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バー開業顛末記②「トーク・ライフ・バランス」

前回の「開業顛末記①」を読んで、こんな疑問をもたれた方もいらっしゃるかもしれない。

・そんなに友人に会いたい?
・開業資金はどうすんの?
・いやいや素人がそんな動機でやれるほど飲食店は甘くない
・つか、本業の仕事はどないすんねん?


まったくその通りで。
ボクもいろいろ悩み、考えた。

62歳という年齢と体力。
大きめの負債を抱える身(次回以降にて)。
まったく未経験の飲食業。

仕事面でも、取締役会長としてメンバーたちと夢を共有している大切な会社「ファンベースカンパニー」がひとつ。それ以外に個人会社が2つ。
また、一般社団法人の代表を3つ、コミュニティ主宰を2つ、客員教授をひとつ。講演業やコーチ業、執筆業もコツコツやっている(今年は本を数冊書く予定)。

しかも「会いに行けないから、会いに来て」という趣旨からして「ボクがカウンターの対面に立つこと」が必須となる。会って話すことが目的だからね。

そうなると、バーのために誰かを雇う、という発想はなくなる。
ボクが立って、ボクがやる。
そして来てくれた人と話せる範囲の小さな店、つまりは「ワンオペ」な店になるだろう(資金的にも人を雇う余裕はないだろう)。

いろいろ考えるといろいろ大変だ。
カラダが持つのか心配になるレベル。
そこまでして「友人と会う」ということをやるべきなのか。
そんなに必要なことなのか。


まぁまぁ時間をかけて考えた。
親友にも何度も相談した。
そして「必要だ」と、最終的に思った。


理由は大きく3つ。

ひとつは前回に書いたこと。
食や旅を失った上に友人まで疎遠になっていくこの人生、いまのうちになんとか手を打たないと完全に「引きこもり」になってしまう。

外食や旅が「苦痛」だと、外に出る理由が極端に経る。
友人と会う理由も機会もほぼなくなる。

※ 一度ゴルフを再開してみたが、ランチのレストランで食べられるものがなく、悲しくなって挫折した。

とはいえ数人は会える親友がいるし、正直、配信やゲームが充実している今、それなりに楽しく引きこもれるとは思う。もとより孤独好きのひとり上手だ。
でも、人生100年、あと40年くらいあるとして、ずっとそれだけで生きてくつもりなのか?

「それは無理だ」というのがボクの結論だった。
いろいろ大変かもしれないけど、なかば自己強制的に「いろんな友人と会う」ということをしたほうがいい。

ここで土俵を割るとずるずると死ぬまで引きこもるだろうし、引きこもるには長すぎる持ち時間だ。



ふたつめは「友人と会って話すことは人生の幸せに直結するらしい」と知ったこと。

半年前にnoteにも書いたが、ハーバードにおける84年間に渡る研究で「幸せな人生を送るたったひとつの原則は『よい人間関係』に尽きる」という科学的な研究結果が出ているのである。


では、「よい人間関係」を形作るものとは何なのか。
ボクは「会って話すこと」がとても重要だ、と思ってる。

LINEやSNSやZOOMで頻繁に連絡をとることでも「よい人間関係」は作れる、と思う人もいるかもしれない。オンライン・コミュニティのつながりが良い関係性を生むことも実際にたくさんあると(自分で運営していて)思う。

ただ、コロナ禍の「STAY HOME」でわかったことは、そういう「電子な人間関係だけ」だと意外と脆い関係になりがちだ、ということ。少なくともボクはそう実感した。

もちろんLINEやSNSやZOOMがなければもっと疎遠になっていただろう。オンライン・コミュニティのつながりがコロナ禍の助けになった方もたくさんいると思う。

でもそれらは「交流」ではあっても「共通の体験」にはなりにくい。
リアルで会うことに比べて、関係が深くはなりにくい。

リアルで会って、同じ空気を吸って、五感で相手を感じること。
要件や目的がある会話だけでなく、しょーもない世間話も含めていろいろな雑談をゆっくり交わすこと。

そういう「共通体験」が「よい人間関係」にはとても重要だと、ボクはコロナ禍のリモート生活を経て強く感じていた。

つまり、「友人と会って話すこと」は「幸せな人生」を送るためのとても大切な鍵なのだ。



みっつめは、ちょっと大きな話になるが、ここ数年で一気に突入するであろうAI時代において、「人と会って話すこと」がとても重要な価値を持つようになる、と思うから。

くわしい論はそのうち別記事で展開したいと思うが、耳元のイヤホンに常駐する「親友AI」と頻繁に話すようになる未来が数年後には来るだろう(ビル・ゲイツは5年後と予測している)。

その気持ちよさ・快適さは想像するまでもない。
自分の嗜好や思考を理解した賢い親友が常に耳元にいて、話したいときだけ呼び出して、親しく語りあえるのである。

そうなった時、人は他者と会うことを(それが友人や家族であったとしても)少しずつ面倒に思うようになり、会う頻度も少しずつ減っていくのではないか。

※ AIと親しげに語り合う現在地として、Cotomoを体験してみることをオススメする。この延長線上に未来の親友AIがいると思う。



他者はとにかく面倒だ。
わかり合えないことが前提で、少しずつコミュニケーションを重ねて相手を理解していかないといけない。会うにしても相手にも都合や予定があり、こちらの都合だけでは呼び出せない。親友AIが耳元に常駐する時代、たぶんそれはとても面倒なことになるだろう。

AIとばかり話している未来は快適そうではあるが、そこに「他者」という「違う意見や価値観をもつ存在」が入ってこなくなると、嗜好も思考もタコツボ化していくことも想像に難くない。

で。
62年の人生を振り返って心底思うんだけど。

あのときあの友人と出会ってなかったら始めなかったこと・やらなかったこと・読まなかった本・進まなかった道なんかがやたらたくさんあるのである。

人生のすべての局面で、友人や家族や仕事仲間という「面倒な他者」が「違う意見や価値観」を「感情」をもって話してくれて、手を差し伸べてくれた。

ボクの「人生の幅」は、すべてそれら他者からの「手の差し伸べ」のおかげだったと振り返って実感している。

たぶん親友AIにその役目は担えない。
単なる賢い話し相手であるだけで、感情を持って手を差し伸べるなんてこと、してくれないからね。

そして、「会って話す」と、ボクも相手に手を差し伸べることができる。
与えてもらうだけの親友AIと、そこも大きく違う。
ボクが友人の助けになることができる。
きっとそれはAI時代に大切な、ある種の「生きがい」のひとつにもなっていくのではないだろうか。


ちょっと話が壮大になってまとまりが悪くなってしまったが、こんな感じで自分の中が少しずつ固まっていった。

うん、いろんなハードルはあるけど、やっぱり「友人と会って話す」ということはボクのこれからの人生においてとても重要なことだ。厄介なアレルギーに苦しんでいる今、最優先に取り組んでもいいことだ。

アレルギーのせいで激減してしまっている「友人と会って話す」という要素を、もっともっと自分の人生の中に増やしていかないといけない。

ワーク・ライフ・バランスならぬ『トーク・ライフ・バランス』。

ライフの中に、トークの要素をもっともっと増やすために、いろいろ大変かもしれないけど、「外に出られないボクが友人に会いに来てもらって話せる場所」、つまりは「バー的な場所」を作ったほうがいいだろう。

そう結論づけたのでした。

まあ、いざバーを開いても、誰も会いに来てくれないかもしれないけどねw

それはそれでまた別のお話。


(続く)

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