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聖霊の意見を訊くということ

(以下の記事は、旧ブログ「ひかりのはな」の過去記事からの転載です。→ 元記事

先日、台所に立って調理するあいだ、これを聴いていた。


このなかで、故ケン・ワプニク博士の生徒だった女性が質問をしている。(131:15〜)

その内容とは、要約すると、

ケンから、コースのイエスは聖書のイエスとは別人だ、と教わっていたために、自分が持っていた聖霊のイエスとコースのイエスの違いという分離が、今回の映画鑑賞(Jesus from Nazareth という、6時間超のテレビ映画をコミュニティでダイジェスト化したもの)のデイヴィッドのコメンタリーを聞いたことで仲裁されたように感じる。

私が、ケンの言わんとするところをきちんと理解できていなかったのかもしれないが、デイヴィッドの意見を聞いてみたい。

というもの。

ワプニク先生が、くだんの発言をするのを、私も確かにどこかで読んだか観たかした覚えがあるので、この質問には興味を引かれた。

対するデイヴィッドの答えの要約。(133:10〜)

僕もケンの講義をたくさん聴講したけど、彼と出会った頃には、僕にはイエスの声がはっきりと聞き取れるようになっていたので、ケンの講義を聴きながら、それに対してイエスがコメンタリーを加えるのを聴くことができて、とても役に立ったんだよ。

イエスはケンの授業において、「ここは大事なポイントだね」「ここも良いね」とか言っていたけど、ただし(上記の発言については)「聖書のイエスとコースのイエスなどという違いはなく、私はひとりいるだけだ。その違いは、ケンの投影にすぎない」と言っていた。

その上で、デイヴィッドは、あるとき妹(お姉さんかな?)から、「教会からあなたに講演をしてほしいと依頼が来てるわよ」と言われたときの話をしている。

それまでも、僕はユニティ教会やクリスチャン・サイエンスなど(どちらも伝統的というより、オープンな教会)で講演したことはあったけど、「ほんと? 教会って、このシンシナティ(彼の故郷)で?」と訊くと、なんと自分が洗礼を受け、育った教会だという。

僕は「イエスったら、本気ですか? それがあなたが僕を通してしたいことなの? それならいいですよ、楽しんでください!」と答えて、確かにイエスは楽しんだよ。
でも、スピリットが喜びとともに語るのを許すために、僕はいろんなものを(心のなかで)手放さなきゃならなかった。
キリスト教、父や母、妹、さまざまな思い出…。

そうして僕は、自分が育った、まさにその教会で、講演をしたんだけど、聴衆のなかで妹は泣いていたし、母の顔には不信感が浮かんでいるのを見たよ。

でもあるとき、すべてが止まったように静まり、誰もが口をつぐんだまま静寂が続いた。
そしてついに、ひとりの老婦人が口を開いて言ったんだ。「いま、私たちに語りかけているのは誰なの?」って。

僕はそのとき、とても喜びに満たされた気持ちでいたんだけど、その問いに対して、それはイエスだ、とか、聖霊だ、とか、はたまたイザヤだ、なんて名前を当てはめて答える必要を感じなかった。

すると、僕の生物学的な父親(神、という意味での「父」と区別するために、デイヴィッドはこの「生物学的な」という言葉をよく使う)が、彼の妻や彼の娘、彼の会衆の目の前で、こう言ったんだ。
「イエスだよ。いま、私たちに語りかけておられるのは、イエスだ」って。

そのとき僕は自分の内側で、「これこそが世界の終わりだ」という声を聞いた。

でもこの体験をするために僕は、キリスト教(という概念)を手放さなきゃならなかったし、父や母や妹(という概念)を手放さなきゃならなかった。

詳しくは、英語のできる方はぜひ直接の音源に触れてみてほしい(該当箇所は、引用文の前に始まる分数が書いてあります)。

この話を聞いて思ったことは、ほんとうに私たちは、「自分は何も知らない、わかっていない」というスタンスを貫くのがとても大事で、かたちの上でコースの教師から学ぶ概念についても、いちいち、鵜呑みにするのではなく聖霊とともに聴かなくてはならない、ということだった。

蛇足ではあるが、ここで私が書きたかったのは、「(コースの権威である)ケン・ワプニクが言ったからといってそれが必ずしも正しいとは限らない」ということではあるが、「デイヴィッドのほうが優れた教師だから、両者の意見が食い違うとき、ケンよりもデイヴィッドの意見のほうが正しい」ということではない。

そうではなくて、あくまでも、先入観なしで聖霊とともに聴かなくてはならない、「ケンが(またはデイヴィッドが)こう説明しているけど、このことについてあなた(聖霊)の意見を聞きたい」というスタンスがなければならない、と思った、ということだ。

もし教師が確かに聖霊の意見を代弁しており、なおかつ私がそれを自我に曲解させずに、きちんと聖霊とともに聞いて理解するなら、そのとき、私の心のなかには、誰に対するジャッジメントも起こらないはずだ、ということ。

反対に、何らかの「釈然としない感じ」や「誰かを責めたり、何かを批判したい気持ち」が心に湧くとすれば、私が聖霊の解釈を聞き取らなかったことは明白だということ。

これまでにも、私はデイヴィッドが、
「聖書の解釈を批判することには意味がない。
アビラのテレサも、マイスター・エックハルトも、マザーテレサも、コースは持っていなかった。聖書しか持っていなかったが、同じ道を歩いた。聖書から同じ体験に至ることは可能だよ」
と説くのを、何度も聞いた。

あるとき、デイヴィッドがした何かの説明に対し、参加者から、
「でも、ケン・ワプニクは、こう言っています。それについては、どう思われますか」
という質問が出たことがある。

(私の記憶が確かならそれは、デイヴィッドが、コースを真に生きるなら、あなたはこの世界の考える「ふつう」からは外れた生き方をすることになるだろう、という意味の発言をしたことに対し、「ワプニク博士は、ふつうでありなさい、と言っています」という反論だった。)

そのときのデイヴィッドの答えは、こうだった。

「ケンが何と言ったかは、忘れなさい。
デイヴィッドが何と言ったかも、忘れなさい。
『この世界を忘れ、このコースを忘れ、両手をまったく空にして、あなたの神のもとに来なさい』(レッスン189からの引用)」

それは、こういう意味ではないだろうか。

「静かになり、内側へと向かい、あなた自身で聖霊に聞いてごらん。」

🕊💕


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