「大変さ」は人と比べるものではない
数日前、ボクは「鮨職人引退します。【昨日の「ふつう」が今日の「ふつう」にならない時の過ごし方】」という note を読んでちょっと震え、それに感化されて以下の note を書いた。
この note に対して、その方が返歌をくれた。
この中の一文。
別にボクをポジに書いてくれているからピックアップしたのではなく、これを読んで「あー、えーと、なんだっけなぁ」って何かが記憶に引っかかった。
公表ブログを書いて、僕はさとなおさんに怒られてもおかしくないなと思ってた。
拒否されて「おめーに俺の苦しみなんてわかんねーよ」「俺とお前は違うんだから」「おまえ、症状軽いから、そんなん、言えんねん」と思われて、拒絶されても仕方ないと思いながら、公開ボタンを押した。
でも、そうはならず、さとなおさんのしなやかさのおかげで、こうして受け入れてもらい、まじでほっとしているし、うれしいです。
「受け入れて」というのは、さとなおさんが、納得や理解をしてくれたということではなくて。納得や理解をしてもしなくても、自分とは違う考えの人を尊敬してくれているということが、めちゃくちゃ感動しました。
思わず「走馬灯モード」になって頭の中をソートした。
「アニサキス・アレルギーになってからの日々」を頭の中で何度か再生してみた。
以前のボクだったら、彼の note に対してそう感じた可能性がある。
2年近く経って、未だにうまくこの状況とつきあえていないイライラも相まって、「おめーに俺の苦しみなんてわかんねーよ」「俺とお前は違うんだから」「おまえ、症状軽いから、そんなん、言えんねん」って思ったかもしれない。
でも、いまはそういう感じはまったくない。
それはなんでだったっけ。
なにか「分岐点」があったはずなんだ。
えーと、なんだっけなぁ・・・。
で、あっさり見つかった。
そうだった。
乙武さんだった。
あの、五体不満足な乙武洋匡さんだ。
それはアニサキス・アレルギーになって約半年後のこと。
ボクはこんな投稿を facebook にした。
たまに本当につらくなり、こんな風に吐き出さざるを得なくなる。
そうしたら、乙武さんがメッセージ(DM)をくれたのだ。
彼の友人も魚介アレルギーで苦しんでいる、ということを教えてくれた。
そして、そのメッセージはこう結ばれていた。
いや、だから何だってわけでもないんです。何の慰めにもならないのもわかってます。
でも、なんというか、メッセージしたくなっちゃいました。
かえって不快な思いをさせてしまってたらごめんなさい。
ボクはとても恐縮した。
だって、乙武さんの不自由さに比べたら、ボクの不自由さなんてとんでもなく小さい範囲だ。
生まれながらに出来ない、のと、得意分野が途中から出来なくなった、というのはまた苦しさが違うけど、それにしても、乙武さんから慰められるのはなんかレベルが違う。
そう思って、「なんだかお恥ずかしい」という意味の恐縮のメールを出したら、こういう言葉が返ってきたのである。
いえいえ、「大変さ」は人と比べるものではないので、さとなおさんの「大変さ」はやっぱりさとなおさんにしかわからないものだと思っています。
でも、正しくはわからなくても、わかろうとしてくれる人がいたりすると、少しは気が紛れたりすることもあるかもしれないと思い、不躾なメッセージをお送りしてしまいました。
こころ穏やかな日々が過ごせるよう、お祈りしています。
お忙しいだろうに、どんだけ素晴らしい人なんだ、ということはとりあえず置いておいて。
この言葉が「分岐点」だったのだなぁ、と思う。
「大変さ」は人と比べるものではない。
なるほど、そうだよなぁ・・・。
というか、あれ? オレ、「大変さ」に優劣をつけてた?
たとえば、乙武さんに比べて、自分の「大変さ」を計ってた。
だから恐縮した。
「大変さ」では自分は劣っている、と思ったわけだ。
きっと同じようにヒトにもやってたんだ。
自分の「大変さ」と比較して、ヒトの大変さに優劣をつけ、「でもボクより大変じゃないじゃん?」とかってヒトを見ていたんだろう。
それは同病に限らない。
たとえばfacebookやtwitter上で、子育てのつらさを吐き出しているヒトがいるとする。
それを「でもまぁボクよりつらくはないよね」とか思ってしまうみたいなこと。
そして、自分より明らかにつらいであろうヒトには恐縮し、低頭する。
・・・最低やなw
というか、やばかった。
こういう幼稚さのまま老人になっていき、出来ないこと・不自由なことが増えて行ったなら、若者にいちいち「老いるともっと大変やで」「そんな大変さ、たいしたことないで」とか絡むような、とんでもない老害になるところだったw
・・・えっと、何の話をしていたんだっけな。
そう、りょうすけさんの note の話。
つまり、ボクは乙武さんに種を植えてもらい、それ以来意識して訓練もし、なんとか「フラット」になれてきた気がする(まだまだ途上)。
「大変さ」は人と比べるものではない。
「大変さ」は人それぞれだ。
だから、アニサキス・アレルギーの先輩面もしないし、年齢が上だからってマウントも取らない。自分の「大変さ」とも比べない。
りょうすけさんの「大変さ」は、りょうすけさんにしかわからない。
ボクと比べるものでもない。
そして、ボクはりょうすけさんの対処法と心のありようを「すげーなー」ってリスペクトし、学ばしていただいた、ということです。
うまく自分に当てはめられるかは別にして。
(でも、なんか「今日の自分は、これで完璧な自分だ」という考え方は、自分的にはすごくしっくり来たので、自分に当てはめられそうな気もします。ありがとうございます)。
そういえば。
書いていて気がついたけど、昔、阪神大震災で被災したとき、同じようなことを強く感じた。noteにも残している。
結局、災害とはごく個人的な体験なのだ。
他人とわかり合うふりは出来ても、結局自分だけの体験なのだ。
あー、そうか、あのとき感じた「個人的な体験だ」という感覚と、乙武さんの言葉とかりょうすけさんの言葉とかがボクの中でつながっていたのか。
道理で違和感ないはずだ。
ちょっとそう思った。
まぁ、アニサキス・アレルギーも災害の一種みたいなものだしね。
古めの喫茶店(ただし禁煙)で文章を書くのが好きです。いただいたサポートは美味しいコーヒー代に使わせていただき、ゆっくりと文章を練りたいと思います。ありがとうございます。