表作だが、彼女の書いたマウスや最近書かれた作品も、コンビニ人間と扱っているテーマが非常に似ている。彼女の根幹をなすものなのだと思う。
今村夏子もそんな小説家な気がする。

話はそれたが、社会や人間関係の憂いを訴えているというより、人間だれしもが持っているけれども表には出さない執着性・自我性をこの作品に感じた。
冒険劇ではないのに何が起きるのだろうというわくわく感もある作品。ぜひ読んでほしい。

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