「HOME SWEET HOME~ロック&ロック&ロック」 第1話 渡邊 聡
「HOME SWEET HOME~ロック&ロック&ロック」 第1話
渡邊 聡
あらすじ
一夜を共にしたアンナが、幼い頃の思い出を語りだした。その時アンナは散歩中のベンチの上で、記憶を取り戻す。そしてアンナはどうも、自分がさらわれて、監禁されていることに気付き、それは確信に変わる。幼いアンナの身体は老婆のように力が入らず、逃げ切れず捉えられてしまう。虎視眈々とその時を狙うアンナ。幾度か失敗の後、アンナは脱走を図りようやく自由を獲得するが、が、すんでのところでまた、監禁者たちに捕まってしまう。捕まえた彼らは不思議なことを言うのだ。彼女は老婆だと。困惑したぼくは、その物語を咀嚼できないまま、代わりに初めての夜の話をアンナに話して聞かせる。語り終わったアンナは。そしてその表情が。
今こそ、
家にかえろう。
なんどでも再生できる、
家に、かえろう。
アンナの、若草の香りを掻き分けて、丹念に横から舐めていると、突然薄い糞尿とグレープフルーツの香りとともに、しょっぱい液がピュッツと出て、したたりあふれる。あわてて軽い腰を強く抑えると、深く腰を奥まで沈め、小さなアンナに、振り落とされないようにしがみつく、それを、数え切れない位、繰り返した。渇きの不安がよぎった頃、ようやくサミットが見え、見えた途端サミットの力強い引力に引っ張り上げられると、目の前でスパークした黄金色が視界をゼロにした。
脳の表皮が一枚捲れた。
窓の中にそびえるランドマークタワーが、紅一色に染められている。
アンナは言葉にすることを諦めたままだった。そうして、低い母音を発して唸っていた。日に日に香りが、強くなっている。だが、瞼を開けたアンナの目は、クリスタルガラスになって、いつものようにわたしを反射する。
全てが、少し異なっていた。
今日はエレベータから直接、クラブに入った。
VIPルームでなく、その奥のギャルソン用の部屋にある、セミダブルのベットを占拠した。すると、アンナがようやく、語りだしたんだ。
初めて、彼女の言葉を持って。夜が開けるまで。
ぼくは言葉を失い、アンナの語る、アンナの追憶の世界に入りこんだ。
どうやっても、アンナが語ったとおりには、書けないと思う。
だいいち、アンナは自分のことをアンナと呼ばないし、アンナが見て、聞いた、やったことを話すわけだから、アンナの世界を横からぼくは、見て語るしかなかった。
だから、なにが起きてなにをアンナが体験したのか、いちばんわかりやすい容で書くことにする。というか、そう、書くことしか、今のぼくには出来ない。
ぼくはアンナの話しに興味を持った。
その後、アンナがしたように、アンナの舞台になった街を探し当て、彷徨した。
彷徨しては、聞き、確認しては又、彷徨した。
思えばそれらがぼくに、実感を取り戻させたのかもしれない。
何の実感?と聞かれても、説明しようがない。ともかく、それはぼくに、初めて訪れた、実感という実感だった。
ともかく・・・。
アンナの話しをするね。
そう、
アンナの話しは、このような感じで始った。
ベンチに、座っていた。
突然、眼にうつるあらゆるものが、アンナにむかって飛びこんできた。
梅雨があがりたての、照りかえる明るさのような光景は、眼の中に直に侵入してくると、あまりにクリアに、細部までアンナの中にとどまり出した。
とり、くも、そら、きいろ、くるま、かたち、ラベンダー、におい、おもいで、なまえ、・・・。
クレ556が、こびりついた錆びを洗い流すように、手繰られた意識はゆるゆると覚醒し、アンナは今や、自分自身を久しぶりに自覚し体感していた。
イチョウの黄色に敷き詰められた、無風の秋の公園のベンチの日溜り。
すべてが、まさに今、子宮から生みだされたてのように、むせかえるみずみずしい湯気をあげ、匂い立つ。
はっきりと、アンナは自覚した。
幼子である彼女は、監禁されている。
病院、もしくは施設?そして彼女は公園のベンチから、久しぶりに青い空を拝んでいた。
イチョウの葉が暖かな陽に香る、秋の日。
今また、あらたなイチョウの葉が幹に別れを告げ、コマのように回っては、ぽとりとダイブする。
寒さをはじく薄着の少女のように、震えたアンナはそのままベンチで、膝においた両腕をつっぱり一生懸命まず、つながれた旗のような記憶の断片を、手繰り寄せることからはじめたという。
また、肘全体がブルブル震える。
いつからか、はっきり思い出せない。
あの視線だ。
視線が深くアンナのなかに、侵入して意味化する。
『きつね』は、始終忙しそうに振舞いながら、小水がもれそうな時、声をかけてもしらんぷりをするくせに、いつの間にか寄ってきて、手の甲をつねって帰る事だけは絶対忘れない(…先生なんて呼ぶものか)。
あいつは、世話を焼く振りをして、アンナをいつも監視している。
そして決して、チャンスを逃しはしない。
アンナが一人になればかならず、何時の間にかアンナの傍らにくるきつねは、つねる、こずく、絞める、泣く、踏む、押付ける、撫でる、殴る、小声で罵声を浴びせる。
そして時々は、抱き着いてきて嗚咽し、呪う。
だがその後は、決まって以前より激しく、つねる、こずく、締める、泣く、蔑む、殴る、踏む、呪う。
つねられ続けたアンナの手の甲は、そこだけ真っ黒くタールのように染みていたらしい。
すえた、汚物の匂いが古い便器のように染みこんだ、ジャージ。
動いた拍子に、襟元からパフッと立ち昇る、糞尿のすえた臭い。
全ていけないことなのに、誰ひとりとして、知らない振りを決め込んでいる。
確か入院のきっかけは、ひどい怪我だった。
長いことベットの横に、鉄柱がたち、機械が並び、チューブは首や鼻につながっていた、古びた写真のように焼きつけられた情景のネガを、アンナはホコリまみれの古い記憶の戸棚から一枚、引っ張り出した。
そして、おぼろげだが確かに、反対の手はベットのレールに紐で、縛り付けられていた。
他は思い出せない。
きれいさっぱり、思い出せない。
胃液の嘔吐のような苦すっぱい不安が、底からこみ上げ呼吸をケイレンさせる。
そのかわり、アンナの家のことなら、はっきりわかる!
「そろそろ、かえりますよ~」
終始深い疲労の皺を眉の間に刻みこんだ、オレンジのエプロンのおねえさんの声が、こだまする。
彼女はアンナの唯一の、味方だ。
アンナは思った。
眠れないと決まって、ささくれたゴボウのステッキのように拘縮した、細く硬いアンナの腕や足を、ゆっくりとさすりつづけてほぐしてくれる、ママのような肉厚の手。
痛みに堪え切れず騒ぐと抱きしめてくれるおっぱいの、あんずのかおり。
またこうして歩けるのは、彼女のお陰だった気がする。
見れば判る…。
敵か味方か、一目でアンナには判る。
言葉や声色では、隠しきれない表情。
一時ごまかせても、必ず本性は縷々露呈する。
ほらあそこで、落ち葉をまいて、はしゃいでいる奴。
気分やで、未熟なくせに、かなり狂暴だ。
浴槽の中で、滑って頭のてっぺんまで湯に浸かった時、もがいて目だけが水面から飛び出る度に、アンナの視線の先に、口を開け、笑いこけるあいつの顔が見えた。
機嫌が悪いと何も言わずにいきなり、ぶつ、握る、つねる・・・。
家だ。
やはり、家だ。
なんといっても、家だ!
いっぺんで華やぎ、色鮮やかに景色や匂いが突如たちあがる。
ほらっ、家のことなら、ケアンナの口からほとばしる熱い蒸気のように、思い出は勢いよくあふれかえった。
両の頬、両の肩、顎を包む、二枚の肉厚の、もちもちとした弾力の指。
大きなうちわのように暖かいママの手の、張りのある感触の名残が、アンナをからだごと包み込む。
大好きな、甘いライスカレーの香りが、鼻孔から立ち昇り、アンナの脳裏に充満し、胃の蠕動を活発に誘う。
飯釜を開けた時、立ち昇る湯気のひろがりの後ろに、ママが見え隠れする。
そして、湯気の後ろには、アンナのお気に入りのフクロウ時計が、左に右に、愛嬌をふりまいて見え隠れし・・・。
普段めったにあけられない納戸の奥に斜めに置かれている、従兄のヒデくんにもらった今時貴重なブリキのロボットの向きまで判る。
『家に帰ろう』
アンナは、自分の欲求をはっきり自覚した。
入院してまだ、そんなに時は経ってないはずだ。
「さあ立って」
命令が追憶を切り裂く。
いつの間にか、横にきて、仁王立ちするきつね。
打ちひしがれ、疲れ切ったママが、アンナを片時も忘れず、待っているのだ。
それでも見上げて動かずにいると、苦笑し、目だけは威嚇を忘れない。
鼻腔にたまった、錆びた鉄の香り。
毎晩枕もとで、
「死ねっ」
と繰り返す彼女の声が、無言の彼女の目を通して速射砲のように繰り出され、頭の中一杯にウワンと共鳴する。
交差点で青信号を待つ人達。
イヌを散歩させるおばあさん。
日向ぼっこする、おなかの大きいおかあさん。
逃げようか・・・、
アンナは色めきだった。
面倒臭そうにきつねが、横に回って肩を促す様に押す。
ママは、きっと、病気よ!
アンナは、勢いよく巻かれた、ゼンマイ仕掛の人形の様に立ちあがると、とっとっとそのまま、歩き出した。
「ちょっと、どこいくの」
声が、紙飛行機のように追いかけてくる。
かけっこだけは、得意だ・・・。
アンナは、控えめに、慎重に、転ばないように、最初はゆっくりと、次第に速度を増しながら公園出入り口にある柵めがけて、一直線に走った。
耳の横で、空気の声が聞こえる。
ママ、走れるよ・・・。
アンナの目尻から溢れた水滴が一粒、糸を引き後ろに落ちる。
さあ柵だっ、もう柵だ。
いつも、ダントツ一等賞の運動会のかけっこを思い出した。
だが息が、胃液の塊のようにせりあがってきて、アンナの喉をふさぐ。
最後に足が少しもつれたが、見事にアンナは柵に辿り着いた。
歯を食いしばる。
振りかえる。
いきなり、頬をはられることもなかった。
腕を捻りあげられる事もなかった。
それどころか、小さくなったきつねは、一歩も動かず、暗い目でこちらを凝視したままだ。
ちょうど中間のところで、やさしいおねえさんが、二人を見比べている。
気分屋は、落ち葉のところで止まって固まったままだ。
「家に帰る!」
アンナはもつれた舌で、皆に向かって叫んだ。
「いぇーにあえーうー」
まだあえぐアンナの口から発せられた、ママ音がまた、アンナに帰ってくる。
「なにぃ」
するどく叫ぶ、きつねの威嚇。
おねえさんがこちらにむかってきそうな気配。
顔を彼らに向けたまま柵をよけ通りに出た。
さあ、と前を向いた途端、いきなりアンナは堅い肉の壁に真正面から受け止められる。
「すごいねぇ~、走れたじゃない」
運転手が、巨大な体躯を揺すって笑う。
立ちはだかる、絶望的な大きさの、壁になってアンナをしごく出っ腹。
誰も追いかけない理由を、アンナは知った。
アンナは、反対の出口に向かわなかった自分を呪った。
「ううん、帰る」
アンナはそれでも叫ぶ。
「はい、はい」
運転手は、逃げられない程度の力で、アンナを誘導する。
「家に、帰る」
「はい、はい、帰ろうね」
ワゴンまでくると、運転手とアンナとの間でもみ合いが始まった。
アンナは掴まれた指の感触を、覚えていた。身体のあらゆるところが、感触を思い出す。
そこに二人が合流する。
きつねは、肘の後ろを力任せに握り上げる。
アンナはヤギのような声をあげ、痛みに硬直し、抵抗をやめた。
きつねは、人知れず膝でこずき、アンナをワゴンに押しこんだ。
「人目があるかっらって、調子こくんじゃねーぞ、コラッ、こいつ、家にかえるなんてほざきやがんの」
「はっはっ」
笑いながら運転手が相槌をうつ。
「かおりちゃん」
「なんだよ、うざいと思わない?こいつ」
「だめよ・・・」
「・・・わかんないよ,わかるわけないじゃん、このバカが」
二人と目が合う。
しばらく三人は、目の中をのぞきあう。
きつねの細い目が驚愕色に、変色する。
「・・・なに?なによ、コイツ。わかってるの?コイツ」
「そうね、今日は調子がいいみたいねぇ~」
おねえさんが肩を摩る。
まだきつねを見ていると、今度はきつねの目が天敵に囲まれたように黄土色に変質していく。
「逃げてんじゃね~ぞ、ふざけやがって」
肩に一本の痛みが走った。何か注入される。
見ると、肩辺りを脱脂綿で拭いている。
首の芯が無くなると、途端に頭が重くなってくる。
久しぶりに、急に、走りすぎたのかもしれない。
車が動き出した。
濡れたバスタオルをどんどん掛けられて行くような重い疲労が首から肩までを圧し、アンナは頭を垂れる。
睡魔が今度は足元をすくってくる。
訳のわからないマリが、アンナの頭の中を、跳ねまわった。
車も、どこだかわからない場所を疾走していた。
ああっ、家に帰れない・・・。
ママの覗きこんでくる、グレーの眼差しが遠ざかる。
ママだって・・・。
ママだって病気なのかもしれない・・・。
だれが、ママを助ける・・・。
とうとうアンナは、きつねに向かって重心を崩した。
すかさずトスされたアンナの頭は、放物線を描き窓にぶつかる。うすっぺらな痛みと共に、アンナは眠りの渦に飲み込まれていった。
目を覚ました。
寒く、堅く、そして暗い。
アンナにとって、永遠に慣れる事の出来ない、夜。
必ずやってくる、夜。
板のような、獣く臭いベット。
ごわごわした、股の感触に捕らわれ、まさぐって、アンナは驚く。
オムツではないか。
スエた匂いの素がようやく理解できた。
これじゃまるで、赤ん坊だ・・・。
テープをはがして、パジャマ脱ぐと、腰を上げオムツをすべらせて外す。
目が慣れてくる。
ここに居てはいけない、もうここには、いられない・・・。
だがまだ、足が思うように動かない。
突然きつねの殴打が飛んでくる錯覚に捕らわれ、首が竦む。
アンナは、用心してベットから降りると、ゴミ箱にオムツをつめこんだ。
ひんやりしたタイルの感触が、足の裏から登ってくる。
小さな赤蟻の大群のような悪寒が、あわせて登ってきて、アンナの身をよじる。
なんとか、アンナは、廊下に辿り着いた。
オレンジ色基調の、薄暗い廊下は真四角に口を開け、長くつきあたりまで続いている。
部屋は洞窟の入り口のような空洞を左右にポッカリと開けて、夜の波に沈んでいる。
アンナには、その口が、今まさに閉じようとしている、唯一の希望の脱出口に見える。
アンナはよろめくと、また、歩き出した。
足取りは、アンナの目的の確かさをやがて表出し出す。
一つだけ明るい部屋の手前で立ち止まり、アンナは中を覗くと硬直した。
ナースセンターの丸いすに尻だけひっかけ、円卓に頬づえをついたきつねが、雑誌に見入っている。
壁のボードのランプは、ひっきりなしに点滅している。
背をむけたきつねは、ジャージの腹に右腕を突っ込み、もぞもぞと足の付け根をいじり頬を紅潮させ、目は雑誌に貼り付けたままだ。
音声スイッチが切られた、ナースコールボードの波のような点滅・・・。
もがいでよろめき、トクトク耳元にせりあがる鼓動に促されドアから離れ、再び、あやつり人形のようにカタコトと跳ねながら、アンナは歩き出した。
突き当たりを曲がると、短い渡り廊下となり突き当たると、再び左右に病室をたたえた廊下が突き当たりまで続いている。
息がたまごになって上下し、のどを圧迫する。
膝の内側に、針を刺されたような痛み。
冷えた足の裏の皮が厚いゴムゾウリになって、自由に動かない。
それでもアンナは手すりにつかまり、2周した。
アンナはおどろいた。
絶望の内に理解した、長方形のフロア。
巨大な閉鎖棟。
渡り廊下の中間にエレベータがそれぞれ一基づつ。
やっぱりここしかない・・・。
だが・・・、ガラスに貼りつき、アンナはうめく。
ちらと過る、買い物に出かける、ママの後姿。
エレベータは、ガラス戸の向こうで、入り口には箱状のキーロックが、ガッシリと扉を閉じこみ、小さなアンナでも届きそうな所にある開閉用のボードには六桁の暗証番号が待っていたのだった。
諦めきれず、アンナはキイボードを乱打した。
ピッと赤いランプが点滅する。
五回目にランプはついたまま消えなくなった。
突然間近に出現した大音響。
かたまってアンナは、その場に棒になる。
「なにやってんだ、このヤロウ」
身を固くしたアンナに、きつねの声が天から被さる。
「またおまえか、クソッ。歩け、きったねぇ。ほら、行け。さっさと行け!さわんなっつったろうボケが。あそこはいじるなっつっただろう。鳴るんだよ、音が、クソムシ!はやく死んじまえ!わかってんのかよ、このクソムシ!転んでんじゃねぇ、・・・立て、バカクソ・・・」
今日はきつねは殴ってこない、触りもしない。
そのかわり、ただひたすらに言葉で罵倒してくる。
「いみねぇんだよ、おまえなんて。迷惑なんだよ、いること自体。わかんねえのか、おいっ。いいかげんに理解しろ、クソムシ・・・誰もおまえなんか待ってねえよっ、ぼけっ。だから捨てられるんだよ、クソムシ・・・」
硬いベットにもぐりこみ、まるまっても言葉は飛んできて、容赦なくぶつかってくる。
「・・・やめて」
「・・・なんだと、クソムシ。やめるのはおまえだろう、はやく死ねっていってんだろう、迷惑だから。きたねえくそが、生意気にしゃべってんじゃねえよ、いっちょまえに・・・」
逃れたい。
逃れられない・・・。
・・・クソムシ、誰もおめぇのことなんか相手にしてねぇや。わかってんのか、こら。迷惑なんだよ、はやく死んじまえ・・・
終わりのない言葉は鈍器になって耳を壊し、アンナの核を捕らえて、潰そうと圧する。
脳から血がにじむ感触。
その内に言葉は重みを増し、もはや拳のような言葉の殴打に、アンナは瀕死になってサンドバックのように叩かれていた。
クソムシッ!ヨウナシ!マヌケ!死んじまえっ!みんなの迷惑!…おめえも哀れだな、ヨウナシのクソムシで。誰にも相手にされないきったねえクソムシ、おめえはこのさきずっとここで飼い殺しの野垂れ死にだ、なんとか言ってみろクソムシ!
食いしばった歯からよだれがたれる。
目を開けると、きつねの鷲のような三日月の目が、眼前に停止したまま、ガラス玉のようにアンナのダメージを観察している。
静かな嗚咽が部屋に流れ出し、アンモニア臭がたちこめる。
足を蛇のように伝い、すぐひえる放尿。ターッと一気にくるぶしまで垂れパジャマがへばり付く。
涙が、よだれと一緒に一筋流れる。
両腕に丹念にかまされる、腕輪。
シーツが小水でぶよぶよする。
上腕部と腰あたりを、太い紐で抑えつけられる。
頭の奥がジンジン痛む。
『早く死ねよ』
三十分後、ようやく、キツネはアンナの口に錠剤と水を押し込み、部屋を後にした。
それでもアンナは、水だけ飲み、首を捻ると口を枕に付け、錠剤を枕のアナに吹き出した。
ちょうど針のような枕カバーの裂け目に、錠剤が吸い込まれる。
自分の一連の無意識な行動に、アンナは驚かされる。
そして疲れて果て、アンナは又、眠りの闇に飲みこまれる。
明け方のまどろみ。
いつのまにか着替えを済ませたアンナは、おねえさんの膝枕で栗色の香りに包まれて、彼女の独白の唄を聞いていた。
・・・まるで不用品のガラクタ市のようで息がつまるの・・・。せめて再生工場であって欲しい。
でも結局、廃棄物のように廃棄されて、壊されて、最後は必ず人間、どこにいてもすてられるんだわ、きっと・・・。
欲はいわないわ。
笑ってくれなくてもいい。
せめてすこしでも、人間らしく私だけは接っしたり生きたいの・・・。
あのね、どんなに日々新た、日々新た、って心に言い聞かせても擦り切れて行く自分が解る。
寝ても起きてるみたい、起きてても寝てるみたい。
最近はお祈りもだめ。
神様みえなくなっちゃった。
ここに泊まり込んで時々家に帰るでしょう。
出掛けには、立ち眩みや動悸、吐き気がとまらない・・・。
助けが必要なのは、私達かもしれない。笑えない。 話せない。 がんばれ、なんて言われると死にたい。
仕事として割り切って、物みたいに扱って楽しんでるわ、みんな。私もいっそ、そうしたい。でも、出来ないの。
ここでは一緒に生活するの。
逃げ場はないの。ここに帰るの。ここが、家なの。
あのね、わたしがなにかに侵食され、食べられていくのがわかる。
ぼろぼろよ。なにひとつやりとげられない。
白髪と皺。わたし、壊れちゃう。あなたが聞いてくれなかったら、わたし、壊れちゃう。
アンナは滴に驚き目を開けた。
白面のおねいさんが、アンナを見つめ返す・・・。
もうすぐ話せなくなるのがわかる。
わたしもうすぐ、はなせなくなっちゃうわ。
この間、家に帰って、玄関開けたらね、驚いたわ、人形がいるの。
一緒に暮らしている家族が、何時の間にか、人形になっちゃったの。
硬い、プラスチック製の、冷たい人形。
なにか言葉を話しているんだけど、意味が解らないの、私には。
私もそのうち、人形になってしまいそうで、恐い。
休みたくても休めない。
休みたいのに休めないの。
あぁ、朝が来るわ。
また一日が始まってしまう。
人間と話したい。
人間と、話したい・・・。
おねえさんは、アンナの頭を抱きしめ、そしてそっと枕に置くと、部屋を後にした。
暗闇が訪れる。
ふたたびまどろみも、訪れる。
アンナはごちた。
やっぱり、なにがあっても家にかえらなくちゃ・・・。
そう、やっぱり、家にかえろう、家に帰るしかない。わたしの家は、ここではない。わたしの家は、ママのいる家。家に帰ろう、家に帰りたい、家に、帰りたい・・・。
瞼を閉じる。
黒いスクリーン上にすぐ浮び上がる、ママの後ろ姿。
食卓に座ってアンナは、箸を握りしめ、いまかいまかと斜めにママを見上げている。
ママが蓋を取るといっせいに鍋から立ち上がる、雲のような湯気。
シチューと、チーズとミルクの香り。
さらに焼けるハムこおばしい匂いがアンナの胃を震わせる。
規則的なリズム。
ママの手元から繰出される、キャベツの千切りの盛り上がり。
エプロン姿のママの、淡いベージュの後ろ姿。
ほんの何十日か前の、ママの後ろ姿。
やがて闇がアンナを捕らえはじめるる。
ママはグレーに変色し、輪郭は淡くぼやける・・・。
新しい一日が始まった。
アンナはベットで朝食を食べた。
中がまだ凍っている、捻じ曲がったトーストに、冷えた目玉焼き、ミルク、ミカン。
アンナは、トーストを一口齧ると、忘れ物を捜す。
アンナの視線はすぐに枕に落ち着く。
そう、枕。
果たして、枕カバーの小さな切り口から茶色のカプセルの端が覗いている。
指で押すとニキビのような錠剤が押し出されてくる。
アンナはそれを握りトイレに行く。
小水に乗せて、錠剤も一緒に便器に流す。
錠剤はしばらく水に揉まれると、一呼吸おいて渦の奥に藻屑と消える。
アンナが意識や記憶の覚醒を再び獲得できたのは、クセになったこの一連の動作によってらしかった。
熱発し、嚥下が難しくなった二週間前、アンナの口に押しこまれた安定剤が、たまたま舌の根の裏に挟まった。
水はむせて吐き出した。
おねえさんが吸飲みでまた水を入れてくれ、水はゆっくり飲みこめたが、安定剤がいつまでも口の中に残る。
アンナは舌をねじり薬を口内で、アメのようにころがし遊んだ。
と、突然カプセルから苦いクスリが溶け出し、アンナの味覚芽を痺れさした。
思わずアンナは苦さに錠剤を吐き出す。
それをたまたまシーツ交換をしていたきつねが咎め、アンナの肩をねじりあげ、再びアンナの口に新しい錠剤と水を押しこむ。
だが水だけ飲んで、錠剤はまた舌の下に潜り込んでしまう。
きつねが部屋をでると、それを吐き出し指でつまんでアンナは無意識の内に思案にくれた。
捻られる痛みは、たまたま枕カバーの綻びをアンナに発見させ、度重なるうち、そば殻にクスリが溜まり出すと今度は、痛みの恐怖に後押しされ、それらをトイレに流す知恵を促した。こうしてアンナは偶然、久方ぶりに、覚醒した意識と時間の認識を、取り戻したのであった。
朝食の後は自由の時間が続いている。
早くもう、帰りたい。
アンナはベットから降りて歩き出した。
もう一度あの公園にさえ行く事が出来れば、子供でもなんとかなるとアンナは思った。
ふらふらと歩き出したアンナはまた、詰め所に顔を出す。
きつねはいない。
「家に帰る」
はっきりと奥の窓まで響いた声にはたかれて、皆一斉に振り返る。
「は~い、帰りたいのね、エェと、誰、この人の担当は・・・」
「・・・今日はかおりちゃんです」
アンナは後ずさりすると、部屋を後にした。
・・・きつねが呼ばれるんだ、結局。おねえさんはきつねに太刀打ちできないし、どうしたら家にかえれるんだろう。
「・・・きょうもあなたはかおりちゃん、あしたもあなたはかおりちゃん、あれぇ、いいのかなぁ、もう」
うしろで続く笑いの小爆発。
部屋に戻ると、アンナのベットの前に誰かが立っている。
アンナは仕方なく、宙ぶらりんのまま、そこに立ち往生する。
振り向いた。
見たこともない、老婆である。
眼だけキラキラ淡い光を放って、アンナを真っ直ぐに見つめてきた。
アンナがたたずんでいると、老婆はやはり真っ直ぐアンナに向かってくる。
アンナは道をあけた。
老婆は右足を引きずり、アンナの前まで来ると、そっと両腕でアンナの二の腕をとり摩る。
アンナは思いのほか、いたわりの篭った愛撫の音色に、心の芯が少しほぐれるのを感じた。
老婆の目の奥に、地球が写っている。
と、湖面は揺らぎ、老婆の目から溢れる。
老婆は突然強い力で、アンナを引き寄せ、アンナは老婆にぶつかってしまう。
老婆の口がアンナの頬に吸い付く。
アンナは、抵抗した。
老婆はアンナを強く引き寄せ、アンナにしがみ付く。
「・・・やめろよ」
アンナが叫ぶ。
老婆の嗚咽も、音程を高めていく。
もみあうが両の手で下からみぞおちを思いきり押し上げると、老婆の手はアンナから離れ、後退した老婆はイスにぶつかり、コトリと横に昏倒する。
同時に介助員の手が伸びる。
「いいかげんにしろよ」
きつねの声がアンナの耳元で破裂し、頬が痺れたアンナが今度は、昏倒する。
一瞬の意識消失。
きつねが制されているのが見える。
タイルに貼りついたアンナは顔半分が痺れたまま、世界の情景を見上げている。
痺れは森を揺らす風のように広がり、頭がボウっと腫れる。
ゆっくり抱き起こされるが、力が入らず、ベットに寝かされる。
呼ばれた医師が来た。
老婆はストレッチャーで、運ばれて行く。
まだすがるような老婆の目だけが、アンナに飛びこんできた。
力を抜く。
天井が見える。
見えた天井が左右に揺れると、右にまわりだす。
「バイタル」
声が聞こえた・・・。
黒い大天幕が視界をおおう。
どこでもいい、久しぶりにどこかに帰りたい。
何年か振りに、不思議な感情にかおりは囚われていると思った。
感情を無理に押さえゆっくり言葉を選ぶ、マカロニのような医師の、茹で上がった丸い顔がフラッシュバックする。
クソムシ・・・、目を閉じるとそう言い捨てて遠ざかる、何故か母の後ろ姿が今度はいきなり立ち上がる。
突然解かれた封印にかおりはぞっと身震いする。
クソムシッ、そこにいなッ・・・母が今、かおりのすぐ前に立って発しているような声が天から響き、かおりは首を縮こませ毛布の中に避難する。
遠のき消える母の後姿。
一時間、二時間、三時間、四時間・・・そして、いつまでたっても母は、帰ってこないのだ。
寒い冬に半そで一枚。
部屋に入れず、ベランダの小さな物置に入りこむ。
長靴に腕を潜り込ませ、暖を取る。
埃の香り、胃が空っぽで、こむらがえりを起こし、キリキリ痛み、足が痺れる。
一時も早く、母の帰りを待ちわびるかおり。
今日こそは我慢しようと堅く誓うのだが、どうしても母の足音を聞き分けると、勝手にピュッと、涙が吹き出てしまうのだ。
母はかおりの猿のような泣き顔を見ては憤激し、足蹴にしてくる。
顔にヒットするまで、やめない母。
機嫌が良い時だけは、母はかおりに近付くことを特別に許してくれる。
そんな時はかおりは、思いっきり母にしがみつき、声を震わせて泣き、詫びるのだ。
タバコをはすにくわえ、イスからはみ出した、でっぷり太った母の尖がった顔が勝ち誇り、かおりに歯をむき苦笑を投げかけてから、鷹揚にかおりを許す。
かおりは出過ぎない。
母の機嫌が良い内に、母から離れる・・・。
そんな、虫のような、小さな自分が見える。
クソムシのように、限りなく小さな自分。
「・・・カウンセリングは必要性だと思っているよ、だけど予算が無いんだよ、そこまでまわす、予算がね。解るだろう、カウンセリングは一旦始めると、長くかかるし、やめれないからね・・・制度が変ったんだ。みんなを守るには、クスリを呑ませて、ナースコールは抜いて、縛るしかない。夜は寝たいだろう?世は逆の方にいくけどね・・・。現実は何も変らない。それを百も承知で預けてくる家族しか、うちには来ないよ・・・」
だが彼女は知っている。
外車を乗り回すこの医師は、入れたくなると、女たちを決まってレストランに食事に誘うのだ。
何十年振りに開栓され、空気に触れるワイン。
霜降りの、厚くやわらかなビフテキの塊。
送迎用のリムジン。
スイーアンナムのダブルベットで、永久に続く、匂う唾液と硬い糞のような性器の出し入れを、遠くから他人の様に自分を眺める、かおり。
かおりの目には、映るすべてが汚物に見える。
頭まで毛布を被ったかおりは、自分の歯軋りの音をやはり、遠くで聞く。
解かれた封印のお陰で、幼い頃、何千回も唱えた呪文がエンドレスの子守唄になって流れて行く。
おかあさん、帰ってきて。
おかあさん、帰ってきて。
おかあさんは私のすべてよ。
おかあさん、だからお願い。
おかあさん、かおりを蹴らないで。
おかあさん、かおりになにか食べさせて。
おかあさん、かおりをいじめないで。
おかあさん、かおりをぶたないで。
おかあさん、かおりを、助けて・・・。
おかあさん、ごめんなさい。
おかあさん、かおりは世界一、悪い子。
おかあさん、だからかおりは罰を受けて、当然よ。
だからおかあさん、お願い行かないで・・・おかあさん、わたしを一人にしないで。
おかあさん、わたしを捨てないで。
再び、アンナはベンチに、座っていた。
眼にうつるあらゆるものが、アンナにむかって飛びこんできた。
刷毛で拭いたての景色は眼の中に直に侵入してくると、あまりにクリアに、細部までアンナの中にとどまりだす。
イチョウの黄色に敷き詰められた、無風の秋の公園の日溜りのベンチ。
すべてが、今まさに生みだされたように、みずみずしい湯気をあげ、匂い立つ。
今彼は公園のベンチから、久しぶりに青い空を拝んでいた。
イチョウの葉が暖かな陽に香る、秋の日。
今また、あらたなイチョウの葉が、コマのように回っては、ぽとりと落ちる。
視線だ。
視線までが深くなかに、侵入して意味化する。
あの『きつね』は、始終忙しそうに振舞いながら、肝心な時声をかけても無視するくせに、いつの間にか寄ってきて、手の甲をつねって帰る事だけは絶対忘れない(・・・先生なんて呼ぶものか)。
だが、めずらしく、今日のきつねはまた、放心状態に戻ってそのままブランコで揺れている。
つねられ続け、そこだけ真っ黒く染みている手の甲。
すえた、汚物の匂いが古い便器のように染みこんだ、ジャージ。
動いた拍子に、襟元から立ち昇る、臭気。
空のようにアンナの意識は澄み渡り、空気のように記憶は凛として立っている。
おねえさんが、落ち葉を熊手で集めている。
集める度に、たわわなおっぱいがトレーナーを揺らす。
ピンクの乳輪に、ミルクアメの残り香。
家だ。
景色や匂いが突如たちあがりはじめる。
家の思い出で、洪水のようにあふれかえる。
ママの手の弾力のある温もりの思い出。
大好きな、甘いライスカレーの香り。
ご飯の釜を開けた時の、香る湯気のひろがり。
湯気の向こうで、時にあわせて愛嬌をふりまく、お気に入りのフクロウ時計。
『家に帰ろう』
交差点で青信号を待つ人達。
イヌを散歩させるおばあさん。
日向ぼっこする、おなかの大きいおかあさん。
柵のところで巨体を震わせ、運転手がおねえさんに合図する。
おねえさんは耳に手をやって、運転手の方に身を乗り出すしぐさ。
運転手のしょんべん小僧の形態模写。
そして一回腰を、おねえさんに向かって、強く突き出す運転手。
おねえさんは、上げた手で口を覆い、両耳を紅に瞬時に染めると、股をしっかり閉じ、尻を震わせてイヤイヤした。
踵を返し、運転手は横断歩道で信号待ち。
信号は変った。
運転手は6車線道路を渡りきり、向いのビルの階段を上がって、今、消えた。
時が止まった。
アンナはそっと、立ち上がった。
ゼンマイ仕掛の人形の様に、とっとっと、歩き出す。
声は追いかけてこない。
アンナは、控えめに、慎重に、転ばない様に、最初はゆっくりと、公園に出入りする柵めがけて、一直線に前進をはじめた。
しかしアンナは走らない。
柵の所で、アンナは一旦振り返った。
きつねはブランコに揺られ、おねえさんは上気した顔と、泳いだ目のまま落ち葉を掃いている。
青信号が、点滅を始めた。
でもアンナはゆっくり、そのままのリズムで、信号を渡りきった。
すぐうしろで、決壊した川の流れのように走り始めた車が、小さなアンナを隠す。
「家に帰る!」
アンナは心の中で叫んだ。
そのまま運転手が入ったビルの前を進むこと、五十メートル。
バス停にバスが滑り込んできた。
横から見ると、ステップをあがりながら、ふっとバスに飲み込まれて行く、乗客たち。
ちょうど、そのままのスピードでアンナは列に並んでいた最後の乗客の後ろに付いた。
しっかりと手すりを握り、両手で手すりにすがりなおすと、そのままアンナはバスに乗り込んだ。
息がピンポン玉のようにポンポン弾む。
アンナの後で静かに閉まるドアが、アンナと世界をゆっくり遮断した。
足元から広がり強まる、エンジンの躍動。
ゆっくりとバスは、行進を始める。
もっとも近い空いている席に、アンナは身を投げた。
公園側の席であった。
すぐ信号待ちでバスは停車する。
アンナは視線を公園に移す。
おねえさんは運転手の太い腕を掴み、なにやら駆け落ちの相談のようだ。
運転手は、目だけせわしなく左右に動かす。
柵のところに、きつねが駆け出してきた。
車が流れ始める。
この川は、きつねには、越えられない・・・。
バスはブルッと武者震いし、再び発車する。
木の床から伝わり強まるエンジンの回転数。
一瞬、ほんの一瞬、アンナの目ときつねの目が交錯した。
きつねにしてはめずらしい、深海のような深いグレーの眼差しがアンナの網膜に焼きつく。
アンナはきつねと目が合っても、いまやなんの不安も感じなかった。
きつねの存在も、もうアンナを脅かすものではない。
自分の行動の正当性と目的に関して、アンナは断固たる決意を内に秘めていた。
アンナの家のすぐそばには、交番がある。
交番には、会えばいつもアンナの頭を撫で、魔法のポケットからとり出した虹色のアメを、アンナのポケットにねじ込んでくれる巡査がいる。
アンナはもう帰らない。
病院には絶対帰らない。
ママに会えるまで、家にいるんだ!
バスの、ゆりかごのような揺り返しにも、眠気は起きない。
アンナは成功の確信を今や手中にし静かな喜びに震えていた。
アンナの中で、計画はもう十中八句成功したも同じであった。
ただ今は、自分が発する匂いだけがアンナには、唯一の気がかりであった。
前後の客は控えめながら席を立ち、空いているうしろの席に移ると、次々に窓を開ける音が聞こえてくる。
アンナはそれでも、寝たふりを決めこむことができなかった。
数日、いや数十日であったかもしれないが、あまりに懐かしく見慣れた光景。
海浜公園に建つ、金属性の慰霊碑の突端にとまる、銅の鳩。
卸売りセンター入り口の、朱色がかった鳥居と、蛸壺のバス停の前の駄菓子屋、蛸壺から見える、人情岩・・・。
アンナは膝を左右に振り、膝においた細い腕を振るわせる。
谷中の奥のブナの梢に重なりそびえる、五重塔、役場跡の剥き出しのコンクリートの、引っかき傷。
突然思い出が横切る。
一人になったことが無かったアンナが、ある時、昼ねの後、家に一人でいることに気付いた。
すべての部屋を巡り、ママを捜す。
そして全ての部屋を確認してからアンナは、ワッと泣き出した。
次の瞬間、飛び込んできた、ママ。
アンナはママに掻き抱かれる。
「ごめんね、そこまで、バゲットを買いに行ったのよ」
ママの腹が、走ってきた名残の波打ちをいつまでも繰り返し、アンナの顔を心地よく揺する。
アンナの髪の毛が、ママのフウフウいう荒い息で、その度に宙に遊ぶ。
すぐに甘え泣きになったアンナは、いつまでも暖かな安心感に包まれて、心置きなく泣き続ける・・・。
ママのお腹のやわらかなベットと、掻き抱く腕のマクラ。
思い出し、アンナはベソをかく。
涙を袖に擦り付ける。
もうすぐ、全てが終わる。
家に帰れる!
放送されたバス停の名を、頭の中でなぞる。
海浜公園前、卸売りセンター入り口、蛸壺、谷中、商工会議所前、そして・・・。
「天神町、次は天神町」
アンナは夢中で新しい形状のブザーを押しつづける。
停車に併せて一目散に運転席横ににじり寄り、骨の軋みも忘れて手すりにしがみつく。
ドアが開く。
運転手を覗き込み、息を呑んで言葉を捜すと、運転手はどうぞと面倒臭そうにこちらを見ずに手招きする。
アンナは注意深く、バスの階段を下った。
重篤な後遺症を抱えている筈のアンナはしかし、記憶の断片を編み上げ、家に続く情景の糸を手繰り寄せはじめた。
赤い鳥居は無いけど、祠があった。
閉まってはいるけど、駄菓子屋の痕跡。
天神様の塔を右手にみて、最初の路地を左に入る。
かすかな、あんこの匂い。
曲がるといきなり、こおばしいタイヤキ屋だ。
目の端でタイヤキを追う。
よだれが口一杯に溢れ、音をたてて飲み込む。
次の角だ。
曲がれば見える!
アンナの歩みはここにきて、ようやく一気に解放された。
かけっこの合図。
アンナは走る、アンナは、走りに走る。
走って走って小走りに角を横切り、飛び込んだ。
と・・・。
凍りついた。
どんといきなり冷水を浴びせられ、心臓が凍りついた。
路地には、区別のつかない建売の家が、左右に八軒ずつ突き当りまで、続いているのだだった。
うろたえアンナは、魔法をかけられ犬になってそこいらをうろつき、また戻る。
だがここだ。
アンナは立ち尽くす。
右の三軒目。
そこだけ家が無く見える。
いやっ、よく見ると、そこだけ昔のまま?
鼓動は勢いを少しずつ取り戻す。
アンナは足をしのばせて、じりじりと近付く。
近付くにつれ、そこが自分の家の門構えと確信した。
全容がアンナの眼前に広がった。
貼られた黄色いロープの奥に、アンナは、崩れかけた廃屋を目の当りにした。
三十分後、廃屋の僅かな軒下で、アンナは巡査に保護された。
だが、その巡査はアンナの知った顔ではなかった。
アンナはアメをくれた巡査のことを、尋ねようとした。
ところがいくら考えても、アンナは巡査の名前を思い出せなかった。
アンナはこの家で、ママを待てないことを絶望の内に理解していた。
アンナは見たことも無い巡査に保護され、警察署に連行された。
警察署内の暗い廊下。
今や色あせたプロマイドのような、台所のママの後ろ姿が蜃気楼のように浮かんでは、消える。
廊下に沿って、置いてある長いベンチにアンナは一人腰掛けて、途方に暮れている。
いや、いつ頃からであろうか。
何時の間にか、時間を取り戻したアンナのちょうど正面、目の前のベンチに、枯れて木炭化した老木が置いてある。
鳥のシャレコウベのように、深くえぐれた眼窩と皺くちゃな三角形の尖った鼻、古めかしい木製のマネキンのように立掛けられた、細い手足と、ごぼうのような節々のささくれと黒々とした痣、くしゃくしゃの白と黒の巻き髪、こちらまでとどいてくるアンナに負けないすえた匂い・・・。
アンナはすっかり気分を害して、わざと遠くを見つめる。
アンナの目の端で、老木は壁に寄りかかり、少し左に傾いだままいつまでも動かない。
生きているのか、死んでいるのかも解らない。
鰊の皮のような鮫肌。
土木作業に慣れ親しんだような日焼け。
落日間近の、黄昏時・・・。
よく見ると、目を開けてこちらを見ている。
水面に垂れた、一滴の墨汁の波紋。
尻の痺れに促され座り直す、
それも動いて、アンナは驚ろき凝視する。
しばらく二人は見詰め合った。
アンナが首の緊張を解き、首を壁にもたれかけると、枯れ木も従う。
水面がさざめく。
アンナは身を乗り出した。
枯れ木も身を乗り出す。
枯れ木の足が現れる。
理解してしまった。
アンナの正面には、大きな鏡が、はめ込まれていた。
湖面は怒涛に憤慨した。
アンナは立ち上がる。
枯れ木も漸く、立ち上がる。
アンナは両手で頬を覆う。
鮫肌の手が鮫顔を覆う。
「あえうぅ」
アンナの口から嗚咽がほとばしる。
アンナは両手で鏡につかみかかる。
皺だらけの黄昏時の潅木。
割った卵の中の雛の、充血した大きな濁った目玉。
三日月の口から、よだれが糸を引く。
「おいっ、じいさん、大丈夫かい?」
鏡に写る、覗いた警官の不安げな顔。
開いたドアの奥のドアが開き、ネーブルオレンジの新鮮さで、はじける声が反響し響きわたる。
「助かりました。我々、なかなか慣れてなくて、ですね」
警官の声に被さる、ネーブル達の高揚と高笑い。アンナの後ろで、ドアが大きく開かれる。ドアの手前に、きつねとおねえさんが、並んで立っている。 アンナは涙とよだれでぐしょぐしょの顔を二人に向ける。きつねは歯茎を剥き出しにして勝ち誇り、表情を捨てたおねえさんの顔は、白い能面をかぶった人形のようだ。
「お世話になりました・・・しっかり管理しますから」
「は~い、お願いしますね、最近多くてね、こういうの」
「そうでしょうね、まさか監禁する訳にもいかなくて・・・」
「・・・匂ってるんだ、今さっきから、この人」
「そうなんですよ、年寄りは締まり、なっくってねぇ~、フロも嫌うし」
きつねの、弾む声に促され、アンナはよろめく。
「さぁ、いきましょうねぇ~」
爪を立て、肘の敏感な神経を握りこみ、アンナの耳に付かんばかりの口から息がふうふうかかる。
「・・・何年うちで暮していると思ってんだこのジジイ」
後で重いドアの閉められる響き。
「自分の奥さんはったおして、脱走とは、上等じゃね~か。ジジイ」
おねえさんも左肘に爪を立て引っ張る。
「・・・クスリ飲んでなかったろ、ばれてるぞ、おいっ。おめ~は二度と施設から出れねえんだよ、飼い殺しにしてやる、コラッ」
アンナは抵抗を止めた。最後の表情が、その食い込んだ皺の襞に吸い込まれる。
アンナの顔も、みるみるうちに変質する。
今や古びた木炭の潅木人形になったアンナもタトタトと、歩みを同調させる。
入り口の自動扉が開く。
眩しい陽光と暗黒の影のコントラスト。
正面ではワゴン車が、ポッカリと真四角の黒い口を開けて、三人を待ちうけている・・・。
第2話URL
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