「今ぼくを悩ませている4つの閉塞状況」第3話 渡邊 聡
「今ぼくを悩ませている4つの閉塞状況」第3話
渡邊 聡
二時。
小屋をあとにする。
巻き道をつめる。
昨日意識しなかった、雪渓のしたをすべる水。
踏みしめる音。
反響が、近づいては遠のき、近づく。
一陣の風が二人のからだを後ろから壁に向かって 突き上げてくる。
足の裏の鋭利で、固い感触。
ガレ場の到来である。
道は傾斜をます。
もう、取り付きで、ある。
サーチライトで壁を照らした。
山のような岩が、二つ。
微動だにしていない。
その辺りにはもう、落石のルートの近くだ。
上を仰ぐ。
まだ、深い眠りについている岩稜たちが、座禅を組んで折り重なり天まで続いている。
左側面に取り付く。
しばらくは藪こいでまず、縦に裂けたリスに沿って、チムニーを目指す。
ホテルの展望台から確認できた奴だ。
丁度そこでライトから発せられた光線は、闇に吸いこまれなごり惜しくきえる。
庇の右だ。
バンドの中にからだごと、もぐりこむのだ。
落石をさけ200メートルは高度をかせげる。そのために、スキルを極めてきたのだ・・・。
幾度かライトの光を角のように振りまわし、眼前に広がる生のアトラスを焼きつける。
下を向き目をコウは閉じる。
閉じてアトラスに登攀のイメージを重ねる。
ザックをセイに託し、確保だけのための最低のツールをベルトに格納しザイルで結び合う。
登攀のはじまりである。
霧はまだ、形づくられていない。
が、ずいぶん水気を含んだ、冷えきった岩肌の感触である。
薄い、“あく”のようなものが、表面を覆っている。瞬間、“速さが、生死を分ける鍵だ”と痺れのような警告が脳に走った。ホールドを捜し、つま先で岩をおしながら、からだをせり上げる。
思ったより凝固な感触が、ビブラムのそこを通してコウを叱咤する。
視覚を取り戻すまでは、汗をかかないスピードを維持し、ウォーミングアップでいい。
そのかわり確保なしだ。
一歩一歩体をせりあげるたび、感触がポンポン言葉になって具体化してくる。
「チムニー上まで、ダブルこーげき」
「りょうかい」
「確実・・・ね」
「アイアイサー、・・・浮石ね」
「りょーかい」
ヘッドライトで、局面を選択するためには、リズムが必要になる。
普段よりワンテンポ多いリズムが、かえって気持ちを引き締める。
脳の未使用部位が海綿体になって受容器からの情報を、吸収する。
「よりも・・・けっきょく・・・だから・・・」
セイがいつもの、意味にならない独白を始める。
なめらかにインプットできるように、岩をなでるような登攀を続ける。
きっと、独白も、生理のリズムなのだろう・・・。
時々、リズムにブレーキをかけて、首だけ出して上を仰ぎ位置を確認する。
のったくった、ハーケンにあえぎまくりそうな、リスが目印である。
いまのところ満点との、生理のフィードバックの採点。
岩に併せて、独白はテノールになり、バスになる。
彼方を、顔面に岩の直撃をうけ、回転し落下するイメージが、飛んでいる。
膝で岩を抑えつけながらつま先で足がかりの確かさを確認する。
落石の巣は、今のところ回避している。
縦長の磁石のようなドス黒い、棒のように突っ立っていた岩が、その四角い端をしたに向け、セイとコウを確認すると、一歩ごとに形相をかえ変身し続け、今や垂直以上のハングになって行く手を阻む。
「雨宿りが、できるんじゃないかぁ~」
セイがうたう。
いまや、表情を消し、拒否する鉱物。
ハングをまき、手のひらほどの幅のホールドを見つけると止まって、ハンマーを取りだし、左手で岩をたたいてみる。
右手のホールドに響く音色は、
“いつでもひっぺがしてやる”というどす黒い殺意の警告だ。
こいつは、いつか・・・明日か、千年ごか、万年後、はがれ、すっぽりぬけて真下にみえる雪渓につき刺さるにちがいない。
セイが迫る気配がする。
ハンマーをベルトに掛けるとコウは、目前のチムニー目指してさらに上に光源から角をなげかける。
左半身の確保を縦棒の岩に求めるようになってから、登攀は極端にむずかしくなってきた。
のっぺりしていて、ホールドになる窪みがないのである。
といって、右半身側はすでにハングにかかっている。
登攀後、一時間、まだ登攀導入部。
「うそだろ・・・」驚愕と畏怖と、絶望と一抹の奇跡を発した脳を、落とした豆腐のようにたたきつけられたクライマー達の怨念が、襟首あたりを冷やしてとおりすぎる。
無理は禁物だ。
この先それこそ、いくらでも無理させられよう。
「なるほど、なるほど」
おっついたセイも、状況を見てっとった。
確保の為にとりだされた、この日最初のハーケンが、コウによって再びふりあげられたハンマーによって、高らかに歌声をあげる。
「いよぉっ、親方」
陽気なセイの掛け声が、壁をこだまする。
抜く手間を割り引いても、コウが打つハーケンのはじけた音色は、セイの特別のお気に入りである。
打つたびにかかる掛け声に、毎度複雑な表情をみせるコウの打つ音色はしかし、変わらない。
音色は音程をあげながら、確実にまいど終いまでしっかりと歌い続けた。
まずは上出来である。
ここからは、それほどザイルも伸びずに、ワンピッチで再びチムニーに入ることができそうだ。
左右の壁にふたまたをかけながら、バランスクライムはつづいた。
20メートルのびたあたりで、コウがチムニーに入りこむ。確保完了の合図だ。
荷物を背負いこんだセイが後につづく。
打たれたハーケンをこじり出す。
その効き方が、実にまたいい・・・。
こじり出しながら、セイは妙に感心してしまう。
滑落した際かかる方向にはハーケンは、びくともしない。
何回かハンマーでこじりだす。
「よっ、おーやかた」
こだまのようなコウの声がかかる。
チムニーは、はじらう処女にようにその割れ目を閉じるかと思うと、すんでのところで今度は全開に開き、両手では届かない広さになったかと思うと、すぐにぴったりあわせてしまうといった具合で頭上に、凧の切れた糸のようにのびていた。
深くもぐりこみ、時には押し出されながら、肘や膝、尻を駆使してコウとセイは、からだを確実に高みに運んで行く。
いよいよ割れ目はがっちりと本格的に閉ざされ、垂直に落ちこむ岩壁の下部におしだされたあたりで、月はしらみ空が序序に赤みをとりもどしていくのを見てとる。
もうはしょることは出来ないだろう。
ここからが、真の力業の始まりである。
最初の草つきのバンドで二人はテルモスから紅茶をすすり放尿する。
夜明けは急である。
そしてそれまで闇にまぎれひっそりとたたずんでいた猛々しい岩稜が頭上に、大伽藍となって圧倒的にそびえ、いきなりその全容を表した。
まさに言葉へのいっさいの還元を拒絶する、純粋な、生々しいアナログの表出である。
それは見るものの内部で長いこと眠っていた、太古からの遺伝情報を発掘し、脈々と続く根源的な根幹をむんずとつかんでは揺さぶり、引き千切ろうとする。
津波のような畏怖がまず、生理となってうちから、血飛沫をあげ言葉を奪う。
そこでそれぞれの岩屋の身体が、翻訳しサインをおくるのだ・・・。
絶望であったり、恐れであったり、諦めであったり・・・。
彼らはわけもわからぬエネルギーが怒涛の憤激をなって膝あたりから吹き上げ、ゆらした。
とともに、こみあげる興奮の喜びを抑えるのに恍惚としていた。
1魂の恐怖が放出され、助けを求めて中空をさまよい消えて行く。
どちらからともなく、紅茶を仕方なく、踊り出す腕をおさえつけるようにしてすする。
下をみると、山小屋はすでに戻れない距離に遠のき、ひれ伏してわびている。
セイは、とみると、かわらず白い顔をして紅茶をすすっている。
目が合う。
「なんとまぁ、すさまじいかぎりだなぁ」
「ああ」
コウがつぶやく。
「こんなことは、どこにも書いてなかったな」
へへへっと笑う。
「Climb up to hell,ちゃちな言葉だ・・・」「やったことない奴、ここに置いたらどうな ん
だろうな」
「登るより、ひと思いに飛び降りるだろう」
ははっ。
どちらからともなく、濡れた犬のような勢いのいい武者ブルイを
一発かますと、再び、岩壁のかなたに見える頂きらしきものに目を走らせる。
「大なり小なりいつものことだな、この震えは・・・」
セイが呟く。
「ああ、いつも思うよ、一瞬だけ。やばいとこきちゃったな~て」
「でも一瞬なんだよな~、見てるうちに登りたくなってきて」
「登らずにはいられないっ、この衝動!」
コウの言葉でトリガーがひかれ導火線に引火する。
二人の頬は赤みが帯びてくる。
とくに相手が巨大であればあるほど、爆発力もすさまじい。
恐れの後には、好奇心が、むらむらと発ち上がる。
つぎには怒りにも似た闘志が烈火のごとく魂に気合を込める。
投げ捨てられた飲みさしの紅茶を、糸のように落下して行く。
黙々とザイルを結びなおし、ヘルメットを今日はじめて、被る。
コウは右腕をほぼ一杯に伸ばし、最初のホールドを握ると、右腕一本で
身体をうかし、顔をその手首あたりまでずり上げる。
さらに左手をつぎなるリスに拳ごと突っ込み、身体を確保する。
長い垂直の、闘いが始まった。
二人は、最初の壁の攻略もでるを、衝立岩に想定した。
岩はあれほどはもろくはあるまい。
そして壁の高さはむしろ、アイガーに似ている。
ただし、冷たさと、垂直度ははるかに此方が困難だ。
昼に雪渓到達で、恩のじ。
当面の目標は絞られた。
極度のバランスクライムの連続に入った。
指よりも長掌筋の酷使が要求された。
ホールドに全体中を掛ける結果、思いきりが必要となる。
が、かげんが過ぎると、落ちる。
普段はあまりやらない、つかみ、はさみ、差し込みながら身体と壁の距離を確保し、そろそろと肉袋の重さを痛感しながらそれをせり上げた。
指は第一関節がまでが掛かれば、充分だ。
ある時は岩に押し付け、摩擦のみで身体を確保しながら、足の引っかかる場所を捜した。
何時の間にか、リスの割れ目のバンドにへばりつく、茶色の雪が目立ち出した。
方向が、一定の、最初は気にならない程度の風が、背後から忍び寄ると懐にもぐりこみ、体をいきなり引き剥がそうとする。
幾つ目かのバンドに立ちハーケンを効かせ確保し、セイを待ちながら北壁の影の先に漂う日差しの、せめて焦げ臭い唐草の匂いを嗅ごうと、コウは鼻クウを広げた。
音もなく頭大の岩が回転しながらかすめた。
反射的にザイルを握りしめ踏ん張ったと同時に、コウの「らく」という叫びと「落ちた」というセイの叫びが交錯した。一瞬の出来事である。
いつまでたっても、見舞われるはずの衝撃がない。
我に帰って、コウは下を覗いた。
「だいじょうぶか」
「あたってない、ザック持ってかれた」
言葉を飲む。
ともかくもセイが上がってくるまでただひたすら待った。
アイスバイルにザイルが引っかかった。
それを解くため、空中に身を乗り出し半身になってザックを、取り、持ちなおす。
左手にザックをぶら下げたその時、短い口笛が聞こえた気がして上を向くと回転する岩が顔めがけて殺到していた。
ザックを握った手を離し岩に張りついたと同時に、岩はザックをさらって音もなく落ちて行った。
一瞬の詳細はざっとこうである。
幸運以外のなにものでもなかった。
頭を直撃すれば今ごろ、干物だろう。
身をかわしザックを守ろうとすれば、腕ごとザックを奈落にもっていかれる。
ただし、彼らが下界に戻れない運命にあるのなら、
いっそこの時、落ちてしまった方が良かったのかもしれない。
それは地獄の責め苦の始まりの合図となるのだから。
コウも血の気が引いた。
前兆が皆無の落石は、ライフルの狙い撃ちに等しい。
痛手らしい痛手も、はじめての経験である。
残った持ち物は、ぶら下げた三つ道具に、アタック用の水筒一本、ツェルトのみ残った。
食い物はチョコレートとチーズ。
氷壁とは、ガップリ四つに組めない。
ビバークなしの直登でいくしかない・・・。
しかも、退却の道は絶たれた。
二人は話しもそこそこにさらにピッチをあげて登り出した。
果てしないバランスクライムが続いた。
高度をあげるに比例して岩が冷たさをましていく。
石灰の袋自体が湿気で、ねちょねちょしてきた。
それでも付けないよりは増しである。
しゃにむに登る。
霧吹きで飛ばしたような霧が稜線づたいに漂いはじめる。
その度に遠くの陽が陰る。
カラカラと落石特有の音がようやく、壁伝いに反響するようになった。
ちょうど風がまたその勢いを増してきたころからだ、手がかりがいよいよ氷っぽくなってきた。
指がかぎのように関節から90度に曲がったまま固まっている。テラスで両膝の間に手をつっこみ、指を伸ばすとバリバリを不機嫌な音を発てて神経質な痛みが脳を直接かき回してくる。
痛みをこらえてなお、揉み解す。
・・・もうちょっとおまえには、働いてもらわなくてはならない・・・さらに曲芸が連続する。
空腹が重い板になって胃を刺激し、指がはりぼてに変わりだしたとき、いよいよ最初の大ハングの根元にさしかかった。
まるで彫刻刀で削ったような、粗い、しいたけの傘のようである。
そんなのが4メートルも張り出している。
「・・・15分だ」
その程度で充分だ。
指をさすりながら、コウが吐き捨てる。
「最後のおまえのお荷物だ、頼んだぞ、しっかりやれ」
セイが上体をおこし、ゲキを飛ばしてくる。
やはりトップしょぱい・・・、セイの実力に改めて感嘆しながらコウは、それぞれ2センチほどの出っ張りを指でぐいと挟み体を一瞬浮かすと、振り子の反動で足を右上に回し、突起につっかけてバランスを保たせる。
耳の後ろがドクドクなる。
3分か・・・、頭のなかを別の声がかすめる。カラータイマーじゃあるまいし・・・。
唸りながら右手を次のホールドに一息に伸ばす。
筋肉の束の悲鳴が聞こえる。
足を肩あたりまで引きつけて、壁をけるようにしてバランスを保つ。
蜘蛛もつらいよ・・・。
ひと唸りすると左手を庇の軒に這わせ、瞬時に握る場所を捜す。
がくんと荷重のかかった右腕の筋の張りが急を告げる。
左腕をとってかえして、右腕をカバーする。
だが、姿勢そのものの限界が訪れ様としている。
引力が身体全体を法則に従わせようとして、背中を引っ張る。
意を決して左手をまた伸ばして、ハングの庇からさらに上の手がかりを探す。
二本の指の腹が引っかかった、勝負だ。
左手をいったん離し、両足でスタンスを蹴って上体をハングの庇に押し出すと軒から出た瞬間、右腕一本で支点にしてさらに上のホールドに左手をとばした。
左手がホールドしたと同時に、酷使され続けた右腕の腹の筋の何本か音を発てて、伸びきった。
激痛に見舞われる。
右腕は、身体から生えている、重い無用の長物と化した。
左手の僅かなホールド1ヶ所を握り、コウモリのようにハングの庇にぶら下がったままコウはうめいた。
セイがなにか叫んでいる。
目を開けたコウは、反射的に右腕を左腕に巻きつけ懸垂のようにして身体をせり上げ、宙にぶら下がったままの足を振り子のように揺らすと、反動で右足を頭より高く持ち上げ
斜めに走るリスに噛ませた。
そして今度は左手と右足で身体を支えたまましばらくうめく。
右手がつかえない、完全にばかになった・・・。
左手でさらに何とか身体を持ち上げると左足を壁にガリガリはわせ、ひっかかったそばから踏ん張って、ようやく壁と並行に真っ直ぐ立ち直す。
右手の指を岩に押し付けて丸め、拳をつくるとそのままリスにぶちこみ空いた左手をなお、高く壁にはわす。
体をせりあげる。
右手を引っこ抜いて今度は、右の肘を目の上の横に長い突起に乗せる。
空いた左手で可能な限り上部の、ホールドをつかむ。
体をまた、せり上げる・・・。
やがて雪をたたえたゆるやかなバンドに上半身を乗せてコウは、顔を雪に突っ込んだ。
ぶらさがっている二本の足を持ち上げると、バンドのうえに横倒しのまま、コウはうつろにのびていた。
自分の役目は終わったと思った。
セイは、すばらしいスピードでハングを乗り越してくる。
コウにも、手負いでも、獅子の、自負と読みと裏付けがあった。
あとはセカンドの仕事をすれば良い・・・。
我々の勝利だ!
雪田の乗り越しが当面の鍵だ・・・。
やがて、コウはむっつり立ちあがった。
地面に直接ピトンを打ちつける。
確保の体制をつくる。
「いいぞ」
霧が渦巻く宙に向かってコウは怒鳴った。
セイはすさまじい勢いで大ハングを乗り越えると、まずコウの右腕をとって丹念に見た。
曲がる、押してもさほどいたまぬ、肉離れのようである。
潅木の切れ端を拾ってくると、右腕の添え木にして三角巾でまく。
腕の上げ下げにともなう痛みが無い様固定すれば良い・・・。
一本いれる。
まだ昼前である。
驚異的なスピードである。
トップはセイに変わる。
セイは、温存している体力のありがたみを痛感した。
コウはさすがだ、しょっぱい前半をのりきった・・・。
コウとセイは正午、雪田にとりかかる。
だがここからは、運勝負の、不気味な登攀が続く。
雪田を乗り切るまでは、焦りが命取りになるのは目に見えていた。
12本歯のアイゼンが欲しいところ、ピッケルのみだ。ステップを切るには限界がある。
選択は賭けでもあった。
岩雪崩の時間帯のピークまえに、尾根にはさまれた急なガレ場を直登する。
無事に詰めきれれば、残るは頂上直下の壁とハングだけになる。
アプローチのステップ切りに思いのほか時間をとられる。
ステップを切りながら、セイとコウは、ガレ場に頻繁に起きる落石を見上げてはその法則を読んだ。
が、やはり賭けの部分はのこる。
それがアルパインクライムの醍醐味でもあろう。
彼らは、遂にガレ場に到達した。
しばらくは、雪田をガレ場添いに登ってみる。
だが斜度は、ピッケル一本の彼らをあざ笑う様に厳しさを増した。
とうとう彼らは急峻なガレ場に足を踏み入れた。
雲が頂上から彼らを見下ろし、脅かす。
足を踏み入れてみると、なぜ、こんな急斜面にガレ場が存在しえるのか理解に苦しんだ。
さらに、そこを登っている感触が、毛穴を全開に開かせた。
あらゆる感覚器が、「逃げろ、逃げろ」と追い立て、急かす。ザイルは動きの連鎖を断ち切るため、迷わず外した。
覚悟がいることだった。
足元からも、岩の大崩落は起こった。
その度、足がすくわれる感覚に襲われ、もがいた。
この岩の幾つかが、越えてきたハングに到達し宙に放り出される。
そしてあるものは、取り付きまで、なんの物理的な抵抗も受けずに落下するのだ。
きのうの早朝の岩の飛まつの、起因地点に彼らはいた。
二時十分。
とうとう本格的な岩雪崩に遭遇する。
右斜面を下ってきた一陣の岩は本筋に突き当たって全体に岩雪崩を発生させた。
幸い二人の位置は、きっかけとなった崩落の真下あたりであったため、いくつかの拳大の岩をうけただけに留まった。
肩や腿に、裂傷を負い、血を滴らせた。
さらに一時間後、岩雪崩が彼らをかすめ、谷全体を揺るがした。
岩雪崩の煙にむせながら、飛まつやチリをかぶりながら、もう者遮二無二歩を進めるしかなかった。
四時。
いきなり一枚のフェイスに突き当たる。
賭けの終焉は、あっけなかった。
二人は始めてお互いの五体が、そろっていることを確認し、目を合わせて、高笑いをした。
からからにこびりついた汗の塩と血のしたたりの上に、岩のドウランが相俟って三文歌舞伎役者の風体だったからだ。
笑いは果てしなく壁を跳ね返ってこだまし、涙声になってようやくおさまった。
どちらからともなく握手した。
勝利はもう、かれらの手の中にあるものと、確信した。
あれ程の威容を誇っていた天にそびえたつ北壁は今や、薄いベールのような霧に包まれて上を向いた、一枚の壁に収縮し目前に立っていた。
150メートル程の壁である。セイは予定通りの取り付きから入ると、見る間に体を霧の中に運んで行った。
するすると伸びて行く、ザイル。
一杯に伸びきる直前、
「いいぞっ」
と天から声が降ってくる。
添え木で固定されたコウの右腕は、短時間でかなりの握力を回復した。
さらにバンダナを紐にして手首が曲がらないよう、ぐるぐる巻きにする。
鎌状になった右手を薄く氷のはった岩角に引っ掛けると、体重をそこに託してみる。
いける・・・。
右足で壁を蹴り込むと、左手でほんの小さな岩角を握りこみ、コウも体をせりあげていく。
やはり要注意は岩にへばりついた氷だ。
ビブラムでかためた足と壁の間にしっかりを密着し、奈落へ、身体ごとすくおうとしてくる。
氷を蹴落としながらセイに追いつく。
「しょぱいところは、ピトンを打っていくぞ」
コウは頷くしかなかった。
この手ではやはり限界がある。
誉に眩めばミンチになるしかない。
セイも極力フリークライムには、こだわるであろう。
風がふわりと視線を促す。
見ると霧はちらと隙間をあけ、帯状の庇“Band of hang”の鋼鉄でできた黒人のcockのような黒光りで、威嚇してまた霧のなかに消える。「やっちまおうぜ」おもわず掛け声をかけると、セイは振り返らず、拳を突き上げて答えてくる。
ホールドを捜している。
セイのホールドとスタンスを一々すり込むのは、自然に身のついた知恵だ。
そう、それだ・・・、それいがい、さらに快適な登りを提供してくれるコブは、どこにもない・・・。
フリーで小さな庇を、結局乗り越す。
ザイルの張りは、コウを引っ張りあげる算段のようである。
できるところまでやってみるか・・・。
コウも勢いをつけて、あとに続いた。
5時を回った。
すでに北壁側は、風前の灯である。
頂きだけが、西日を一身に受けて、ダイアモンドダストの輝きを放っている。
16時間を経て、二人はついに、最後の関門に挑もうとしている。
ハングと垂直の壁の境に、最初のハーケンはセイによって打ちこまれた。
カラビナが通されアブミが下げられる。
蜘蛛になってはりつく姿に見慣れたコウの目には、この小さな梯子を使った
登攀の方が、よっぽど危なげに映る。
さらにハーケンは乱打され、アブミは序々に庇の内側に、ルートが伸びて行く。
これじゃ、落ち様がない・・・。
やがて先端まで張り出すと、セイはおもむろに背伸びでもするように、庇の向こうに消えて行った。
「ボルトがあるぞ」
ザイルの伸びが停止する。
えっ、ボルト?
「バンドはないか?」
「・・・ちょっと、しょっぱいな・・・もう少しだ」
ザイルが、逃げるヘビのように、庇の上に消える。
ほっとした瞬間、大翼鳥の巨大な影が、視界を縦にさえぎった。
音もなくあお向けに落下するセイの一瞬の残像。
ザイルが鞭になってのったくり高速でたぐられると、握る間もなくコウは、頭から庇に叩きつけられた。
一瞬の出来事であった。
首を伝って流れる血が、失神からコウを覚醒させる。
腰のカラビナがガッチリハーケンをかんでいる。
一本も抜けないかわりに、したたか叩きつけられた頭が割れ、腰を痛めた。
いや、腹が苦しい。
ザイルが食いこんでいる。
手で頭をいじくりまわしている。
痛みがそのたび波のように押し寄せて、意識を覚醒させる。
骨は大丈夫らしい。
耳の後ろにも回り込んで血は、雫になって落ちてしまう。
髪の毛をしぼったら又血がしたたった。
もったいない・・・。
またコウは何秒か失神した。
拘束感が抜け、身体が緩む。
その刺激が夢中でコウを反射的に岩にしがみつかせた。
セイがいない。
声がない。
意識がフルスロットルで走り出す。
セイがいない。
ザイルが効いてない。
セイを求めてコウはカラビナを外すと、コウはザイルを固定し、自らは、確保なしで下降をはじめる。
セイは…。セイは20メートル下の50センチ程のバンドに横たわって身体を丸め、痙攣するように小刻みに震えていた。
そばによると、首だけ回して“行ってくれ”とかすれた声でつぶやき、力なく目を閉じた。
コウはみるみる岩のような色になるセイの背中をさすっていた。
セイの手に食い込む程に握られたいるものを、そっとはがす。
それは錆びついた、一本の生めこみボルトだった。
血は止まっている。
ようやくずきずきうずく思考がまとまりをみせてきた。
相変わらず、コウはセイの背中をさすりながら、最強の岩屋の最後を思い出していた。
衝立上部の錆びた、古いボルト。
600メートルのダイブ・・・。アイガーの遭難の話しを引き換えに、セイに「決して動くな」と諭す。
岩のようなセイの目から、滴がこぼれる。
「コウ…、血が・・・」セイが呟く。
「俺は大丈夫だ、おまえが動かないこと、それが俺の命を救う、頼むぞ」
コウはジャケットを脱ぎセイにはおり、ツェルトで丁重にセイをくるむ。
セキこんだセイの口から、血の泡が一筋流れる。
「頭、大丈夫だな」
眠りそうなセイは指でメットを、小さく2回たたいた。
口の端を持ち上げた。
笑いかけたつもりなんだろう。
口元にチョコレートを入れる。
ザイルにカラビナを通し、ハーネスをハーケンで固定する。
「よ、親方」
セイがうめく。
「動くなよ、南壁のオヤジのヘリでくる」
立ちあがったコウは、バンダナと添え木を断崖遠くに、かなぐり捨てた。
再び、コウの攻撃が始まった。
たちまち大ハングの乗り越しにさしかかる。
打つハーケンはない。
打たれてあるハーケンには触らずに、岩をつかみねじ上げて蜘蛛になって張りつき全身する。
足がはずれ、一旦ぶら下がっても、懸垂の要領で身体をせりあげ、張りつく。
右腕がぶるぶる震え出す。
脳を直接がんがん痛みのハンマーでたたかれる。
時間がまたもや変質してきた。
庇の端を掴む。
窪みにつま先をうめこみ、蹴って庇の突端に両腕でぶらさがる。
限界が訪れる。
うめきながら右腕に残された最後の力で身体をささえ、左腕を頭上になげホールドをつかむ。
のりこした、勝った・・・。
あとは、僅かばかりの右腕の援軍を頼りに、足をかければいい・・・。
手がかりは?
手がかりがない!
みるとのっぺりした壁である。
頭がパンパンに腫れる。
手がかりが皆無だ!
限界が訪れた。
ガクッと、縮めた左腕が30度伸びた。
無念。
むなしく視線を這わせる。
と、ぽっかりと、穴があいている。
抜けた埋め込みボルトの、跡だ。
小さな声が聞こえたような気がした。
痛みに怒りが加わった。
タールの海に落ちた瀕死の海鳥の映像が頭をよぎる。
そして、その海鳥が丸まったセイの姿に変わる・・・。
ちくしょう・・・。
コウは憤激にまなこを見開き、指を二本揃えると、爪が弾け飛ぶのも構わず、ボルトの穴深く、骨も折れよとばかりに叩きこんだ・・・。
ホテルの窓には、灯火が揺れだした。
テラスには、まだ、双眼鏡を覗き微動だにしない姿があった。
虫の知らせがオーナーをその場に、くぎ付けにしていた。
だが、オーナーは何十回目かの反目を、また繰り返した。
不世出の天才クライマーのコンビである、彼らに敗退はない・・・。
切って捨てるような風が降りてくる。
山頂だけが、西日をまだ浴びてキラキラ花火をあげる様に、輝いている。
見る間に頂きの陽光の範囲が、つぼんでいく。
オーナーは一旦、自分専用の籐椅子にへたり込んだ。
まだ、あきらめきれず、最後の確認をおこなう・・・。
と、いたっ!
確かに、人だ!
しがみつき、ズームで絞りこんだオーナーは、仰天し我が目を疑った。
その双眼鏡の中いっぱいには、いま、まさに消えんとしている残照を一身に浴び、彫刻のような筋肉に波打つ金色の体躯を乱反射させて、仁王立ちした上半身裸の青年が腕に巻きつけたシャツを、振りまわしていたのである。
コウだ!
空身だ!
セイがやられた・・・。
オーナーは踵を返しホテルの無線に今度は、しがみつく。
とって返し覗くと、もう頂きにコウの姿はない。
東南稜を飛び降りるようにして、髪を振り乱し、駆け下りている。
まってろよ、ひろってやるぞ!
ヘリポートに走りこむ。
もどかしくヘリのイグニッションを点火しエンジンを始動させる。
セイ、おまえもぜったい、おろしてやる!
まぶたの裏に静かに横たわるセイにオーナーは呼びかけた。
ヘリが始動を始める。
辺りが轟音に包まれる。
自分に言い聞かせながらオーナーはまた、祈る様に消え行く南壁の残照をみあげた。
「今ぼくを悩ませている4つの閉塞状況」第4話URL
https://note.com/satoru0616/n/n7eef50590b94?sub_rt=share_pb
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