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愛する我が子へ~贈ることば~

愛するわが子へ
  ~贈るコトバ~


 「愛」とは
 
修練です。

利己的な人間が、
どこまで利他的になれ、
かつ、
それを己の喜びにかえられるか。

共に生き、
すべてを享受し、
許容し、
抱擁する。

誤解しやすく、
手に入れたと思った瞬間に、
すり抜ける。

けれど、
人間でありたければ、
決して忘れてはいけないよ。

 願わくばキミの歩む路道に、
 それらがたくさん降り注ぎますよう。


 愛するわが子へ
 「恋とは」

 本能がなせる業(わざ)です。
だから原因がはっきり判らない。
いくつかの条件を満たせば
対象が即座に、勝手に、刷り込まれる“条件反射”と同じ。
実は相手を見ているようで
見ていないことが多いのも、それが理由です。
けれども、ヒトはそれを手掛りにして、人生の可能性を計り切り開く。
だから薔薇の蕾のような可能性が、
あることも否定できない。
時間と理性を使ってあらゆる角度から検証し、
愛に耐えうる昇華が可能か、よく見極めてご覧なさい

 


愛するわが子へ
 「親とは」

  キミの姿を映すために、最初に天から与えられた鏡です。

それは一つの道具にすぎないから、

全幅の信頼を寄せてはいけない。

なぜなら、それが曇っていたり、歪曲していることは、ままあることだ。

つまりは、キミの人生が豊に実るためだけに用意された、

ささやかな道具でしかない。

だからその道具がキミにとって不快であったり、実直でなければ、

割って先に進みなさい。

願わくば父に映る、キミが放つ素敵な光を、キミ自身もその手に汲んで実感し、

少しでも暖かくキミと、キミをとりまくヒトを照らしますよう、

祈っています。



愛するわが子へ
 「夫婦とは」

理解と応援。
これをお互いが自然に持ち続けられれば、信頼という
絆で結ばれる。
この絆の共有は物理的な別離や敷居より、強固なものです。
その絆の成長が、個々の夫婦の、オリジナルな足跡であり、
証しになる・・・。
どちらか一方では、いずれ時に擦切れてしまう。
存分に甘えていい。
ただし自分の成長のため、お互いがよりよく生かされるため
時々
“愛”
を使ってすこしだけ、背伸びしなさい。
妥協はしない事。
安易にしない事。



 

愛するわが子へ
 「SEXとは」

 素敵なSEXは、人生の最も豊な贈り物です。
共にいたわり、時にははげましあって目指す、
高みの到達点です。
お互いのための行為であることさえ忘れな
ければ、素敵なSEXは、あらゆる迷いや傷を
癒す最も神聖な良薬です。
だけど、いいかい。
一方的なSEXは、回避するんだよ。
父らは人間を捨てられない宿命の中にある
のだから。
 ヒトを軽んじることはすなわち、自分を軽んじることに等しい。



 

愛するわが子へ
 「嫉妬とは」

 嫉妬は、自分の欲深さを知る、尺度だ。
相手になく、自分にある。
ただし、その音色は千変万化に、相手と自分の
在り様を表す。
だから暗い音色には、要注意だよ。
もう一度、お互いが“生きて”いるか、振りかえって
ごらん

 

愛するわが子へ
 「伝統とは」

 伝統とは理論武装された規制です。
それを発動する体制の在り方が問題になる。
伝統と誕生。
どちらを取るかは、年齢からくる遺伝情報に
制御されやすい。
だから伝統拒否は、いつの時代でも
若者だけの特権であるわけです。
文化、思想、科学、常に発見と誕生を摸索する
選択肢には、必然的に厳しさがつきまとう。
孤高な作業と言えるでしょう。
伝統に身を委ねる事は楽な選択です。
父に言えることは、快な選択より不快な選択
こそパイオニアの常道であるということ


 

愛するわが子へ
 「友とは」

伴侶や家族がいれば、
なくても、平気だよ。
安心していい。
だけど伴侶や家族がいなくとも、
友がいれば平気とも言えるんだ。
いればいたで、こしたことはない、位が自然かもしれないね。
長く続く友とは、お互い衣を脱いで楽になる場として、
多いに使いなさい


 
愛するわが子へ
 「神とは」

イメージであります。
遺伝子によって誰にも等しく持つことを義務付けられた、
畏怖し崇拝する普遍的なイメージと言える。
不完全さを恥じる人間の願いであり、
不完全であり続ける人間がもつ、
完成欲と言ってもいい。
だから諸刃の刃です。
人が創った神や、人が説く神には、意図がある
その意図の部分は捨てていい。
神の名を借りて、己の欲の実現の為に、
人を利用しようとしているだけだから。
ただし、その本質をあなどらぬよう。
すがることなく、失わぬよう。
ちなみに父の神のイメージは、
あの入笠山から見た、満天の星空です。

 

愛するわが子へ
 「宗教とは」

宗教の実績

『信仰する個人に、心の充足をもたらすこと』

宗教の実績

『異教徒同士の争いを生み、
結果として当該宗教を信仰していない
個人を、不幸にしたこと』

では父にとって、宗教とは?

道具です。
刀と同じ。
なんら変ることはない。

他者をコントロールするために、
人間自身が発明したものだ。

持っていれば、
民を治めることが
できるかもしれない。

振りかざせば、
大儀が立ち、

抜けば、
大儀の名のもとに、
命をも排除できる
便利な道具だ。

宗教のたつところ、
対立ありき。

父の宗教は唯一
下記のみ

『キミの命のぬくもり、
あたたかさ、いとおしさ
それらは父にとっても、
父の命、そのものである』

それが父の
宗(=sect)
教(=教義)

では父の実感を言葉にするね、

宗教は父にとって、
『変化に怯え、
可能性をあきらめ、
選択を他者にゆだねた
年寄りのたわごと』

さて、
キミにとってはどうかな?
さあ、
父のこの言葉をブチ壊し、
荒野へ、
歩を進めなさい。

とらわれず、
水の流るる如く、
自在に、
謳歌して、
キミの全てを、
デザインし、
生かすよう。


 
愛するわが子へ
 「お金とは」

 道具です。
創り手の本質を、本当によく表している。
脳の中で、異なる物質(電磁波、音波)が
等価交換されるといった、人間の動物的
特質・アナロジーが、具現化されたものです。
非常に人間の在り様を表している。
だから、肝に銘じなさい。
利用されてはいけない。
振りまわされてもいけない。
執着しすぎてもいけないけど、
あなどり、軽んじてはもっといけない。
一つ良い事を教えよう。
利用の仕方に、その人の
“人間性”
が最もよく表れる。
このことを理解すれば、
“隣人の人となり”
を最も良く知ることの出来る、
便利な道具になるよ。
そしてありがたいことに、
それは己を知ることにもつながるからね。

 


愛するわが子へ
 「感情とは」

 味わった後が問題です。
キミが、いかり、悲しみ、喜び、を感じる対象・現象。
それは、キミがとらわれている“何か”
の仮の姿であります。
もっと客体化すれば、やはり
それも己を知る鏡になりえる。
それらを感じたら、
それらを凝視してみよう。
すると、なにかに固執し、囚われた自分の姿
を見出すことができる。
そして悠久の
“過去への自分探しの旅”
へ出発するといい。
おそらく旅の収穫が二つ、
キミの手元に残るだろう。
一つは、人間の普遍的な生理の発見。
一つは、固有の形作られてきた自我。
たとえば昔、躓き、怪我をした原因で
あった小石を発見できたりする。
そしてそれを発見することは、
以後キミがより豊に生きる、
羅針盤になり得る。
時には立ち止まって、振り返って
見ましょう。
決して回り道にはならないから。

 


愛するわが子へ
 「孤独とは」

 出発点です。
原点でもあり、当然な状態です。
父はこれを愛し、まずここに立ち帰って
対象・・・我、人、物、事件、事象・・・を眺めました。
埋没せず、
飼いならせば、
己の人生の、
充実度を図る尺度になる。
例えばここに立ちかえって、キミを眺めた。
すると自分の人生の足跡と蓄積が、
絵巻物のように溢れ、感謝と充実の念で
いっぱいになった・・・。
畏れること何もはありません。
埋没せず、飼いならしなさい。

 

愛するわが子へ
 「強さとは」

 強さとは、己の弱さを知る事にあります。
強い状態とは、己の弱さを熟知している状態なのです。
人を鏡として自己を確認する人間はまた、人に対して
虚栄も張りますから、とかく己の弱さは出てこない、見えにくい。
けれど、人を鏡として己を探すのでなく、自分を省み、己の所業
をそこに探し、そこから飾らず偽らざる己の姿と対面してごらん
なさい。
それは新たな誕生と等価です。
そしてその己を認め、誉めてやりましょう。
そこから旅が始ります。
どのような旅か?
それはキミの意思と選択にかかっている。
どうか、実り多く、すべてに幸多き旅になるよう。
父は祈っておりま

 

愛するわが子へ
 「親とは」

 別れの日はいずれ来ます。
けれども探さなくていい、
なぜなら、
父はいつも、 
キミたちのなかにいる。
安心しなさい。

愛するわが子へ
 「闘争とは」

ヒトにおける闘争とは、
「戦いにおける勝ち負け」
より、
「所属したい集団における、
なわばり争い」
といった要素が強い。

だから、
「闘争」
 は
「いかに所属したい集団において、
広く大きいなわばりを獲得できるか」
の争いと、言える。

なわばりは、
物の量であったり、
ヒトの量であったり、
ヒトの心であったり、する。 

集団において、
それらのイニシアチブを取る・・・

それがヒト科における
「闘争」
の、アナロジーと言える。

絶えず他者と自分を比較しなければ
自分の位置を確認できず、
自分の位置を知らない状態に不安を
感じるようプログラムされた人間。

だから、社会に身を置くということは、
イコールあらゆる次元の闘争に身を置く
ということに他ならない。

だからこそキミに、
これだけは忘れないで欲しい。

それは集団側に働く論理であって、
キミの価値ではないことを。

その結果でキミの価値は、
到底測れないことを。

“評価”
 や
“成績”
ごときで、
キミの価値は揺るがないことを。

力を振りかざせば、
やがて、
力に負ける。

力を超えるのは、
知恵ややさしさに他、
ありません。

力を追求すれば、
その先には形を変えた、
敗北が待っているだけです。

敗北もまた、
いいだろう。

けれど、
自分も生き、
人も生かすよう。

上手に
“闘争”
と渡りをつける、
人生であることを、
祈っています。


愛するわが子へ
 「好きなこと、嫌いなこととは」

好きなこと
評価なしでも楽しく続けられる事。
良く言えば生き甲斐、悪く言えばマスターベーション。
嫌いなこと、
自分自身を映す鏡。

やすきに流れやすい自身を高みに押し上げる
つまりは自分磨き、しかも他人の評価に左右されず成す方法は、唯一つ。
不快をあえて選択し、それを快に変える試み。
自分の限界点を知り、そこに到達し、
かつさらにそれをのばすには、
快を動機として不快を利用し、快をのばすこと。
不快=努力、練習、挫折、敗北
だから、好きなことも嫌いなことも、
よく見てみると、すべては己と出会うための道程だね。
頑張れ!


愛するわが子へ
 「夢と、今と」

 夢の実現は、長き日々の修練の成果です。
いつの日か、やってやる…これは見果てぬ夢で終わることが多い。
この両者は、関わり方における、大きな差を示している。
だから小さな夢でも実現出来たなら、大いに自分を誉めてあげよう。
日々の小さなトレーニングや勉強が、今のキミを形作る、
確かな栄養であり、なにひとつとして無駄なものはなかったわけだから。
明日はキミがつくる。
明日のキミは今のキミの行動と選択がつくる。
選択肢は無限にある。
キミはつまり、
無限の可能性なわけです。
それだけに、不安である。
それでいい。
人生は、例えれば山登りと同じです。
年を経るにしたがって増えた荷物をザックにまとめ、
労苦や病、事故と渡りをつけながら、伴侶や友、親を
ときに手をたずさえ、励ましあって道を行くのです。
ゆえに、伴侶の存在に感謝し、友と友情を誓い、
眼前にひろがる雄大な景観に涙し、食べられることに感謝できる。
そこに生きていることのすばらしさがある。
そうしてこそ、生きることを、肯定できる。
安心していい。
山をくだれば里に出るし、川や海もあろう。
キミには選択肢がある。
いつでも
“新たな”
人生の選択が可能であるのだから。
感じて、考えて、やりなおし、修正する、そして自分の
未知なる可能性をまた、掘り起こすべく心身を練磨する。
今です。
それは今はじまる。
遅すぎる事など、生きていく上では、決してないのだから。


愛するわが子へ
 「才能とは」
 
誤解されやすい。
たとえば才能の量。
多ければ多いほど、
その量を生かす為の努力の量も又、
比例して必要となる。
そこを人は、
多いに誤解している。
“10で神童、20でタダの人”
とは、“才能の量が多い人が人並みの努力を
した結果、人並みの到達点しか得られなかっ
た事”の揶揄でしかない。
キミのなかに大きな才能の源泉が眠っていると
思うのなら、普通の努力ではその全ては生か
せない。
過度な負荷がどうしても必要になる。
寝食を惜しんで、邁進してごらんなさい。
その果てにまた、新たな自分との出会いがある。
それこそが、もって生まれた才能を磨く、
理由だからです。
ただし、クールダウンがストレスの耐性作成に
は必須だから、休む時はすべてを忘れて、
ゆっくり休みましょう。
人と競う事は、確かに刺激的かもしれない。
けれど真に大切な糧は、
前の自分と今の自分との成長度合いにこそ
あるのだから。
好きであることと、才能を伸ばすことが、
一致すると良いね。


愛するわが子へ
 「結果とは」

人が見た結果と、
自分の総括としての結果。

前者は
気にしなさんな。
しょせん人が下すものです。

それより後者に、
耳をすましなさい。

全ては
関わり方。

意識を持たず、
漠然と関わるのと、
目的を持ち、
あるべきイメージを強く持って、
関わるのでは、
その
「結果」
が、
自ずと、
大変に、
変わる。

一時が万事です。

時をただ、
垂れ流すのと、
何かを意識し、
感じ、
留めながら生きるのでは、
1年後、
5年後、
10年後の、
キミが変わる。

だから結果などにとらわれず、
 今
を、
生きなさい。

関わり方ひとつが、
キミを生かします。

そして遅いことは、
いつとしてないのだから。




愛するわが子へ
 「病と」
 
克服できなければ、兄弟のつもりで付き添って
あげなさい。
それは生の一形態にすぎませんから。
大切なのは、キミの
“受け止め方”
それ一つです。


愛するわが子へ
 「善と悪とは」
 
 悪
キミの中にも、あってあたりまえ。
それが“人間”であることの証明です。
「感じた事ない、考えた事もない」
これはケモノの世界の道理。
それこそ悪そのもので、こんなこと言っている奴こそ、もっとも
キケンな輩。
偽善とはこんなことを表す言葉です。
「悪への嗜好、悪しき衝動」
を自分の中にしっかりと発見し、自覚しつつ
対極を選択する行為にこそ、善が現れる。
そういう善行こそ、
真に、人間らしい価値のある結果をもたらす。
なにより人の痛みを感じ続けることのできるスケールです。
だから安心して、想像力は開放し、血肉に
分け入って実を取りなさい。
願わくば、豊かな実を!

愛するわが子へ
「他者」
常にキミを苛み、
脅かす他者。
あるときは鼓舞し、
高みに昇天させる他者。

実態を持って物理的に介入し、
キミを捻じ曲げる他者。

しかし触れられる他者でなく、
キミに映る他者の姿や認識は実は、
寸分違わぬキミそのものの姿の投影体だ。

見方から切り口
解釈から
求めているもの
不満
怒り
依存
期待
執着までも。

すべてはキミのネガ
キミが捕らわれ年月をかけ育まれた、
我執そのもの。

翻弄されるキミ、
一喜一憂するキミ、
蔑み呪うキミ。

その源泉である他者は、
実はキミの姿を映し出した
鏡。

何故に泣くのか?
何故に笑うのか?
何故に怒るのか?
 
その答えはキミ自身の願いや、
キミ自身を培った育みや、
キミの期待の中にこそ在る。

キミの目に映り感じる世界の姿は実は、
キミ自身そのもの。

だからこそ生涯を通して、
まず熟知すべきは、
キミ自身也。
安心してよいよ、
キミはキミ自身が嫌いな程、
好きだから。


愛するわが子へ
「誕生日おめでとう!世界は自分自身」

外界に世界がひろがる。

広大で、
無限にひろがる宇宙にまでつながる空間。
だから、
そこに基因があると感じ易い。

実は外界ではなく、
ひろがりは自らの内の全てにつながっている。

そこをキミに伝えたい。

そしてそれら全てが在ることを、
感知するなにものか。

それが唯一無二のキミ自身だ。

キミが感じる世界。
キミが見える世界。
キミが触れる世界。

その全ては、
キミが在るゆえの賜物。

だから繰り返し語る。

自己受容から、
自己肯定、
自己解放、
自己開放へ。

それを成すための祈りの結晶。
それが芸術における創作行為の動機である、と。

そこを成すためにも、
筆をもつ自分を丹念に、
精魂こめて耕し、
労わり大切にして欲しい。

宝石と汚物の混在である人間。
そして自己。

そこから掘り起こす真を目指し、
自転車を漕ぐ。

そんなキミの人生と在り方を、父は応援しております。

他人を大切にすると等しく、
それ以上に自分を大切にするように。
まず、自分に立脚するように。

今巷に蔓延するセルフィッシュは実は、
自己を失ったセルフィッシュに過ぎない。
そこを現代が見失っている。
自己を知り、自己を客体化する。
それはヒトを知り、他者理解の前提条件。

愛するわが子よ、
キミの格闘は正しいと父は感じているよ。

愛するわが子よ、
誕生日おめでとう。


愛するわが子へ
「祈り」
祈り
他者には通じずも、
自らを強化するもの。

祈り
最後の最後に残された、
無二の行為。

祈り
無力で、
かつ、最強。

祈り
出し尽くした後に、
残され、
湧きいづるもの。

祈り
広ければひろいほど、
慈愛に包まれるもの。

だから、
成果は期待せず。
遣り残しなきよう、
全てを生かしたあとに、
静かに祈る、

そんな素敵な時がいつしか、
きみたちに訪れますように。

おわりに
「見えなくなったら」

無理をせず、
一度目を閉じてごらん。

大切なこと。
掛け替えのないもの。

例えば、
思い出。
想い。
実感。
達成感。

キミのそれらだけは、
墓までも持っていける。

持っていかない方が良いもの。
虚栄心。
偏見。
見栄。

持っていけないもの。
肩書き。
財産。

囚われすぎると、
不幸になるから、

何事も、
自分を幸せにするツールとしてだけ、
お使いなさい。

さあ、
目を閉じてみようか。

何が見えるかな?

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