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自己紹介します。


占い師の悟亥【さとり】です。


僕は
占い師になる事を心に決め、タロット占い、子平推命(四柱推命)、心理学を学び、現在占い師として活動していますが、その僕の事に付いて少しお話しさせて下さい。

僕は1968年11月に生まれ、現在妻と2人で暮らしています。僕は幼い頃より吃音があり、常に苦しみと共に生活をしてきました。

何気ない会話の一つ一つに苦しみがあり、そしてそれ故の諦めもありました。
「どうせ吃音のせいで無理、どうせ、恥をかくだけ、、」だから、何事も諦め、何事も望みませんでした。

でも、それを人には決して見せませんでした。自分の本当の心だけは人には決して見せませんでした。

苦しいのを隠して、気づかれないように笑い、日々をただ過ごしていました。だから僕は、苦しみを隠し笑う事が、とても、とても自然に出来るようになっていました。


「現実はこんなもんだから、我慢して生きていこう、仕方がないんだから、、、」そう思っていました。

そしてそんな生きる事がつまらなかった僕は、仕事も全然続きませんでした。

全てを諦めて、仕事にも当然夢なんか持って無くて、仕事を熱く語る奴にイラついてさえいました。


「ムカついていました、、」


その頃の僕は、生きて行く為だけに仕事をしていて、ただ早く時間が過ぎる事だけを考え、他には何も考えませんでした。
「残りの人生余生、、」「現状キープ、、」よくその言葉を友達に言って笑われたのを今でもはっきり覚えてます。


そんな時、、父親が仕事中の事故である日突然亡くなりました。

父親の事故の知らせを聞いて、「病院に向かう時の車の中のあの時間」「病院で初めて見た父親のあの姿」僕は一生忘れる事はありません。

どこか他人事のような、 まったく現実感の無いあの感じを僕は一生忘れません。そして後から襲って来た虚無感と不安あの痛み、僕は忘れません。

それからそれが「転機となり」「きっかけとなり」僕は結婚しました。自分が吃音で悩んでいる事も、心の虚無感も妻に隠して僕は結婚しました。

もちろん結婚した後も吃音の苦しみは誰にも言いませんでした。
親友にすら、妻にすら、1度たりとも言いませんでした。

ちなみに僕は、吃音の事を相談しようと思った事は1度もありません。人に助けを求めようと思った事は1度も無く。
人が助けてくれると思った事も1度たりとてありませんでした。

親にも兄弟にも友達にも妻にも、この苦しみは一生隠して僕だけの苦しみとしてこれから先もずっと1人で抱えていこうと思ってました。


そんな中、僕の結婚生活も悩みの連続でした。
いろいろな事で悩み、そして諦め、僕達夫婦の生活は続いて行きました。

そしてそんな生活の中で、今度は母が、認知症になりました。
繰り返される介護の日々、それは今思い出してもとてもとても苦しいものでした。

僕の体は疲れ果て、心が悲鳴をあげて心の内側から張り裂けそうになっていました。

少し話を戻しますが、僕は父親とも母親とも仲良くはありませんでした。いや、もっと言うと、祖父とも祖母とも全然仲良くありません。

いつも心は一人ぼっちでした。

よその家族で見かけるような頭を撫でて貰うような記憶もあまりありません。
いや全然ありません。でもいつも笑いながら、おどけながら、寂しく過ごしていたのを 今でもはっきりと覚えています。

唯一、母側の祖父だけには可愛がって貰いましたが、家ではいつも心が満たされなかったのを覚えてます。そして幼い頃の僕は自分の家で、ご飯すら食べていませんでした。

父の会社の友人のお宅でご飯を食べていました。それが何故なのか、まったく思い出せませんが。

ただ今思う事は、その頃から苦しかったんだと思います。
僕の居場所は家には無かったのだと思います。

その苦しみの結果が僕の吃音だと僕は思っています。
僕の心の傷が、心のトラウマが吃音となって現れているのだと思います。


話が少し前後してしまいましたが僕の父親は典型的なよく働く昭和の人で、今の時代の仲の良い親子関係、友達のような関係とは程遠いものでした。


その頃の僕はいつも愛される事に飢えて、気持ちを確かめなければ不安で仕方がない、いつも何かに怯える、そんな子供でした。


何時頃かは、はっきりとは覚えていませんが、父が僕に喋りかけているカセットテープが見つかりました。
そのテープの中の父はとても優しく、そしていろんな事を僕に教えてくれていました。
僕はそのテープがお気に入りで、そのテープを何回も何回も聞いていました。

そのテープが擦り切れる位に。

そして母は僕が幼い時からあまり笑わない人でした。

笑わないというか、怒りもしないので、あまり感情がない人だと思っていました。

宇宙人のようだとさえ思っていました。しかし、母が認知症になって初めてそれは違うと分かりました。母は感情が無いのではなくて、母は我慢していたんだという事が初めて分かりました。

僕達家族は父の職場の社宅で暮らしていましたが、そこで人付き合いが苦手な母はずっと耐えていたんだと思います。

自分の感情を殺して、ずっとその環境で耐えていたんだと思います。

だから笑わない、だから怒らない。

その母が、認知症になって一時的とはいえ、凄く笑うようになりました。
これは後から気がついた事ですが、元々の性格が解放されたようでした。

いつも感動して、いつも僕達に感謝して、いつも僕達に謝っていました。


そして母はその笑顔も忘れ、体も動かなくなり、口から食事も出来なくなり、意思疎通も出来なくなっていきました。

その後施設に入所することになり、 僕も毎週母に会いに行く ようになりました。

そして僕は母に会いに行く度に母の声が聞こえる気がしていました。

「あんたはやれる頑張れ、あんたはやれる頑張れ」そう僕の耳には聞こえる気がしました。


毎回、母が僕に力をくれている、そう思っていました。

でもそんな母も今、その苦しかった、その辛かった、その耐え抜いた人生を終え、今は安らかに、安らかに眠っています。

そして僕はそんな母の死に涙が止まりませんでした。夜眠っていても涙が流れてきました。

僕には思い出すものがあります。
それは火葬場で見た、母の喉仏です。

一心に拝むような、両手を合わせているような、そんな喉仏。


僕にはそれが、僕に対する祈りのように思いました。
僕の未来の幸せを願う祈りのように思いました。


母が認知症になるまで、母の感情に気づかず、そしてその気持ちを見ようとしなかったそんな僕ですが、本当に遠い記憶が蘇りました。
幼い日に吃音を患う僕の手を引き片道1時間以上もかけて言葉の学校に通いそしてお地蔵様に祈りを捧げる母の姿を思い出しました。


ようやく僕は思い出しました。
昔からずっと昔から僕は守られ、そして愛されていた事に僕はやっと気づきました。

幼い僕に向けられる祖母の冷たい視線、そこから守ってくれる母の温かい視線、ようやく僕は思い出しました。

そして毎回僕は母に謝っています。
今まで分かってあげられなくて御免、分からなくて御免って、毎回、毎回謝っています。

そして毎日仏壇に手を合わせ、そして毎日「これからは安心して見ていてくれ、安心して」っていつも語りかけています。


母にも、そして父にも、いつも語りかけています。


僕にはこれ以外にもいろんな事がありました。
生死に関わるような大事故も起こしました。

自然災害も2度経験して、家も半壊。
これでもか、、これでもかと言う位に。


でもその時、その苦しみの中で僕の心に、何かスイッチが入ったのをハッキリと感じました。


それを悲劇と、それを仕方がない、諦めるしかないと思わない自分がそこにいました。僕のスイッチは完全に切り替わっていました。はっきりとスイッチの切り替えが聞こえる位に。


僕はもう絶対に諦めないし、仕方が無いとも二度と思わない。まして自分を卑下などしない自分になっていました。


「吃音のある自分を可哀想だとも思わない」自分がそこにいました。

今までの苦しみが、、今までの心の痛みが。
吃音が、父が、母が、そして妻が、僕を助け僕を鍛えあげてくれていました。

だから、
自分から逃げる事、人生から逃げる事を僕はやめました。

二度と僕は逃げません。
自分を輝かす事を探して、もう二度と僕は自分を諦めない。


そして僕は今、占い師として活動しています。
吃音があって傷つきやすいですが占い師として活動しています。


そしていつの日か吃音で苦しむ人達を、繊細な感覚に傷ついている人達を、助ける事が出来る人になりたいと願い、あなたに手を差し伸べたいと思っています。

だから、あなたに伝えます。

自分のままで生きていける場所は自分で整える。
もう十分苦しみを経験したのだから、それを一歩踏み出す為の力に変えて欲しい。

と僕は心から思います。


「将来の自分が心豊かに暮らしていけるように、今をそして未来を、楽しんで生きていく為に」

そのあなたのお力になれる事を僕は願っています。


これまで、あなたの大切な時間を使って頂き長文をお読み下さり本当にありがとうございました。 そしてこの出会いに心から感謝します。





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