10年前何してました?当事者意識をもてなかった私の話
10年前何してました?
私は大阪の淀川区の小学校で、図工の授業中に廊下の水道で絵の具を流してました
6年2組でした
同級生のなつ子はギャルくて、いつもやかましい子なんだけど、
その日はやけにそういうのに感強かったのかよくわからないけど、
あ、地震だ
その子の言葉がきっかけに地震が起きていることに気づきました
ちょうど私は教室を出て廊下で絵の具を水に流してて、
教室に戻ってきたら机の中に隠れてたんだっけな
わりかし、すんっと地震はおさまったので、そのまま帰ったと思う。
結構その時は他人事で、小さい地震の一つだろうと思い家に帰ってテレビをつけたら、とてつもなく他人事じゃなくて驚いてました
親戚と電話はようやくつながって、それぞれの無事を把握した
わりとうちのルーツは関東に留まってて、両家のじいちゃんばあちゃんに会いにいくのも楽だったんですね
江戸川区と墨田区。
そのじいちゃんばあちゃんの兄弟姉妹をさぐってもせいぜい茨城くらいだったわけ。
だから物が崩れたとかはあったと思うんだけど、親戚の人たちは無事だった
数日しないうちに
『東日本大震災』というワードが飛び交いました。
漢字の多さからしてもやけに力が強くて、それを横目に小学校を卒業しました
あまり地震災害に対して当事者意識を持てなかったんだけど、
延々と放送されるニュース番組で見るつもりだったテレビがすっ飛ばされたことによって、地震が大きな出来事なことをまた少し知ったかも。
子供に人気だったピラメキーノの中で、『ピラメキッド』っていう特撮の真似っこしたような小さいドラマを毎回欠かさず見てたら、最終話近くで地震が起きて、それが伸びてマジか、ってなった記憶はある。
小学校を卒業したのち、父親の仕事の関係で大阪を出て神奈川県に引っ越し、神奈川で中学生になりました。
神奈川には0歳から8歳まで住んでてその後に父親の仕事の関係で4年間大阪に引っ越したので、今回の引っ越しは大阪から神奈川に出戻りするというような感覚。
大阪で大きな被害はなかったものの、わざわざ神奈川に出戻りするということ、それは被災地に近づきに行くようなもの。それを心配してくれたのか、
神奈川に引っ越す直前に、大阪の小学校の友達である米ちゃんのママ、通称米ちゃんママが
「かいかい(小学校の時のあだ名)の家は大丈夫なん?と言って、家中の乾電池をA4の茶封筒いっぱいに詰めてたくさん送ってくれました。
2021年になって在庫を確認してみたけど、ようやくそろそろ単1電池とかが残り2本くらいなんじゃないか?ってところで、そろそろ全部なくなるかな。というところ。単3単4は使用頻度高いから自分で買い足したけど。にしても結構な量をいただいた。
10年弱でようやくなくなるくらいの量を貰ったの。そりゃとても多い量。これはありがたいことだったな。
米ちゃんママは、阪神淡路大震災を経験してる身。
その地震が起きる日の晩の米ちゃんママは、何となく頭の向きを変えて寝てみようとなったらしく、
それが幸いなのか、本棚が顔に倒れてくることを偶然防げたそう。だから頭を守れたと。
その「何となく」なシックスセンスがなければ米ちゃんと遊べることもなかったかもしれないし、こんなに引っ越しを心配してくれる米ちゃんママと出会えることもなかったのかも。
そうして、ひとまず神奈川県に帰ってきたわけです。まだ荷崩しも全然できてないダンボールまみれの家で。
私が中学に進学して、母が『中学校が参加する募金にこの1000円入れておいて!カツドンだってしばらくおうちに帰れなかったんだよ!』と千円を渡してきました。
(母の妹の旦那さんの愛称が”かつどん”なんです。たくぞーさんって愛称を2歳の私が「かつどん」と呼び間違えたのがきっかけでかつどんと呼ばれてます。面白いよね)
それに対して私は
よくわかんなーい、募金箱の場所知らないしめんどくさい
と言いました
母親はやたらに怒ってました、
でもテレビで見るだけじゃわかんなかったってば
中学にして、大きな地震で多くの人が亡くなってるという事実
家に帰れないことのしんどさ
これに関しては、終電逃すような歳になった私にもせいぜい分かるとは思ったけど、
地震で先行き不安な上に家に帰れないのは自分の想像する比にならないくらいしんどいだろう
私はその母親に怒られたということをわからぬまま、学校での募金に1000円を入れました。やってみたらなんにも手間じゃなかったかも
これを理解するのにもけっこうかかったかな。
この地震が大きな出来事だということ
当事者意識を持てなかった時間が長かったなと己をみて感じました。じわじわと恥ずかしいな、
けどそれを恥じるか、今後の学びと感じるかは自分次第かも。
ひとまず今と当時の自分を見比べてみて、この状況に対してその時の自分にできたことってなんだろうね
と感じています。
いや話は戻るけど、
そのカツドンはいつも変なことを言って場を賑わせるおじさんで、イメージ的にはさまぁ〜ずの大竹さんみたいなテキトーおじさん。
モヤさまを見るたびパッパラパーなことを言うカツドンを思い出す。
そんなカツドンが親戚の前で生気のない顔を見せるわけないと思ってたし、いやむしろ生気のない顔を見せられてたら震災の怖さをひどく感じてて学びにはなったかもしれないけど、とてつもない恐怖だったかもしれない。元気な変なおじさんとして地震の後に会えなかったらどう思ってたろうか。
10年前の今はみな何を考えてただろうか
ということはとても考えます
10年前に全力で生きたかった人のことを考えてみたり、
ふとすれ違ったり会話をする人が身内の死を伴っていること、
それでも強く今を生きている人がいること、
その人を考え、自分が気を遣ってやれることがあるのではないかということ、
あるいは気を遣わないことが逆に相手に対して気を遣うことになること
いろいろ思い浮かぶ。
当時被災地に居た人に出会う
中学を3年間満了し、高専へ進学することとなった。
高専は5年間でじっくり学べるカリキュラム。これはとてもいい進路選択になった。
高校でデザインとか美術とか3年間学ぶとしてその後大学に進学すると、大1で学ぶ内容は高校ですでに習ってて不毛な時間を過ごすことが多かったりする。初めての人に向けて授業内容がリセットされてしまうことが日本の教育の惜しいところ。中高・高大がくっついてたらいいのに。
だからその分リセットがされないで5年間デザインを伸び伸び勉強できることは幸せなことだった。
デザインを楽しんだり、課題でオールして「寝てないw」となったり、中学からやっていた吹奏楽部にも入って、おなじメンバーとじっくり音楽を作った。
高専3年になって、クラブのパーカッション(パーカッションはドラムセットをはじめ太鼓類を総まとめして言う)に後輩が入った。邦楽バンド大好きのドラムっ子。ドラムのセンスがいい。
おまけに明るくて、いつもアホやってくれるいいムードメーカーでクラブを賑わせた。
家の最寄りが一緒なので、ご飯にも今でも行ったりもする仲。
その後輩が、実は当時福島にいた子で被災して神奈川に引っ越してきたということをあとになって知った。
あまりに彼が気丈に振る舞っているのでびっくりしてた。
それを知る時、どう言う顔をしたらいいか分からなくて、
眉をぐいっっと上げて
「あ、そうなんだっ。!」というありきたりな顔をした気がする。
割と彼の周りは無事だったからこれだけ元気に振る舞えるのか、
逆にその子の福島での友人は亡くなったりもしてるんだろうか、
もしそういうことがあったのなら、明るく振る舞うことができるのはとてもすごいことだと感じた。
実際どちらであろうとも、それを知る前と今ではその子との仲は絶対変わらないし、
まあ、現に生きてくれていてこうやって仲良くできてれば、俺はなんでもいいや、そう言う面で気にかけるのやめようと思った。
ふつうに後輩として可愛がりたいよね。
君はこうやって居てくれているからどっちだっていいじゃん
地震は大きな出来事ではあったけど、それを教訓に準備をして、
出来事としては時々蓋を開けることができるようになってればいいのかな、と感じた。
わざわざ掘るべきでもないとこで掘ってもお互い疲れるし、心の隅に入れておけばとりあえずいいかな。
自分ごとでなくても、自分ごとにできなかった当時の自分の甘さはあった
これからも起きるかもしれないこういった出来事に対して、「自他共に」っていうより「自他全て、自にして」みたいな感覚でものを見ていきたいなと思う
ちょっと自分の中にある冷たくてよくないところ。
ああ、そういえば
いい曲があります
女々しくて以外にもいい曲はある。
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