「今ぼくを悩ませている4つの閉塞状況」第5話 渡邊 聡
「今ぼくを悩ませている4つの閉塞状況」第5話
渡邊 聡
涙が止まったころにはもう、彼は山脈のはるか上空、四千メートルを西に向って飛行していた。
いつしか彼の横には、人間鳥が一体、彼を見守るようにして並走していた。
気が付いても彼は、その人間鳥を無視して、飛び続けた。
どこまでいってもその人間鳥は、彼の左三メートル余横を彼の方に首を傾げながら、飛び続けた。
彼は、残り少ない感情が、抗っていることを自覚した。そうして並走を続けられると、彼の気持ちはささくれ苛立ち、最後の過剰反応を、示しているようであった。
いきなり彼は、蛇行し、人間鳥を威嚇した。が、人間鳥はつかずはなれず、彼に並走するばかりである。憤怒とともに彼は、「翼」を折りたたみ、全力で急降下に移った。短い叫びが後ろから聞こえた。途端に、跳んで返りたい衝動に支配され、彼は身震いした。振り切らねばという微小な理性の声が、カランとこだました。気配を失って急いで後ろを振り向くと、人間鳥が忙しげに羽ばたきながら、彼に追いすがる。
そして今度はひかえめに、人間鳥は彼の後ろ二、三メートルをやはり疾走する。
どのくらい飛んだのであろうか。
彼はスピードを緩め、人間鳥に並走を許した。
彼はその瞬間、人間であることを、あきらめていた。
人間の世界には、戻れないと、受け入れた。
そうして彼は、案内を、人間鳥に促したのであった。
彼の決心を見透かしたように、人間鳥はすっと前に出て彼を促すと、左にゆっくりと降下をし始めた。彼もすみやかに人間鳥の後を追随し、降下を始めた。
進路を北にとると、人間鳥は高度四千メートルに保ち、アルプスに侵入し、そのあゆみを深く進めた。
雲にまかれ辺りは夜のように暗くなり、風がときおり不規則に乱舞する。
やがて人間鳥は高度を下げると着陸態勢に移った。
そこは高山の断崖の、中腹にかかる滝の裏の洞窟であった。
人間鳥は、マジックのように滝をスルスルよけて穴にもぐりこんだが、彼はゴウゴウと落下する水の壁に阻まれた。どこをどうよけてもぐりこんだのか、きっかけが見つからない。苛立ち滝の上を三回旋回する。と、滝からフッと人間鳥がまた、現れると、降り立った駄々っ子をあやし手を引くように、そこだけは弱いシャワーになっている水圧のスポットを抜け、人間鳥に誘われ彼も、洞窟へと消えた。
奥に高く広い洞窟のいたるところに、枕木のような止まり木が小気味よい間隔でわたしてある。不思議な事に奥に行けば行くほど頼りないはずの採光が、かえって輝していく。うっすらと湿っている。リンゴと尿、パイナップルにキャベツの葉をまぶし肥溜めにつけたようなむっとする臭気が、ほんの一瞬だけ、鼻腔をくすぐった。階段状の枕木を飛び移り奥へ。やがて巨大な円筒状の部屋で、洞窟は突き当たった。光源が揺らめく。それは人間の拳大の、光る石であった。円筒の壁際には、上部まで無数の部屋で、区切られている。ひとつひとつは、かつて彼がデパートで見た、鳥の巣を巨大にしたようなものであった。だが、匂いの源は見当たらない。それどころか枕木は磨きこんだ槍の柄のようであり、いたるところの木々は、不規則に入り組んでいるが、磨きこまれ手入れが行き届き、そして規則的な全体を構築していた。その証拠に、どこが何をするところなのか、一目でわかった。おそらく寝床であろう。いつの間にか、おわん型にくみ上げられた木々の一本に止まり、人間鳥は、彼を見下ろしていた。
彼は絶望の中で、現実となった予感を、味わっていた。最初に受けた人間鳥への拒絶感が、まるで綺麗に払拭されている。ひと羽ばたきし、彼は、意に反し人間鳥に並んで止まっていた。
彼よりかなり小ぶりだ。体長は彼の、肩くらいまでしかない。
こいつメスだな…彼は直観し、身震いした。
そういえば最初に並走した人間鳥達より華奢で、丸みを帯びている。たしか動物の世界は、体躯が逆転していたはずだが…。
「はらが減った。お前達はなにを食べている」
部屋を見渡しながら彼は、声をかけた。もっとも発音はすでに、言葉の判読はできない。ところがやはり、なんの反応も帰ってこない。改めて彼は、鳥人間をまじまじと見た。
真っ白の顔には、表情というものがない。
まるでルーブル美術館にならぶ真っ白な彫刻の材料で、とんがった顔を作ったようだ。口などは線である。線の中に、黒い空洞がちらちらする。鼻はくちばしのようにとんがっているが、ともかく目にいってしまう。彼は吸い込まれるように、人間鳥の目に見入った。すると、規則的に、人間鳥が、顔で丸を書き出した。彼はそれを確かなものと確認すると、ゾッとした。白目と黒目の境が、ようやく推測がつくぐらいで、あとは塗ったくったような白一色。
人間鳥は、相変わらず能面のまま、三秒ごとに首で円を書く。
むかつきは恐怖に彼の中で、ふくれあがった。
思わず彼は、「翼」で鳥をこずきながら、意味もない発声をくりかえした。
彼がふれた瞬間、人間鳥は、きゅうと声を発した。その声が氷になって首筋にあてがわれ、ゾッとする。
「なんとか言ってみろ」
声を荒げ、またこずくと今度は、キューと少し長く鳴いて、いきなりジャンプし、向きを変えた。
彼は金縛りに陥った。展開させることを、残った僅かな彼の理性が、強く拒んでいた。彼は強く「翼」でたたいた。するといきなり尻を突き出してきた。
次の瞬間冷水を浴びたように彼は、けたたましく飛び上がり、宙に浮いたままギャッギャッと、正に鳥のように叫んだ。その声を受け取った人間鳥は、きびすを返し宙に浮いた人間鳥は、やはりギャッツと叫びを上げ、両の「翼」を広げると彼を威嚇した。彼も「翼」を広げギャースと叫んだ。
それが合図になった。ジャンプした人間鳥は体重を爪にかけ、彼の腹を直撃した。
彼は反射的に思い切り「翼」で薙いだ。鳥はキュウと巣の真ん中にころがった。彼はもう逃げ出していた。化け物から逃げ出すように、一目散に。他の人間鳥の叫びが、警戒警戒と聴覚を乱打してくる。あやうく滝に激突して流されるところであった。滝の上空に出て、彼はぐんぐん上昇を重ねた。
最後の拒絶反応という戦慄と、彼は戦っていた。彼の咆哮が、深い谷間にこだまし続けた。
雲の絨毯が広がっている。
おぼんのような、まん丸の月だけは、位置を変えず、浮んでいる。
雲の上にひろがる、傾きかけた恒星たちの、射抜くような細い光のなかを、跳び続ける。すぐに光は弱まり、恒星も雲の中にもぐりこんだ。
彼は雲の下に出た。
もう街は彼を、捉えなかった。
夕日が山に、彼の間延びした影を、ちりぢりに写す。
山伝いに飛んでいくと川が現れ、現れた川は幅を増してゆき、ふたたび灯りが灯された人里が、ぽつぽつと姿を見せ始めた。彼はまた、弧を描いてUターンすると、物色を続けた。ようやく崖の上の葉ぶりの小さな、手頃な大木を見つけ、舞い降りた。
彼は心身共に疲弊しきっていた。
とおくの人家の灯が、目に染み入る。
窓越しにチラチラしているのはテレビだろう。
そしてテレビにはきっと、彼の姿が、映し出されているかもしれない。
彼はこうべを垂れた。
薄い月のようなまどろみが、彼をつつんだ。
だが、安眠は訪れない。
ここではあまりに目立ちやすい。
冷えた空気を、「翼」でうんと押し、木を巻くようにして森の奥へと、「翼」を進めた。
かなり山に近づいた。
川沿いの崖に、どうしても吸い寄せられる。手頃なスケールの木と空間をようやく定め、再び彼は舞い降りた。
なにか食べ物を探さなければならない。さっそく気のすすまなかった狩に、早急な必要に迫られた彼は、出かけていった。
森は確かに命が豊富のようだった。
彼はすぐさまタヌキをしとめ、足に掴んで持ち帰った。だが、とても、食えるものではなかった。引き千切りひと噛みしたが、咀嚼せず吐き出した。川に降り、水を飲んだ。水の分だけ肛門から、ビュッと出てしまう。悪い事に、その辺りは鷹のツガイのなわばりのようだった。はじめは遠くで警戒と威嚇の泣き声を発していたが、彼が出入りをはげしくすると、二匹は彼を追いたてるように、まとわりつきはじめた。
その健気な必死さに今度は、彼が追い詰められていた。思考が裂け、耳が鳴り、餓死の恐怖が頭をもたげてきた。彼は鷹の声のルーツに狙いを定めた。そこに近づこうとすると、見事な激情で鷹のつがいは、必死に抵抗してくる。彼は疲れていた。鷹の勢いにおされ、踏ん切りがつかずにいた。彼は待っていた。鷹がつかれたら、卵を盗んで、さっと飛び去ろう。大きな鷹が、彼から離れた一瞬をついて、彼は一気に鷹の巣に攻撃をしかけた。小さな鷹は、爪を立て彼にしがみつき、くちばしをノミのように打ち込んでくる。そういつまでももらい続けるわけにはいかなかった。「翼」で弾き飛ばそうと動いた瞬間、背中に鈍痛が走った。大きい鷹の、一撃であった。
彼は後頭部にも大鷹の攻撃を、したたか受けた。意識が一瞬遠のく。思わず「翼」で薙いだときには、小鷹は大木に激突し絶命していた。大鷹が絶叫する。今度は両の足で大鷹を捕まえ、そのまま岩に叩きつけた。大鷹は彼の足の中で、肉の骸とかした。
巣を覗くと、目も見えないような赤子が、ピーピー鳴いているだけだった。
やがて赤子も衰弱し、明け方には骸になって静かになった。
疲労困憊し、彼は木の上でセキブツのように横たわった。
そうして朝日の中で再び、まどろんでいた。
それは最後の抵抗であった。今にも言葉は永遠に彼の中で消去され、疲労を回避する為の行動に、すぐさま移る時がくるだろう。
広大な宇宙の中に、点のように小さい、彼の意識があった。ただそれを、プチッとつぶすだけである。
君はだれ?君はなにをしてきたの?
突然空が陰ると、彼の前に舞い降りるものがあった。
瞼をこじ開けると、あの人間鳥が、彼を見上げていた。
夢かもしれない、彼は再び、まどろんだ。
すると人間鳥は「翼」で彼を痛打し、幾度となく自ずから羽ばたき、彼に羽ばたくことを促した。プチッと、音をたてて潰して彼は、空に舞い上がった。
もう戻れなかった。それからの彼の記憶は、写真のように、物切れであった。ひたすら高く登り続けた。幾度かあきらめようと感じたぐらいに高く。しかし先にたって飛翔する人間鳥のいななきは、彼の導火線に火を付け、彼を力強く鼓舞させた。ダイナミックな飛翔は、波のように衝動が爆発し、そしてさらに優雅に早く、風にのって彼も羽ばたくのであった。そして、彼の目前に城が、姿を現した。
その高さは五百メートルはあるだろう。
滝の巣が、空に数百倍にして、浮ばせた有様は、彼に安堵をようやくもたらした。そして歓喜の絶叫を交互に彼らは繰り返す。グロテスクな、理解を超越した、圧倒的で、絶対的で、普遍的かつ永続的な存在。
白い半透明の素材でくみ上げられた回廊に、無数の入り口が、あらゆる角度から開いている。
無機質でいて、内臓を丸出しの、湯気がたっている、縦横無尽の塔の中の、内容物。
城が、鳥の、無限の羅列になって、不夜城と化している。
部屋に入って目を閉じた。光景が回転し始める。
半透明の鉱物の内臓で出来たような長短無数の足場で区切られた部屋であった。彼はおわんのような一室に、相棒と並んで休んでいた。
上下左右に、ツガイが寄り添っているのが見える。その光景がどこまでも、続いている。
一斉に交尾が、始まった。(了)
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