コロナで就職浪人した音楽大学卒業生がとりあえずやっていること

ドイツの音大を卒業したのが2年前のことだった。思えば色々あった。専門はバイオリン演奏だったので、ライバルとの関係も難しかったし、人間関係はぎすぎすしていた。作曲も専攻していた。寄せ集めオーケストラで仕事をしたり音楽学校の手伝いをしたりしながら。コロナで正社員として働けるのはもう少し先になるだろうか。そんななか音楽大学から総合大学にうつり、とりあえず、ボン大学院なるところで音楽研究なるものをしている。

研究分野はというと日本の音楽研究。作曲ではなく、音楽研究である理由は「自分では現代音楽を作りたくない」から。

音楽には大きく分けて2種類ある。「ドレミファソラシド」の世界で作った「調性音楽」と、そうでない「無調音楽」だ。調性音楽は今まで散々作られてきた。ここにも昔ベートーベンという人が通ってて、当時から調性音楽を結構作ってた。だから、もう調性音楽は必要ない、というわけだ。

ドレミファソラシドでないならいったいどんな音楽なのか?例えば、横にある机を軽く叩いてみる。この音も一つの音楽だ。何の音程はないし、何の意味があるのか分からないけど。

なにそんな屁理屈言っているんだと思うかもしれないが、音楽は音楽に変わりはない。そんなことをちょっと哲学的に主張していたある音楽家がいた。アメリカのジョン・ケージという作曲家だ。

話は変わって今は便利な世の中になった。YouTubeをつければ今流行りの音楽が流れてくるし、聴いていると何かいい音楽に聞こえてくる。しかし、そもそも私たちは何をもっていい音楽だと感じているんだろうか?街中で頻繁に流れてくる音楽がいい音楽なのだろうか?

ケージという作曲家はそういう「人間が音に対して何かしらの判断をする」こと、小難しく言うと「便利な世の中に慣れ切った人が音楽を一方的に価値判断する」ことに文句を言っていたおじさんだった。ケージだけではない。実はアメリカだけでなく、日本にも、あるいは中国にも、そういう「気難しい人たち」が沢山いた。今の俺のような。

そういう「今の若者は~」的な感じで、便利な近代社会を批判する人たちの考え方をポストモダン(ポスト近代)といった。

コロナが収束し、めでたく就職できるまで何年かかるだろうか。それまでの間、修士論文なるものを書いているけど、ポストモダンの気難しいおじさん作曲家たちについて書いているところ。うんうん、なかなか立派なおじさんたちが多く、俺も書きがいがあるなぁと。

そんな話を少しずつ書いていきたい。

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