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「ありがとう」を言える人でありたい

今日は月一献血の日。「今日は何の日」で決まっているとかではなく、ただ自分が予約した日というだけの話。前回、前々回の流れもあって、今回は血漿の献血とした。

前回、前々回の流れとは・・・?(笑)
できるだけ血小板献血をしたいと思っているけど、血小板は年間12回が限度らしい。4月の実施日が4月27日。もし何か予定が少しずれて月をまたいでしまったら、月一できないかもしれない。血漿献血なら2週間ごとだから、5月28日に血漿献血をし、今日、再度血漿献血をすることで、7月は下旬ではなく、上旬にタイミングを移動することができる。ただそういう自分ルールをはみ出さないようにするための小細工である。

思惑通り、今日の血漿献血を終えた後、次回は2週間後に血小板も献血できることになった。ギリギリ6月下旬に行けてしまうが、もしそうしてしまったら、ほかの臓器を疑うことになるからそれは避けたいし、そんな人の血液はお譲りできない。

そうして帰る際、ぼくより少し前に終わった方が帰ろうとしていた。自販機で無料提供されるカップのドリンクを飲み干し、カップをゴミ箱に捨てて、受付の前を通り玄関に向かう。何も言わない。スタッフは「ありがとうございました。お気をつけてお帰りください」と声を書ける。

この方は、ご自身が提供した何かを受け取った人から「ありがとう」のひと言はほしくないんだろうか?と思ってしまう。それとも言われた経験がないのかも?それとも、献血はボランティアだから、無償で善い行いをしている、という感覚があるのかもしれない。

正直、”ボランティア”という言葉を聞くと、ぼくもそういう気持ちになることもあった。感謝される側だという認識。これが”お金”についても結構同じようなことが起きていると思う。お金を払う側が上(偉い)で、商品を売る側が下という感覚。 ”お客様”と言われることから勘違いを生んでしまう。最近よく聞く”カスハラ(カスタマーハラスメント)”もその類。上下ができるから理不尽も生まれる。対等がいい。

献血に話を戻す。よくよく考えてみると、単純に自分一人ではできないことだと思うから、誰かに何かをしてもらっている、という事実だけで、感謝することの理由になる。自分では針を刺せないし、血漿と血小板の違いもわからないし、ベッドや設備、自販機や粗品も用意できない。いただいているものはたくさんある。過剰に謙る必要はないけど、やはり対等なやり取りが望ましいと思う。

コンビニでコーヒー一杯買う時にでも「ありがとう」、牛丼屋さんで食べた後も「ごちそうさまでした」と言いたい。「正直、そんなに大きな声で言えてなかった時もある。音を発するだけでなく、そこにある感謝を伝えるのなら、相手に聞こえるように言おう。










今日聴いたTHE HOME TAKE_9


よく見たら442回とかあるから、追いつく可能性が低い(笑)。今日から最新回も一緒に聴くことにする。
今日聴いたTHE FIRST TAKE_442