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Choose Once Again / フランシス•シュー

(この記事は、旧ブログ「ひかりのはな」からの転載です。→ 元記事

今日ご紹介するのは、フランシスのWebサイトに掲載されている記事の翻訳です。
(日本語訳を公開することについては、フランシスの了解を得ています。)

原文は、こちら。
https://frances.i-am-one.net/2019/10/27/choose-once-again/

そもそも、どうしてこれを訳したいと思ったかというと、YouTubeで同題のインタビュー動画を視聴したからです。

お友だちのコリンさんが、この記事の一部を読み上げて、このエピソードに感銘を受けたので、これについて話してほしい、と頼み、フランシスが、彼女のスピリチュアル・パスにおいて、大きな転機となったこのエピソードについて話しています。

英語の聞き取れる方は、ぜひこちらのインタビューもご覧になってください。

これを見て、私は、ああ、そういうことだったのか、と思いました。

というのも、これまで、YouTubeやspreakerの彼女の話を聞きながら、彼女の確信ぶりは、どこから来ているのだろう?と思い続けてきたのです。

彼女の数々のトークを聞いていると、何かの決定的な体験をしたのでなければ、ここまで言い切ることはできないはず、という表現をすることがしばしばあり、けれどもその「決定的体験」らしきエピソードは、いままで私が聞いた話のなかには出てきていない、と感じていました。

この動画を見て、記事を読み、「あ、これが、その決定的体験だ」と感じたのです。

では、お楽しみください💗

⭐️   ⭐️   ⭐️

もう一度、選び直しなさい

by フランシス・シュー

[ミラクルズ・ワーカー・マガジン143号に寄稿された記事より]

愛は選択だ。生命は選択だ。暗闇は選択だ。天国か地獄かは、選択でしかない。それが福音というものだ。
天国は、今ここに、心のうちにあり、手の届くものだし、これまでもずっとそうであり続けてきた。
心が、今この瞬間に平安を選ぶ力がそれ自身にはある、と悟ったときに訪れる自由が、あなたには想像できるだろうか。
この気づきは、すべての苦しみと、この世界についてのすべての信念から、心を解放することができる。

イエスは、奇跡講座のなかでこう言っている。
「未来の幸せで満足してはならない。それには何の意味もなく、それはあなたへの正当な報酬でもない。なぜなら、あなたは、自由の原因をもっているからである。」T-26.VIII.9:1-3
イエスが約束しているのは、自由は、手にすることができる、ということだ。
みじめさや苦しみの度合いに関わらず、心はただ歓びと平安だけが感じられるところまで、持ち上げられることが可能なのだ。

子どもの頃から、私は拒絶の信念や、見捨てられることについての信念に悩まされていた。
こうした信念は、即座に私をひっかけて自我へと、そして苦しみへと連れてゆく、「釣り針」のようだった。
しばらくのあいだ、私はいい気分で人生を進むのだが、そのうち誰かが、または何かが、私のそうした信念を呼び起こす瞬間がやってくるのだった。
苦痛を最小限に抑えようと、私は自分の周りに壁を築く方法を学んだけれど、やがて、傷を癒し、あらゆる苦しみを永遠に終わらせたいというより深い欲求が、私の内側から湧き上がった。
そのとき私は、そんなことが果たして可能なのだろうかと疑問に思ったものだ。
「それって、目指すにはあまりに高すぎるゴールじゃないかしら?」

奇跡講座のワークブック・レッスン121のなかでイエスは、赦しは安全へと至る道であり、すべての問題に対する答えであり、すべての不確かさの終わりである、と言っている。
そこには希望があるが、とは言え、どうやったら私たちはそれを、すべての疑念を終わらせるような体験へと至らしめることができるのだろう?

私がコースとともに癒しの旅を始めると、拒絶や見捨てられることについての古い自我の信念は、何度も浮上してきた。
私は自分の思考を徹底的に調べ、自分の自我のパターンについての洞察を得て、こうした信念に向き合い癒すための戦略を練り上げた。
それまでに得てきたすばらしい洞察の数々を思えば、私は自分が、完全に癒されるまで、もうすぐ、というところにいると思っていた。
けれども、まったく驚いたことに、信念と感情にふたたび襲われたとき、そうした洞察は役に立たなかったのだ。
私はいつも通りに無力で、いまだに、か弱い被害者であるかのようにーー愛されず、虐げられていると感じていた。
しかも今となっては、ただ被害者だというだけではない。どれほどの知的な理解も洞察も、自分の信念を破り自由になるための役には立たないのだという気づきに、完膚なきまでに打ちのめされた被害者だった。

ある日、私はまたしても、同じ自我の思考が心のなかをぐるぐると回り続けるという、強烈な体験の真っ只中にいた。
私の心のなかには、自分は拒絶されていて愛には値しない、ということを示すあらゆる証拠が、ふたたび並んでいた。
すると、その怒りと痛みのさなか、ある思考が浮かんだのだ。
「今こそ、ちがうやり方を試すチャンスだわ!後回しにして待ったりせず、今すぐに、まさにこの場で、自分を暗闇から引き抜かなくては」
心のどこかで、私は知っていたのだ。苦痛を真に癒すためには、その苦痛を超えて上昇することを選択しなくてはならないのだと。
それが私にとっての決定的な瞬間だった。
この選択は、かんたんに達成できるものではなかった。
30分ほどのあいだ私は熟考し、自分が失うものなどないのだし、それに一度でいいから、ほんとうに限界を打破するとはどんなものなのか、知る経験をしてみてもいいはずだ、と考えて、自分を励まそうと努めた。
もちろん、その後いつでも、苦痛に戻ってくる選択をすることはできるのだから!と考えた。

自分の攻撃的な思考と不平不満のすべてをついに諦め、聖霊に、私の心を光で照らして、状況を別の見方で見る方法を示してほしい、と頼むためには、ほんとうに私の持てるすべてを使わなければならなかった。
それから5分と経たずして、私はふわりと持ち上げられた!
持ち上げられただけではなく、実際のところ、もう暗闇へと戻ることはできなかった。
それどころか、なぜ自分が怒っていたのかさえ、思い出すことも、理解することもできなかった!
私は完全に「戦場を越えたところ」(T-23.IV)にいた。
私の怒りの矛先であった状況と人びとは、突如として私の心のなかで、完璧に愛情深く罪無きものとなった。
あらゆるものが、まったく異なる視点から見られていた。
それは、とてもかけがえのないものだった。

私は、癒しが私にこれほどわずかしか求めないとは、思ってもみなかった。
私がしたことと言えば、ストーリーについての私の解釈をほんのわずかなあいだ断念して、意識のなかに光を招くという選択をしただけなのだ。
それだけなのだ!
私は、真の癒しとは、異なる視点へと持ち上げられることであり、自我と闘うことではないのだ、と悟った。
このたった一度の経験が、癒しの道についての私の見方を、根本的に変えてしまった。

全人生を通して闘ってきた信念に捉えられたかのように思え、無力さを感じていた瞬間のさなかに、私は違うやり方を選んだ。
そして、このシンプルな選択をして5分と経たないうちに持ち上げられた後、私は二度とふたたび、世界をこれまでと同じように見ることはなかった。
私は自分に、すべての自我の信念、すべての解釈、すべての痛みと苦しみに打ち勝つ力があることを、自分自身に証明したのだ。
あの一度の体験が、人生の長きに渡り続いていた自我のパターンに終止符を打った。
あの一度の体験が、私が自分の心のうちに存在するとは知らなかった強さと揺るぎなさを、ふたたび目覚めさせた。
あの瞬間から、私の人生の目的が変わった。

ワークブックのレッスン194において、イエスはこう言っている。
「未来の苦痛に対するあらゆる恐れから脱した彼は、現在の平安に至る道、この世界に脅かされることのない庇護を確信する道を見出した。
彼は、自分の知覚は間違うかもしれないが、それらは必ず訂正されると確信している。
彼には、欺かれたら選び直し、間違えたら心を変える自由がある。」
私には自分の間違いについての責任はなく、訂正を受け入れることにのみ責任がある、と知るのは、なんて安心することだろう。

いまでは、痛みを癒すという感じはあまりなく、それよりもむしろ、心の内なる光にアクセスすることが目的となった。
いったん光にアクセスしたなら、歓びが溢れ出し、それ自体で広がっていこうとする。
ときとして私が自我の信念へとすべり込むことはあるが、自分で幸せを選びさえするなら、過去から来るどんなものも影響力を持たないとわかっているので、もう自分が無力だと感じることはなくなった。
選択に要する時間は一瞬だけなので、癒しにも毎回、一瞬しかかからない。
苦しみが続くのは、心が聖霊の見方を選択するのに時間をかけているあいだだけなのだ。
私は、過去を振り返ったり、原因と結果を直線的に結びつけて分析したりすることに、以前ほど興味がなくなっている自分に気づいた。線形思考は、幸せと愛はこの瞬間に手に入るという体験に対抗する、真っ向からの防衛だ。
私はまた、誰かや何かに変わってほしいと思うことも少なくなった。なぜなら、あらゆる状況において幸せを選択する力を持っているのは、自分だけだと悟ったからだ。
心が自我の思考に屈しているとき、私のただひとつの役割は、スピリットを選択し、それから、愛と光が大急ぎで私の気づきのなかへと戻ってくるのを、忍耐と確信のうちに待つことだ。

私の人間関係の目的もまた、変わった。自分自身を完全にするために、どれだけのものを得ることができるか、ということの代わりに、どれだけ与えることができるか、を土台とするようになった。
同様に、私が関わるすべてのプロジェクトの目的も、やはり変わった。何らかの結果を達成することよりも、むしろ、その場の人びととの関わりや、そのときどきの作業により、私がアクセスできる愛や繋がりに重きを置くようになった。
この世界についての疑問は、湧いてこなくなった。
形態の上での決断は、重要ではなくなった。
私の歓びに満ちた心の状態から自然に導き出されるすべての行為を、私は、確信と、愛のうちに行う。

自我は、平安を選択する心に対しては無力だ。
不平不満よりも平安を選択する意欲を強めるためには、プラクティスを要する。
けれども、私たちには、ほんとうに見込みがあるのだ。
今のところは、私たちは「御手の中で、善きことのみがもたらされるのを確信し、思い煩うことなく安らう」という真実の体験のなかで、リラックスしていよう。
「もし私たちが忘れたなら、再び優しく元気づけられる。
もし私たちが赦せない想念を受け入れても、それはすぐに愛の反映と入れ替えられる。
攻撃したくなるときは、私たちの休息を護る聖霊に助けを求め、私たちにかわって誘惑をはるか後ろに遠ざける選択をしてもらう。
私たちは世界の友でいることを選択したので、もはや世界は私たちの敵ではない。」W-194.9:2-6

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いかがでしたか?

以下のリンクは、YouTubeにある彼女の日本語字幕付き動画ですが、記事を読んだ後で見てみると、また心にふかく沁みるかもしれません。


🕊💕

(2023年4月追記)

この記事でご紹介している奇跡講座の教師、フランシス・シューが2023年6月に来日します。

ガイダンスに導かれて生きる、まさに「生きる奇跡(a living miracle)」なフランシス・シューと、ぜひご一緒に時間を過ごしてみませんか?

私もスタッフとして参加させていただきます。

詳細はこちらです。


🕊💕


🕊 聡耳屋(さとみみや) 🌿
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⭐️A Course in Miracles(奇跡講座)⭐️
をベースとした、
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