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「どこか不運」な大エース オリックス7位小木田投手の物語

 物語から何かを学ぶことがあります。

 例えば「オオカミ少年」にまつわる物語は多くの人がご存知だと思います。羊飼いの少年が「狼が来たぞ」と嘘をついていたら本当に狼が来た時に信じてもらえなかった話です。あの物語は他者からの信用や評価についての学びを与えてくれます。

 それでいて学びに満ちた物語の本質は虚構です。というより実存が重要視されません。嘘をつく羊飼いの少年が本当にいたかどうかは読者が得る学びに影響を与えないのです。人間は現実か想像か曖昧な、本来自分とそれほど関係の無いエピソードを自分のものとして取り込めるようにできています。

 そういう意味でスポーツは物語に似ています。自分の世界の外にいる誰かの肉体が躍動するのを手に汗握って見守り、時に声援を送り、贔屓の選手やチームが結果を出せなければフラストレーションを溜めてしまうこともある。他人事でただの趣味に過ぎないのに、スポーツには見る者の生活の一部となってしまうような力があります。

 プロ野球というスポーツにおいてその物語の登場人物を選ぶのは、毎年秋に開催されるドラフト会議です。1965年の第1回以来歴史を積み重ねてきたこの会議はそれ自体が物語としての側面を持っています。

 今回書いていくのもそういうドラフトにまつわる物語です。これまでの歴史の中で存在感を発する数々の伝説めいたストーリーに比べたら地味な話かもしれませんが、なんだか自分の一部のように感じられるために残しておこうと思うのです。




 10月10日の石巻市民球場では都市対抗予選の東北2次予選が行われていました。試合をしているのは秋田県にかほ市のTDKと山形県山形市のきらやか銀行。勝った方が本戦出場を決める第2代表決定戦です。

 この試合に小木田敦也投手が登板したのは8回表にきらやか銀行が一死二塁のチャンスを迎えた場面でした。試合は1-0でTDKがリード。両チームの投手が譲らない接戦です。

 小木田投手はこの場面できらやか銀行の下位打線を外野フライふたつに打ち取りピンチを脱します。TDKが2年連続の都市対抗本戦出場に近づきました。そしてこのピッチングは小木田投手を別の何かに近づけるものであったかもしれないし、そうでなかったかもしれません。つまり、この試合の翌日がドラフト会議であり、小木田投手はそこで指名されるかどうか瀬戸際の選手だったのです。

 前年とそのさらに前年も小木田投手はドラフトの指名候補でした。しかし、そのどちらでも彼の名前は呼ばれていません。この試合は三度目の正直となるかどうかを決める最後の試練となりうるものでしたが、ひょっとするとこの試合の結果はドラフト会議にいかなる影響も与えないものだったかもしれません。評価とは地道な積み重ねの結果であり、一度積み上がれば簡単に崩れないことは「オオカミ少年」の教訓でもあります。

 8回裏、TDKは二死から四球でランナーを出しましたが、後続が三振に倒れ無得点に終わりました。わずか1点差の最終回のマウンドへ小木田投手が向かっていきます。彼が対峙しようとしていたのはきらやか銀行打線であったと同時に、どこか不運な過去の彼自身だったのではないかという気もします。




 僕が小木田投手を「どこか不運」と思うのは、地元秋田県の野球選手として多少は彼が歩んできた人生を知っているからです。小木田投手は秋田県の県南にある桜並木と武家屋敷が印象的な角館で育ちました。角館小と角館中で軟式野球をプレーし、高校も角館高に進学します。

 角館高は普通の公立校――もっとも秋田県の高校は殆どが普通の公立校なのですが、例えば秋田商業や金足農業のように野球で目立つ学校ではありませんでした。小木田投手が入学するまで野球部は83年の歴史を積み重ねていましたが、春夏通じて甲子園には未出場です。

 しかし、彼が入学した年の角館高校は夏の甲子園を狙えるチームでした。3年生エースの相馬投手がなかなかの好投手だったのです。事実、この相馬投手は前年も2年生ながらエースとしてチームを引っ張り、夏の甲子園まであと1勝というところに迫っています。最後は延長15回サヨナラ負けを喫したことで相馬投手にも「どこか不運」な印象が残るのですが、小木田投手はこの大黒柱を擁するチームの中で三塁手としてプレーすることになりました。

 1年生ながらレギュラーの座を掴んだ小木田投手――この時は小木田内野手は、夏の秋田県大会で打率.369と活躍。期待に応えた相馬投手らの活躍もあり、チームは創部84年目にして初の甲子園出場を決めました。その甲子園は初戦で敗れ小木田選手も4打数無安打に終わるのですが、ここまではむしろ幸運に恵まれたと言えます。

 しかし、相馬投手が抜けて以降チームは結果を残せなくなりました。2年夏から3年春までは3季連続で県大会の初戦で敗退。小木田投手自身はストレートが140キロを超えるようになりプロからも注目される選手となるのですが、3年春の大会ではプロ野球チームのスカウトが見守る中で打ち込まれてしまいました。

 それでもこの時の小木田投手はまだ幸運を誇っていたと言えます。迎えた最後の夏、秋田県大会に絶対的な優勝候補はいませんでした。

 3年前に相馬投手擁する角館を破り、前年には夏の甲子園ベスト8まで進出した秋田商業は、ドラフトで千葉ロッテに指名された成田翔投手が卒業して絶対的エースが不在。金足農業は吉田輝星投手、明桜は山口航輝投手と後にプロ入りする有望な1年生を擁していましたが、まだ他のチームより頭一つ抜けたと言えない時期でした。実力が拮抗し群雄割拠の様相を呈する大会の中で、プロ注目のエースを擁する角館高にはノーシードとはいえ勝ち進む素養があったのです。

 初戦で西仙北を破ると、2回戦では小木田投手が前年準優勝の秋田南を相手に1失点完投勝利。続く3回戦では第2シードの明桜と対戦し、ここでも延長11回を3失点で投げ切り勝利を収めました。

 そして次の準々決勝がこの大会のハイライトとなります。

 能代松陽戦に先発した小木田投手は、ストレートが自己最速の147キロを計測するなどピッチングが冴えていました。対戦した打者30人を相手に9奪三振1四球無失点。被安打0のノーヒットノーランでした。

 このノーヒットノーランは秋田県大会では10年ぶりの大記録で、達成者は小木田投手が10人目でした。そして小木田投手の生年月日は平成10年10月10日。どこか因縁めいていて物語的に誰かに語りたくなるような出来事でしたが、野球は9人の選手がグラウンドに立って9イニングを戦う「9」にまつわるスポーツです。何かがひとつ余ってこぼれるような大記録を彼が陥った「どこか不運」の端緒だったとするのはこじつけですが、彼はここでひとつのピークを迎えてやや下降傾向を見せるようになるのです。

 角館高は準決勝で能代工業を破り2年ぶりに夏の秋田県大会決勝に進出しました。決勝の相手は大曲工業。センバツの出場経験はありますが、夏の甲子園に出場したことは無いチームです。

 この年の大曲工業は準決勝まで4試合のスコアが3-1、3-1、5-3、2-0と投手力で勝ち上がっています。対照的に打線は低調。好投手擁するチームと多く対戦していたこともありますが、小木田投手を打ち崩す想像がしやすいチームではありませんでした。

 実際に決勝戦で6試合連続の先発マウンドとなった小木田投手は5回まで1失点の好投。戦前の予想通り2年ぶりの甲子園に手が届きかけました。

 不運が彼を襲ったのは6回です。大曲工業の1番打者が放った打球が小木田投手の右ふくらはぎに直撃しました。彼はここから投球を支える軸足の踏ん張りを失うことになります。

 夏の大会をほぼひとりで投げ抜いてきた小木田投手は心身共に疲弊しています。そこに重なるように発生したアクシデント。大曲工業打線は低調でしたが、手負いで抑えられるほど甘くもありません。8回裏、小木田投手は集中打を浴びて1イニング5失点を喫しました。大曲工業が大逆転でドラマティックに夏の甲子園初出場を決めた裏で、小木田投手の高校野球はひっそり幕を閉じました。




 結果として大曲工業が勝ったことはとにかく大曲工業が凄い。それは大前提として、もし、と思う自分がいます。もし、あのとき打球が小木田投手に当たらなかったなら。そう思うのはやはり、小木田投手が「どこか不運」であると感じるが故のことです。

 単に打球が直撃して試合に負けただけならそれは一度の不運に過ぎません。しかし、それで甲子園という大舞台で投球する機会を失ったなら、後の人生に影響するような「どこか不運」というレッテルを貼り付けてしまうほどの出来事です。それだけ甲子園球場で行われる大会が持つ力は大きい。あの大会はスポーツが作り出す物語の中でも最大級のものです。

 大曲工業が角館を破る1年前、秋田県大会決勝で秋田南を破り夏の甲子園に出場したのは秋田商業でした。この大会では角館を破り出場して以来2度目の甲子園登板となったエース左腕の成田翔投手が躍動。龍谷と健大高崎を破って学校として80年ぶりのベスト8に進出すると、大会後には日本代表にも選ばれ飛躍の機会となりました。

 元々成田投手は卒業後の進路に社会人野球を志望していましたが、甲子園出場を通してトップレベルを経験したことで方針転換。その年のドラフト3位で千葉ロッテに指名され入団しています。

 小木田投手より2学年下の金足農業・吉田輝星投手も卒業後は大学進学の予定でしたが、3年夏に「金農旋風」を巻き起こし甲子園で準優勝したことから運命が変わります。ギリギリまで進路が注目された末にプロ志望届を提出し、日本ハムにドラフト1位で指名されました。

 また、角館を破った大曲工業には小木田投手より1学年下の藤井黎來投手が在籍していました。藤井投手は夏の甲子園で初戦の花咲徳栄戦に先発。ドラフト上位候補の高橋昂也投手擁する強豪に敗れはしましたが堂々たるピッチングで注目を集めると、翌年夏の秋田県大会では小木田投手に続くノーヒットノーランを達成。その年のドラフトで広島に育成2位で指名され、後に支配下登録を勝ち取っています。

 もし、あのとき。小木田投手が甲子園のマウンドで投げられていたのなら。その先に続く運命は2度の指名漏れを経験した現実とは違うものだったはずです。




 ドラフト前日の試合。小木田投手はあとアウト3つで都市対抗本戦出場という状況を迎えていました。

 実はこの前日も小木田投手はマウンドに上がっています。これまた勝った方が都市対抗本戦出場の第1代表決定戦。小木田投手擁するTDKは宮城県仙台市のJR東日本東北と対戦しました。

 前年の第1代表決定戦も同じ顔合わせで、この時は小木田投手が延長12回を完封。チームを7年ぶりの本戦出場に導いています。TDKはその再現とばかりに小木田投手が先発しますが、雪辱を狙うJR東日本東北打線に捕まり5回4失点と打たれてしまいました。

 最終回のマウンドできらやか銀行打線に挑む小木田投手が好投すれば、一部の人々は翌日のドラフトに期待するでしょう。けれどもこの1試合で評価を上げられると言うなら、前日の試合もまた小木田投手の評価に大きな影響を与えることになります。何より小木田投手は、前年にJR東日本東北を相手に圧倒的なピッチングを見せてもドラフトで指名されませんでした。もうどんな結果を残しても指名されないのではないか?あのとき打球が直撃して甲子園出場を逃した試合でプロ野球の世界へ続く糸は切れてしまったのではないか?小木田投手自身はそんなことよりチームの勝敗に集中していたかもしれませんが、僕はドラフト前日の試合に対してそんなことを考えていました。

 あの決勝戦から5年以上の年月が流れています。人間が変わるには十分な期間です。それでも僕は彼のことをあのとき同様に「どこか不運」と思っています。彼があの試合の後もずっと「どこか不運」であり続けたからです。




 小木田投手は高校卒業時にプロ志望届を提出せず、生まれ育った県南に一大拠点を有するTDKに入社しました。大手の電気機器製造メーカーであるこの企業の野球部は、2006年の都市対抗野球で秋田県勢のみならず東北勢として初めての全国制覇を達成しています。

 そのチームで小木田投手は1年目から公式戦に登板しました。2年目には七十七銀行の補強選手として都市対抗本戦に出場し、初の全国大会も経験しています。その舞台では最速150キロを計測するなどさらに注目度を高めました。

 ドラフト指名が解禁される3年目に期待が高まりましたが、この頃の彼は右肩の違和感に苦しみました。スポーツ選手にとって故障は自らの努力で防げる部分もあるでしょうが、常人の限界を超えて出力を上げようとする以上ある程度の確率で発生してしまうものでもあります。この点でも小木田投手は不運でした。さらに言えば、彼は身長174cmとプロ入りする右投手として考えるには小柄です。立派なエンジンに対してボディが小さければ故障のリスクは高まります。生まれ持ったフィジカルもまた不運のひとつでした。

 結局3年目のシーズンに最初の指名漏れを経験した小木田投手ですが、彼は次の年を見据えました。高卒で入社した彼は4年目のシーズンならその年の大学4年生と同世代になります。年齢のハンデが無い以上、実力で大学生より上であることを証明すれば指名されるのです。

 しかしながらここでも小木田投手は「どこか不運」な性質を発揮します。新型コロナウイルスの拡大で実戦の機会が次々と失われていったのです。コロナ禍は全ての野球選手にとって平等な不運でしたが、小木田投手の場合は前年の指名漏れに至った経緯があります。一度故障した右肩が万全であることを示さなければ、体格にも恵まれずリスクを抱えた彼を指名する球団は現れません。評価を覆すだけの結果が求められましたが、結果を出す機会も満足に与えられませんでした。前述の通り秋の都市対抗予選では素晴らしい投球を披露していますが、その時期になればどの球団もドラフトの戦略を固めてしまっています。小木田投手のピッチングは、どれほど切迫した声を上げようとも聞き入れてもらえなかった羊飼いの叫びのようでもありました。




「前日までの自信が、『俺は、ないかな』に変わった」

 4年目のシーズンに2度目の指名漏れをした小木田投手はドラフトで1位指名される選手の名前を見てそんな風に悟ったと言います。

 上の記事でも取り上げられていますが、この年のドラフトでは東北公益文科大学の赤上優人投手が埼玉西武から育成1位指名を受けました。赤上投手は角館高校出身。高校時代は同学年の小木田投手が投げる後ろでショートを守っていました。

 彼もまた小木田投手とさほど変わらない身長ですが、大学ではアメリカ育ちの横田謙人監督の下で投手に転向し急成長。社会人野球でプレーする小木田投手では指名されることの無い育成ドラフトで大学初のNPB所属選手となりました。

 TDKは素晴らしいチームであり、そのチームを選んだ小木田投手の選択が間違いなどと言う権利は誰にもありません。それでもかつてのチームメイトだった赤上投手に先を越されたことは、彼の「どこか不運」な逸話のひとつであるように感じてしまいます。あのとき、打球がぶつかったことであらゆる歯車が噛み合わなくなってしまったような、そんな印象を拭えないのです。

 ドラフト後に迎えた都市対抗本戦も目立ったのは小木田投手以上にチームメイトの鈴木大貴投手でした。流通経済大から入社1年目のルーキーながら日本新薬との初戦で先発を任せられると、ストレートが最速154キロを計測し6回2失点の好投。打線が相手投手陣を捉えきれず初戦敗退となりましたが、182cmの体躯と独特のフォームから投げ込む力強い速球でインパクトを残しました。

 鈴木投手のドラフト指名が解禁される今年、僕はかつてのチームメイトの次は後から入ってきたチームメイトに先を越されるのではないかという不安を感じずにいられませんでした。鈴木投手はきらやか銀行との第2代表決定戦でも先発し、8回の先頭打者に左前打を許すまでノーヒットピッチングを続ける圧巻の内容。今年の彼はあまり調子が上がらずドラフト候補としての注目度は落ちていましたが、この試合でスカウトの印象をひっくり返すと言うならそれは小木田投手以上に鈴木投手のように思えました。

 その鈴木投手からマウンドを引き継ぎ、小木田投手が最終回のマウンドに上がっています。きらやか銀行のラストバッターから始まる攻撃をセカンドゴロとセンターフライに抑えてツーアウトを取りました。最後のバッターも追い込んでいます。

 決め球に選択したのは最速153キロを誇る最大の武器・ストレートでした。相手打者がスイングします。バットに当たりました。けれども打球は飛びません。ファウルチップが同学年の奥村幸太捕手のミットに吸い込まれました。空振り三振。TDKが2年連続16回目の都市対抗本戦出場を決めました。ドラフト前日の10月10日。23歳の誕生日を迎えた小木田投手にとって最高のプレゼントでした。





 翌日のドラフト会議で小木田投手はオリックスから7位指名を受けました。苦しみながらも真っ直ぐに積み上げてきた多くのものが結実したのです。

 奇しくもオリックスの中嶋聡監督は秋田県出身です。この縁が指名に影響したかどうかわかりませんが、どこかささやかな幸運を感じるような指名であったと思います。

 「どこか不運」な野球選手が諦めずに努力を続け、最後には幸せを掴んだ。小木田投手の物語をそんな風に、ドラフトを着地点としたハッピーエンドとしても良いかもしれません。しかし、ドラフトはプロ野球人生の始まりです。小木田投手はここから新たな物語を紡いでいくことができるし、それを果たすことがプロ野球選手としての成功を意味します。

 その物語がどんな展開を見せ、何を学びうるものとなるのか今は全くわかりませんが、僕はそれを受け取った時にこれまでの「どこか不運」な彼を思い出すでしょう。そうすることで不幸でもいつか報われるとかそこまで考えたいわけではなくて、ただ彼を勝手に心配し続けてドラフト指名を知って密かにガッツポーズした自分がいたと思い出せることに価値があるように思えるのです。

 スポーツや物語の魅力はそういうところにある気がします。

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