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「バスケの街」の好投手たち

 秋田県の北部に位置する能代市は「バスケの街」として知られています。

 例えばJR能代駅のホーム。そこで一際目を引くのはバスケットのリングです。

 人口およそ5万人のこの街とバスケットボールというスポーツを結びつけるのは「能代工業」の存在です。

 現在は能代西高校と統合され「能代科学技術高校」となった能代工業高校は、インターハイ22回、国体16回、ウインターカップ20回の優勝を誇る高校バスケの名門でした。インターハイ7連覇やスーパースター田臥勇太らを擁しての3年連続高校三冠といった伝説を打ち立て、バスケ漫画の名作『SLAM DUNK』で主人公・桜木花道たちの前に立ちはだかる最強チーム「山王工業」のモデルとしても強い印象を残しています。

 そんな能代という街について、田臥は次のように語りました。

この町だから、バスケに集中できた。ほんと、なーんにもないんです。それこそが能代のよさで、僕には合っていた。バスケに集中できる環境なんで。

 漫画を立ち読みするコンビニすらなかったという田舎町。その風土が「バスケの街」の隆盛に一役買っていました。

 そんな能代市には市営能代球場という野球場があります。両翼98m、中堅122mのこの球場の入口に、ユニフォームや写真を展示するスペースがあります。

平成28年筆者撮影

 そこに飾られているのは、プロ野球の阪急ブレーブスで通算284勝を挙げた能代市出身の山田久志にまつわる品々です。この球場は「山田久志サブマリンスタジアム」という愛称でも呼ばれています。

 高校バスケの栄光だけが全国にその名を知らしめている〈なーんにもない〉秋田の片田舎には、不思議と個性的な野球選手たち、とりわけ好投手を育んできた歴史があります。


 能代が輩出した投手の最高傑作は山田久志に違いありません。彼の最大の特徴は地元の球場にも名を残す、地面に近い位置でボールをリリースする「サブマリン投法」です。先述した通算284勝という数字はアンダースローの投手として日本プロ野球史上最多記録でもあります。

 この大投手の転機は能代高校に在学していたときの出来事でした。

 2年生の山田は三塁手としてレギュラーの座を掴み夏の県大会を迎えます。しかし、能代高校はこの大会で山田の悪送球によりサヨナラ負けしてしまうのです。

 敗戦後の山田は退部を考えるほど責任を感じていました。そんな彼に野球部の太田久監督がかけた言葉は思いもよらないものでした。

ピッチャーで悔しさを晴らしてみろ。

 後の200勝投手が誕生した瞬間です。

 投手に転向した当初の山田のフォームはサイドスローだったといいます。後にプロ入りする大沢勉とバッテリーを組みましたが、甲子園に出場することはできず、卒業後は社会人野球の富士製鐵釜石へ進みました。そこでアンダースローを会得し全国区のピッチャーへと成長することになります。


 能代高校で山田久志を指導した太田監督はもうひとり印象深い投手を育てています。その投手は右のサブマリンとして活躍した山田と対照的な、空から投げ下ろすようなサウスポーでした。

 その投手――高松直志は秋田県随一の野球強豪校・秋田商業へ進学する予定でした。高松は中学時代から本格派左腕として活躍し、陸上の短距離選手として全県大会に出場する身体能力もありました。

 この逸材を喉から手が出るほど欲したのが太田監督です。

 能代高校出身の太田監督は明治大学を卒業して東京で出版社に就職しましたが、ほどなくしてOBからの要請もあり、地元へ戻って母校の野球部監督を務めることになりました。

 当時の野球部は「とにかく弱いチームだった」といいます。そうでなくとも、県内で甲子園に出場経験があるのは秋田市の学校だけという時代でした。そこから甲子園初出場を果たすのは就任4年目の昭和38年です。26歳の太田監督は、後にプロ入りする簾内政雄投手を育て上げ、初出場で初戦突破の快挙を成し遂げました。

 しかし、それから10年以上も能代高校と太田監督は甲子園から遠ざかりました。だからこそ高松直志を逃すわけにはいかなかったのです。

君が能代高に入学すれば、2、3年生のときには必ず甲子園に行ける。

 その口説き文句は現実となりました。能代高校へ入学した高松は、2年生となった昭和52年の夏にチームを14年ぶりの甲子園へ導くのです。

 けれども大舞台で思うような投球を披露することはできませんでした。腰痛を抱えていたこともあり、初戦で群馬の高崎商業に2-10と大敗しています。

 甲子園から戻ってさらなる成長を誓う高松に太田監督がアドバイスを送りました。

もう少し足を上げてみたらどうか。

 高松はフォームの改造に着手しました。足を上げるだけではバランスが悪く、一緒に手も上げてみました。やがて完成したのは、『巨人の星』の主人公・星飛雄馬に喩えられるダイナミックなフォームでした。

 3年生となった高松は夏の県大会で39イニングを投げ62個もの三振を奪いました。具体的な球速の記録こそ残っていないものの、ボールの威力は疑いようもありません。

 再びやってきた甲子園で対戦したのは和歌山県代表の箕島高校でした。当時の箕島高校は全国屈指の名門です。前年の春に甲子園で優勝し、翌年には公立校として史上唯一の春夏連覇を成し遂げることになります。この昭和53年も春夏連続の甲子園出場でした。

 箕島を率いるのは名将・尾藤公監督です。彼は高松の速球を警戒していました。

1回に点を取れなければ、負ける。勝負は一回だけ。

 その初回。後攻の箕島の先頭打者は後に阪神へ入団する嶋田宗彦です。嶋田は外野にフライを打ち上げました。しかし、中堅手が目測を誤り捕球できません。嶋田は一気に三塁を陥れました。

 続く打者にはスクイズを警戒し四球を与えました。無死一三塁。後に巨人へ入団する強打者・石井雅博が打席に入ります。

 箕島の尾藤監督が動いたのは2ボール1ストライクの4球目でした。

彼の唯一の弱点は、立ち上がりじゃないかと。そこを突くしかない。だからいきなりスクイズだった。

 全国屈指の強豪で中軸を担うバッター。高松にとって予想外の奇策でした。

 この試合で高松の速球は箕島打線を圧倒しています。初回のスクイズ以外に得点を与えず、4回以降は一人も出塁させませんでした。初回を逃したら手をつけられないという尾藤監督の読みは正しく、だからこそいきなり奇襲を仕掛けた彼の采配が光りました。

 能代高校の打線は翌年に春夏連覇を達成する石井毅と嶋田の2年生バッテリーに完封され、高松を援護することができませんでした。結局、高松は1勝も挙げられないまま甲子園を去ることになりました。

 その後の高松は南陽工業の津田恒美らと共に高校日本代表に選ばれ、卒業後は社会人野球の電電東北でプレーしました。プロからも注目されましたが、年月と共に身体が変化すると唯一無二のフォームを保てなくなりました。野手への転向を経て26歳で引退しています。


 再び能代の地から左の好投手が甲子園に挑むのは、高松直志の快投から30年以上を経た平成の時代です。しかし、彼が投じたのは高松と異なり誰よりも遅いストレートでした。

 始まりは平成22年の夏です。この年、秋田から甲子園に進むのは秋田商業と思われていました。このチームは前年秋の東北大会を制して春の甲子園に出場しています。そこでは初戦敗退でしたが、夏の県大会は優勝候補筆頭の第一シードで、実際に決勝まで順調に勝ち進みました。

 その決勝の相手が25年ぶり2回目の甲子園を狙う能代商業でした。この大会ではノーシードながら明桜、金足農業と強豪を破り、準決勝では後にプロ入りする進藤拓也を擁する西仙北にサヨナラ勝ちと勢いがありました。

 中心にいたのは2年生エースの保坂祐樹です。

 最速でも130キロを超えるのがやっとというこのサウスポーは、丁寧に制球して、打たれながらも粘り強く試合を組み立てていました。

 秋田商業との決勝にも先発した保坂は序盤にリードを許しますが、この大会で何度もそうしてきたように打線が試合をひっくり返しました。すると援護に応えるピッチングで4失点完投勝利。四球はひとつも与えていません。

 能代商業は3年後に女子校の能代北との統合が決まっており、同時に校名も変わることになっていました。保坂はまもなく消える「能代商業」を甲子園へ導いたのです。

 しかし、この勝利は悪夢の始まりでもありました。

 夏の甲子園で対戦したのは強豪の鹿児島実業です。

 1回表、保坂が先頭打者にレフトへのヒットを打たれると、そのまま能代商業野球部は甲子園に呑まれました。

 タイムリーエラーで先制を許すと、2回には4安打を浴び、保坂は早々にノックアウトされてしまいました。もはや勢いづいた鹿児島実業を止めるすべはありません。

 2時間ほどの試合を終えたとき、スコアボードには0-15という無惨な結果が表示されていました。鹿児島実業が23安打を放った一方で能代商業はたったの3安打です。守りも6失策と乱れました。そして、この敗北により秋田県代表は13年連続で初戦敗退となりました。

 大会を終え能代商業の室内練習場に横断幕が掲げられました。そこに記されたのは全国制覇、のようなスローガンではありません。思い返すのも嫌になるような鹿児島実業戦のイニングスコアが書き込まれていたのです。

とにかく悔しかったです。そこで新チーム発足後に、すべての目標をただの一点に絞りました。「鹿児島実業を倒すこと」。それ以上でもそれ以下でもない。本当にこの一点のみですね。

 工藤明監督はリベンジに燃えました。決して鹿児島実業戦の屈辱を忘れることなく、選手を鼓舞し続けました。

 目標にした鹿児島実業はこの年の秋に明治神宮大会で準優勝を果たしました。能代商業ナインは常にそのチームを意識して練習を重ねています。その日々は2年連続の甲子園出場という快挙に結びつきました。

 保坂が3年生となった夏、能代商業は甲子園の初戦で神村学園と対戦しました。目標としていた鹿児島実業ではないものの、同じ鹿児島県代表です。

 2年連続で先発した保坂は、緊張からか試合序盤は制球に苦しみました。5回が終わって1-3とリードを許し、グラウンド整備のインターバルに入りました。

 工藤監督が発破をかけます。

悔しい思いをして、たくさん振り込んできたのに、成果を出さずに終わるのか!

 直後の6回表、能代商業は一挙4得点で逆転しました。

 援護を受けた保坂は、6回以降神村学園に得点を許しませんでした。前年に120キロ台だった球速が伸びたわけではなく、この年の甲子園出場校のエースとしては最も遅い投手だったかもしれません。かといって三振を量産する変化球を身につけたわけでもありません。

 制球、角度、そして球速で測れないキレ。鹿児島実業に負けてからの1年間、保坂はひたすら手持ちの武器を磨き続けました。ストレートに見分けがつきにくいスライダーを織り交ぜ、丹念にコーナーを突く。その投球が能代商業にとって初めての、秋田県代表にとっても14年ぶりの夏の甲子園の白星をもたらしました。

 保坂は間違いなくこの夏の主役のひとりでした。2回戦では香川県代表の英明を完封。この年巨人にドラフト1位される松本竜也に投げ勝ちました。続く3回戦で広島県代表の如水館にサヨナラ負けとなりますが、この試合も延長12回までひとりで投げぬきました。

 13年にも渡って苦杯を味わった秋田の高校野球は、平成27年夏の甲子園で成田翔を擁する秋田商業が準々決勝まで勝ち上がり、その3年後には金足農業が吉田輝星の大活躍で準優勝と旋風を巻き起こしました。さらに令和3年には明桜の風間球打が157キロを計測して福岡ソフトバンクホークスからドラフト1位指名と、県全体で急激な成長が続いています。その鏑矢となったのは120キロ台のサウスポー・保坂祐樹でした。


 保坂が躍動した夏から干支が一回りした令和5年、能代商業は「能代松陽」と名を変えて、工藤明監督の指揮で春の甲子園に乗り込みました。その中心にはやはり、能代の地で育った好投手がいます。

 身長184cm、体重81kgと体格の良い右腕。フォームも正統派のオーバースローで、速球は144キロを計測したことがあります。

 この森岡大智という投手は、サブマリンの山田久志とも、星飛雄馬の高松直志とも、低速左腕の保坂祐樹とも違う、ピッチャーらしいピッチャーです。しかし、街の歴史がそうさせるのか、彼の高校野球生活は先人たちとあらゆる部分で重なっていくことになります。

 森岡が初めて甲子園のマウンドに立ったのは、少し時間を遡って令和4年の夏でした。

 この年、能代松陽は校名が変わってから初めての甲子園出場を果たします。エースは3年生の三浦投手。彼が先発して2年生の森岡にリレーする継投で県大会を勝ち上がりました。

 甲子園では埼玉県代表の聖望学園と対戦しました。先発の三浦が4回で降板し、森岡は3点を追う5回裏から登板しました。

 初球は高めに外れる138キロのストレート。球の力はありました。しかし、先頭打者に内野安打を許すと、ツーアウトから二塁打で簡単に追加点を奪われました。

 森岡はこの試合で4イニングを投げました。豊かな将来性を示す投球ではありました。けれども激戦区の埼玉を勝ち抜いてきたチームを将来性だけで抑えることはできません。8安打を浴び5失点を喫した森岡は、早々に初めての甲子園を後にしました。

 高校2年生で味わった敗北が大きな成果に繋がる。山田、高松、保坂と能代の地でひそかに続いてきた歴史です。森岡もその系譜に連なっていきます。

 甲子園を終えてほどなく始まった秋の大会で、能代松陽は東北大会の準決勝まで勝ち進みました。森岡は福島の学法石川と戦った準々決勝で延長12回を完投し、自らサヨナラタイムリーを放つなど、八面六臂の活躍でした。

 続く春の甲子園は記念大会で東北の出場枠がひとつ増えていました。そのこともあり、能代松陽は統合前も含め初めての出場を果たします。

 リベンジの春を待つ能代の街。そこでは〈なーんにもない〉穴埋めとばかりに雪が降り続けていました。この地が野球でもサッカーでもなく屋内競技である「バスケの街」となった由縁でもあります。

 外で満足に練習できない中で、森岡はフィジカルの強化と投球フォームを完成させることに注力しました。長靴で雪上を走り、食事とウエイトトレーニングで体重を増やしました。体格が変わる中でフォームを調整し、腕の角度が上がりました。力感のないフォームから繰り出す速球は、これまで以上に指にかかってキレを増しています。

 迎えた春の甲子園初戦は21世紀枠で出場した栃木の石橋高校と対戦しました。スタンドの観客が同じ時間帯に行われたWBC準決勝に注目する異様な雰囲気の中、森岡は圧巻のピッチングを見せます。打たれたヒットは内野安打2本のみ。四球をひとつも与えない一方で、12個もの三振を奪う完封劇でした。

 次の試合は雨で予定が2日延び、初戦からちょうど1週間後となりました。対戦相手は大阪桐蔭高校。前年の春の甲子園で優勝し、代替わりを経た秋の明治神宮大会でも優勝した、現在の高校野球における最強のチームです。

1番から9番まで切れ目がない。

 森岡の大阪桐蔭打線に対する印象です。

南川くんなど全員がすばらしいバッター。

 バッテリーを組む柴田も警戒を口にします。

 それでも、森岡には対等に戦う自信がありました。

全員で向かっていけば勝てると思っている。

 果たして大阪桐蔭との一戦に先発した森岡は、初回に連続四球でピンチを背負いましたが、4番南川、5番佐藤を連続三振に封じて凌ぎました。

 ここから快投が始まります。

 決して本調子ではなく、ストレートはほとんどが130キロ台前半でした。それでも回転数の多いボールに大阪桐蔭打線は差し込まれました。さらにスライダー、チェンジアップ、カットボールと自信のある変化球を交ぜて投球を組み立てます。球速に頼らないピッチングは先輩にあたる保坂祐樹のようでもありました。

 2回9球、3回5球、4回15球、5回10球。森岡は少ない球数で次々にアウトを積み重ねました。5回まで一本もヒットを打たれていません。

 6回に初安打を許しましたが、ここでも得点は与えず、両チーム無得点のまま7回を迎えます。

 このイニングがターニングポイントでした。

 7回表、能代松陽は一死一二塁のチャンスを迎えました。ここで大阪桐蔭の西谷浩一監督が伝令を送ります。

打たれてもいいから思い切って投げろ。

 大阪桐蔭先発の南投手は、暴投でランナーを進めましたが、6番の柴田から見逃し三振を奪いました。二死二三塁。続く打者は森岡です。

 西谷監督は再び伝令を送りました。

二死で少しホッとする。同じ気持ちでと思って。

 気持ちを切らさなかった南は森岡をライトフライに打ち取り、能代松陽に先制させませんでした。

 その裏の大阪桐蔭の攻撃は、キャッチャーの柴田が名前を挙げていた南川でした。2球目のストレートを引っ張ると、打球は右中間へ伸びていきます。甲子園特有の風が吹き、フェンスとの距離感も難しい外野手泣かせのフライでした。南川は二塁を蹴って三塁まで到達しました。無死三塁。

 この試合最大のピンチでも森岡の投球は変わりません。5番の佐藤をセカンドフライに仕留め、6番の村本も1ボール2ストライクと追い込みました。

 西谷監督が動いたのは4球目でした。

リスクもあったけど、直球の可能性の高いカウントだった。

 多彩な変化球を持つ森岡を百戦錬磨の名将が上回りました。投じられたのは読み通りのストレートです。サインはスリーバントスクイズでした。打席の村本と三塁走者の南川は戸惑いつつもこの奇策を成功させました。

 森岡はわずか99球で8回裏まで投げ切り、スクイズ以外に失点することはありませんでした。被安打もたったの2本です。名門に堂々たる投球で立ちはだかった高松直志を彷彿とさせました。そして、味方打線が最後まで得点を挙げられず0-1で敗れる結果も同じでした。


 悪送球から大投手となった山田久志、大敗の翌年に星飛雄馬と称され鮮烈な記憶を残した高松直志、15点差の敗北から秋田に14年ぶりの勝利をもたらした保坂祐樹。能代の地で育った好投手たちには敗北を栄光に繋げてきた歴史があります。ほろ苦い甲子園デビューから冬を越えて快投した森岡大智もその系譜に連なる投手です。

「負けたことがある」というのがいつか大きな財産になる。

 漫画『SLAM DUNK』で能代工業をモデルとした山王工業の堂本監督がそんな言葉を残しているのは面白い偶然と言えるかもしれません。

 そんなことを考えていて、もうひとつ思い出される『SLAM DUNK』のワンシーンがあります。山王工業と戦う主人公の桜木花道。桜木は試合中に背中を負傷してしまいます。悪化すれば選手生命をも脅かしかねない怪我。それでも桜木はチームを率いる安西監督に出場を直訴します。

オヤジの栄光時代はいつだよ…全日本のときか?オレは………オレは今なんだよ!!

 負けが財産になるというのは、その経験を糧に輝く瞬間があるからに他なりません。そして、その瞬間が永遠であるならば、〈栄光時代〉という言葉で括る必要はありません。

 桜木は痛みに耐えて奮戦し、ついには山王工業を降しました。しかし、次の試合で〈ウソのようにボロ負け〉して全国大会を終えています。物語はその直後に〈栄光時代〉の代償となるリハビリ生活を描いて幕を閉じます。復活を強く予感させつつも、桜木が再び輝く瞬間は描かれません。

 現実で58回も全国制覇を果たした能代工業にしても、盛者必衰の理から逃れられませんでした。全国大会で優勝したのは秋田で開催された国体が最後となり、既に15年もの月日が流れています。留学生擁する私立高校の台頭で名門のブランドは薄れ、少子化による統合でその校名も失いました。秋田ノーザンハピネッツというプロバスケットボールチームの存在もあり、県民のバスケに対する熱量は依然として大きいものがありますが、能代が「バスケの街」として放つ輝きは、かつての時代と同質とは言えません。

 地方では人口減少が進み、不可逆的な衰退が続いています。能代のような〈なーんにもない〉街にあっても、歴史の中では人々の誇りが土地を輝かせ、目に見えない豊かさを湛えた瞬間がありました。そうしたものが流れ去り、物質的な不足に留まらず精神的にも何かを手放しつつあります。

 甲子園で戦い終えた森岡大智が帰るのは、そういう能代の地です。

 石橋高校を完封し、大阪桐蔭に苦肉のスクイズしか許さなかった森岡は〈栄光時代〉を迎えられたでしょうか。迎えた、と言って間違いではないはずです。夏に思うような活躍ができなかったとしても、この春に輝いていたことは否定されない事実です。

 それでもやはり、森岡は偉大な先人たちすらも掴めなかったまばゆさを求めています。

夏は家族にもっと活躍する姿を見せたい。すべての試合で完封して日本一を目指す。

 この力強さに夏の〈秋田県代表〉として再びの輝きと敗北という財産の価値の証明を託したい気がします。


 最後に書きたいのは森岡の先輩でもある保坂祐樹のその後です。保坂は夏の甲子園で2勝を挙げて秋田へ帰ると、県民から英雄として歓迎されました。

頑張って良かった。社会人になったら、秋田に恩返しするために働こうと強く思う瞬間でした。

 能代商業を卒業した保坂は、中央大学を経て、現在は秋田県職員として勤務しています。

 〈栄光時代〉は永遠ではありません。それでも、その輝きは朽ちていく過去に留まらず未来を照射し、次の時代へ受け継がれています。

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