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インドで瞑想を学んではや4年
帰国後は熱心に時間をつくって
瞑想タイムを楽しんでいたけれど
いつの間にか日々の雑務に
その時間が埋められてしまった

ここ最近また
ヨガ、瞑想にふれることが多くなり
以前よりまして
身にしみることが多くなった


わたしにとって瞑想とは
心を中庸に保つため
善・悪
良い・悪い
から開放された時空に
心を放つこと

今日の練習会は参加できなかったけれど
よい言葉に出会った
やはり言葉は言霊
わたしはこれに何度失敗したことか
その失敗が悪となり
心をぎゅっと狭くしていく
そうすると視野も狭くなって
身動きができなくなる
そうすると愛も感じにくくなって
未来が見えなくなってしまう

こんな心のもやもやは
やはり瞑想で
自分と向き合うに限るようにおもう


***おことば記録***


理解は瞑想の成果です
私たちが現実の中心に向けて
深く見ることを実践する時
私たちは助けを受けとり
理解を受け取り
私たちを自由にする知恵を受け取ります

もしあなたの中に深い痛みがあるなら
それに瞑想しなさい


瞑想は逃げようとすることではありません
痛みの存在を無視しようとすることでもありません
それとは逆に
それにしっかりと向き合うことです


仏教において
私たちは喜びであり
同時に私たちは痛みです

私たちは理解していますが
同時に無智でもあります

瞑想は
一方の側がもう一方の側と戦うような
善が悪と戦うような
戦場の中で自分を変容させることではありません

これは仏教の瞑想ではありません

仏教の瞑想は
非二元論の原則に基づいています
これは
私たちがマインドフルであるならば
(注意を払っているならば)
私たちが愛であるならば
私たちは同時に無智であり
私たちも苦しんでいるということであり
何も抑制する理由は全くないのです

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