二元性な言語社会と社会的承認について

人間は多様なものですが、言語はもともと二元性が強いものであると思います。

親と子、夫と妻、既婚と独身、まぁ豚カツとカレーは比べられないし、カツカレーなんてのもあるわけですが(またメシテロを・・・orz そして前半部分の言葉選びはフェミニズム関連にかかわる事が多い影響かなぁ><)。

今日はお味噌汁に何入れようかな、白菜にしようかな、ジャガイモにしようかな、というように日常生活を送っている分には、この二元性に付き纏わられるわけでは無いのですが。

味噌汁に入っている具材(実とも言われる)が白菜(個)か/ではない(他)のか、じゃがいもに見えるが(真)/そうじゃない(偽)のか、ウィンナーはあり(正)か/なし(邪)か、七味は・・・なんてことになると途端に「味噌汁って何だよ」という二元性の世界に迷い込むことになります。

偏見(ラベリング)という言葉も、偏見が有る/無い、ラベリングをする/しない、ラベルを貼る/剥がすなど、二元的な使い方の多い言葉です。

献立考えるのも把握できてない好き嫌いがあると大変ですよね~。無難に攻めるのか、私の好きなものを押してみるのか、どれぐらい作るのかとか、とか。
いや、別に無理に一緒の時に食べなくてもいいんですけれどね。って話がそれてきてる。
え、別に惚気とかじゃないですし、わたし独身ですし。

と、本題に近づいてまいりました。


愛情という問題
「不倫」という言葉を聞いたとき、それぞれの人が受け取るイメージというのは厳密にいうとバラバラなんですよね。
 
そして、ある人について「不倫」している/していない、という行為や事態も、そう言えるのか/言えないのか、あるいは言っていいのか/言ってはならないのか、とか果てしなく二元性に付きまとわれていく予感がしてきます。

いずれにせよ「不倫」の良し悪しにせよ、善し悪しにせよ、今回はそっちの方面の話ではなくて、「不倫」かどうかという行為自体も「それは不倫だ」という社会的承認があるから「不倫」だと認められるんです。

だから私がただ「不倫だ~」って叫んでいても、それだけでは愚痴や脅迫や冗談やからかいになったとしても「不倫」だとは認められない訳ですね。

で、じゃあ「不倫」ってどういう事なのかとか、どうすれば「不倫」と言えるのかという話しになってくるわけです。あ、ちなみに不倫相談には何の役にも立たない話を続けます。

連呼してて疲れてきましたが、要するに「独身」だとか「既婚」だとか、何を前提(根拠)にして言えるのでしょうか・・・。そうです、その前提さえも社会的承認によってなのです。

じゃないと、「わたし独身なので良い人いたら紹介してください」と言っている私の言動が何の保証もない只の自称でしょって事にならないからです。
(ほんとうに募集中であります! 別に結婚とかじゃなくて良いので一人の大人として生きて行けるように応援してくださる方を募集しています)って言っているから、いつ迄も社会的承認が得られないのかもしれませんが。

最近は「独身」「既婚」だけじゃなくて、「内縁」(え、昔からあるだろうって?)だとか、「パートナー」だとか、「恋人」だとか、「止まり木」だとか色々あるそうです。
いずれにせよ、社会的承認の度合いによって「不倫」であるとかないとか評価されるのですよ。

男女の関係の中で使われる事の多い言葉ですが、「親子関係」や「保護者との関係」について述べられるときには「親不孝」とか「養育放棄」とか違う言葉で表現される事が増えています。子供の事について社会的に責任を追及されることはあっても、親が再婚する事を日本では不倫と呼ばなくなってきているのですね。

カトリック教会はその点で教会法上の婚姻を秘跡としているので、今でも死別以外での再婚は認めていなかったと思います。なので一般論でいう離婚して再婚をするためには教会法上の婚姻の無効が認められるよう求める必要が起きるのです。
また、教会法上の婚姻の無効が成立した場合でもその子供は正式な婚姻の下に生まれたものとして認められるそうです。

このようにして再婚も、既婚あるいは離婚を前提とする言葉ですが、その前提もまた社会的承認によって規定されています。社会的承認だらけですね。
そりゃ言語そのものが社会的承認によってなりたっているんですから仕方がないのですかね。


本題
はたして、ある人の事を「独身」や「既婚者」だと判断することはどの様にして可能なのでしょうか。社会的承認によってでしょうか、自称によってでしょうか、それとも他称によってでしょうか。

そしてそれも知らぬ間に変わっていたりするのに、どうして安易に信じられるというのでしょうか。「敷居を跨げば七人の敵あり」(女もそうだけれどねー)とも言いますが、ある程度のことは信頼しないと生きていくのが大変だからでしょうか。

ぶっちゃけ恋をするのに「独身」か「既婚」かなんて後から知ることもあるんですよ。
「既婚」だと知った時に「不倫」になる前に「あーあ、ついてねぇな~」とか「仕方がないな~」と踏み止まれればいいんですよ。
逆に言うと、時と場合にもよるけれど、「独身ですか」って聞く(聞いてくる)事は「結婚してくれますか(くれるんですか)」って聞く(かれる)「覚悟があって言っているんでしょうね?」って事ですよ。

と、ここまで性別二元制至上主義や恋愛至上主義や異性愛至上主義や生物学的性別至上主義や外見至上主義に則って話をしてきましたけれど(え、結局愚痴じゃないかって?いえいえ)、トランスジェンダーについてもその様に思っていただけないものかなぁという話しを、です、ね。
え、話の展開が強引すぎるって?こりゃ失敬。


終わりに
「こりゃ失敬」で思い出したんですが、普段「わたし」とか「私は」と言っているので「うち」と言ったり「俺」と言ったり「弊社では」と言ってよくからかわれました。「からかわれた」というのも、言葉で詳細までは言い表し難い事柄ですが、その時に社会的承認がなされたという事ですね。そして良い悪いは別として、この社会的承認がなされない時にどうしょうもなくなるというか、孤独になるんですよね。

だから言語化が大事なのであり、言語化が難しいのであり、私は生きる為に学ばざるを得なかったのです(「あーあ、ついてねぇな~」とか「仕方がないな~」と思う事は今でも沢山ありますけれどね)。

言語という不確かなものを介して私たちが関係しているとき、偶有性(偶然)の部分が意図的に属性化(一般化)されることによって様態(概念)として再解釈される根拠とされ、また社会的承認が「無区別による区別(「~では無いからという包摂」)」を支持することによって、使用されている区別における属性の解釈に差異が再構成される(偶有性が様態として属性に帰属されると見做される=いわゆるレッテル貼りのことね)のであれば、私たちは区別そのものに対してではなく、区別に付随する意図的な属性化や属性の再解釈、「~では無いから」という分類行為や包摂行為に時として異議があると伝える必要が生じるのです。

例えば「子の養育は親の義務である」という価値観は一般論として社会正義に適うかもしれませんが、「~では無いから」という分類行為や包摂行為(「実子ではない」「養育の範囲に入らない」「親権がない」から「義務ではない」という包摂および分類行為)によって本来の目的である「被養育者の保護」が達成されない可能性を生じさせてしまう場合があります。

味噌汁で意外な人と出会ったときには、ダブルミーニングや二重規範や包摂の点検を時々は気に掛けていただけますでしょうか。

私みたいなのがその切っ掛けになったならばと思う反面、そんな切っ掛けなど必要としない生きていける社会であってほしいと思っています。

言語は私たちの経験を他者が代弁してくださることで生じる再解釈への抵抗の側面も併せ持っているのではないかと思います。故に、自他による再解釈である性自認至上主義にもトランスジェンダリズムは抵抗できるはずです。

あの時の父の言葉は当時の父にとっての最大限の愛情であり、生きろっていう願いであり、責任の取り方だったのではないかと私は再再解釈しています。父にとっては迷惑かもしれませんが、それでも、それしかかもしれないけれど、生きてます。

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