見返りってなんだ

10年来の友人と話していて、
ショックを受けた。

「だって、何の見返りもないのに、
 出来ないよ?!」

彼女は、憤慨したように言って、
私は唖然とした。

彼女が「やれない」と言ったのは、
世の中を良くするために活動している、
営利団体の仕事のお手伝い。

いくら世の中を良くするためと言っても、
それをビジネスとしてやっているので、
無償というのは、確かに疑問。

私は、それに近いことを、
つまり、無償で、
常にやってきたし、現在もやっている。

自分が関われている喜びが、
そのまま報酬みたいになり、

対価をもらうことは稀であったり、
費やした時間に対するものとしては、
極めて低いと言える。

私にとっては、それが当たり前。
自分の使命に関する動きができるなら、
お金払ってでも、なスタンス。

私のそれは、
"逃げ恥"のみくりちゃんが言ってた、
"やり甲斐の搾取"
なのかもしれない。
けど、やっぱり違うか?

私のそれは、
成果はガッツリ自分にやってくるが、
成果出せないと何も返ってこない。


彼女は、手伝った時間に相当する
「見返り」を要求することが正当としていて、
それは、多分当然のことだと思うのだけれど、、、

それに唖然としちゃう私は、
「世の中のためになるのなら、
そして自分が成長できるなら、
お金もらえなくて普通」
という価値観で生きてるんだな。

友人は、正当な対価、見返りを要求しているだけなのに、
私が、友人の心の狭さを感じているのは、
事実である。

それは、私の方が心が広い!
と感じてるってことで、
友人を見下していることなんだろうか。

ただただ価値観が違うね、
と流さず流せず、
私が正しい、私は頑張っている、
と思いたいのか。

友人は、そのお手伝いをしても、
自分にとっての得を、その作業自体からは感じられないのだろうし、


一方私は、時には辛いと感じる、
現在は無償の(将来的に私が成果を出せばそうではないが)行動を、
自分の成長に繋がることと感じ、

それ自体を見返りと感じている。

つまり、
友人も私も見返りを欲しがっている。
それが
「お金」「モノ」などであるか、
「経験」「感動」などであるか、の違い。

つまり、私は、
お金払ってでも感動したいって人。
もちろん友人だってそうなんだけど、
その程度が私の方がずっと大きいってことなんだろう。

唖然としたとき、私は友人を一瞬見下したかもしれない。
今は、違いを認めたいと思っている。
私にはかけがえのない人で、
そばにいてくれると安心できて、
勇気の出る一言をくれたり、
絶対的に肯定してくれてる。

考え方が違うからこそ!
私が悩んでいる時にくれる言葉が
抜け出せる鍵になるのかもしれない。

違うからこそ、一緒にいて安心なのか。

違う人の考えを、理解できたら、
私の視野はまた広がるのだろう。

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