サティとコクトーのこと

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サティとコクトーの関わりが記された本「サティとコクトー 理解の誤解」オルネラ・ヴォルタ編著を読んだ。最初のほうに書かれている2人の出会い、出来事をざっくりまとめてみる。

サティとジャン・コクトーが出会ったのは1915年の4月(コクトー談)。
しかし、画家のヴァランティーヌ・ユゴーによると、それは1915年10月18日のことで、彼女のもとで2人は初めて会ったという。サティが49歳、コクトーが26歳くらい。

1916年4月18日の出会いで2人の間に交友関係が結ばれる。ヴァランティーヌはコクトーを「エリックサティ=モーリスラヴェル」演奏会に連れていった。戦争によって収入源を絶たれた芸術家たちを助けるための慈善演奏会が開かれていた。

バレエ「パラード」は詩人コクトーの原作にサティが作曲。舞台美術と衣装をピカソが手掛けた作品。1917年5月18日にロシアバレエ団によってシャトレ座で初演された。
しかし、戦時下のもと、前線で兵士達が命がけで守っている祖国の伝統的な価値観を破壊するものとして受け取られた。原因は、
・オーケストラに持ち込まれたレミング製(アメリカ)のタイプライター
・内に隠れた2人のダンサーによって動かされるフラテリーニ(イタリア系のサーカス一家)
・混凝紙(こんくりがみ)で作られた3mの舞台装置に見られる作品の革新性
(混凝はコンクリートの意味)

作曲家くずれの評論家、ジャン・プエグはピカソに加え、コクトーとサティも「愚かで平凡で無能な連中」と酷評した。

「パラード」初演時、プエグはその音楽をほめていたが、紙面では手のひらを返されたかのような記事を書かれたため、サティは罵る内容の葉書を送った。プエグは葉書に書かれたことを口実に、サティを告訴した。

1917年7月12日、サティは有罪判決を言い渡された。
コクトーは論争にほとんど興味を示していなかった。

だが実際、コクトーはサティのために法廷で証言をしただけでなく、モンパルナス中の人々を味方につけ、判決を再審理するように働きかけた。

1917年の終わり、コクトーの母親の尽力とミシア(司法大臣に請願してくれた人物)の絶大なる協力により、サティが被った罪責は、「今後5年間の品行方正と、懲役刑を受けないこと」を条件に帳消しにされた。

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