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[詩] 消える

この駅を出るともう店がないからもう少し買い足しておこう、と言ってJ氏は売店に寄る。板チョコはエネルギー補給にも使えるし、包み紙の銀紙があとで役に立つからな、ほら五枚買えたぞ、と満足そうに品を受け取る。すぐに山の方へと歩き始める。向こうの橋の袂から沢を登るんだ、と指でさしつつ先を急ぐので慌ててついて行った。

J氏は近所に住んでいる。親子ほど年が離れているものの子どものいないせいか、いろいろなことを教えてくれる。ゲルマンの歴史、中世の音楽、庭の虫や木、日本アルプス、ナイフそして川釣りのことも。大人用の釣竿は使いにくかろう、と短くて軽いものを手に入れてくれた。

今朝、二人で始発電車に乗って渓流釣りにやってきた。
駅から歩いて、すっかり明るくなるころにその橋に着いた。道端で靴を履き替えて身支度をする。川の水は冷たいからな、と何度も注告し、水筒の水を一口づつまわし呑んで、力水だな、と言った。二人分の荷物のほとんどを背負って先に沢をゆく。自分の竿とわずかものだけを持って、遅れないようについてゆく。すべるぞ、深いぞ、大丈夫か、と声をかけられる。頷いてついてゆく。沢には水の流れる音とJ氏の声だけがしている。空の青みがはっきりしてくるころ釣り場についた。初めて行く釣り場だ、と言っていたのに通いなれた場所に案内するようにするりとたどりついた。
手早く準備をして、もう糸を垂れている。見よう見まねで同じことをする。少し目が慣れてくると、流れの早いところと緩やかなところが隣り合っているのがわかるようになった。もう少し流れの緩やかな方へゆけ、と言うように指で合図してくる。それぞれの場所が定まると、二人の竿は別々の動きを始めた。声は要らない。森の音、風の音、水の音。
明るい川面に進み入って、糸を垂れる。流されるとすぐにまた、川上へと竿をもどす。森の音、風の音。あたりは鈍く銀色に焼かれている。光景は動かない。臭いも消えた。竿と糸と見つめる目と天頂からの日の光だけでこの世は成り立っている。もう一度、また一度と竿と糸とに向かい合う。その他の全てをどこかに置いてきたような、釣り人と水のあいだには竿と糸だけが、そして水の音。
行儀良く流れていた水が空気を突如乱して、糸を持ってゆく。竿がしなって上腕に力が走る。脛に水の抵抗を覚える。加速度を増して糸が引かれる。竿の弾力で対抗する。撥ね散らかされる川面の水。乱れた水音が一瞬途切れたとき、川の中から魚が飛びあがってきた。
いい山女魚だ、うまく釣り上げたな、と言いながら針を取り外してくれた。初めて見る美しいまだら模様の魚。両手で握ると強くもがく。尾も頭も野性のままに振りつづける。こいつに歯や牙があったなら、指の一本くらいは食いちぎられていただろう。川に返せ、と全霊で訴えている。こんなに暴れるのは珍しいな、しっかり掴んでおけよ、と言うと、すぐにナイフを取り出して脳天を一刺にした。鋼の刃が魚の頭蓋に切れこむ。一滴の血もなく、骨の割れる微かな感触。両手の中でつよく抗っていた力がすうっと細まる。突然に絶たれた命が溶かれるように消えてしまった。手の中には、とろりと緩んで冷たい魚。山女魚は少し軽くなった。

結局、その日は一匹しか釣れなかった。持ち帰るのも何だから、と板チョコの銀紙に包んで焼いて二人で食べた。美味いな、と声をかけられたようにも思うのだが、銀紙欲しさに急いで食べたチョコレートの味しか、今も憶えていない。

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