「そこにあるのが当たり前」にならない愛がいい。



私は、心の中に
愛する気持ちを感じることは
とても素敵で
人生に欠かせないものだと思っています。


だから私は、
自分がどんなふうに異性を愛し、
愛されたいんだろう?
そんなことをいつも考えてしまいます。

結婚って、
あなたを一生愛し続けます
という約束であり、契約なんだと、
若い頃は思っていました。
そして、それは当たり前のように
一生続くのだと思ってたんです。

だから、
そういう覚悟を持てる相手と出会い、
一生ずっと愛し合いながら
生きていくなんて、
なんて素敵で幸せなんだろうって、
漠然とした憧れがあったのです。

でも、実際結婚して
15年の月日を経た今になり、
ようやくわかりました。

愛し合う気持ちを維持して行くのは
実は、ものすごく
難しいことなのだと。

私が生きてる限り、
ずっとあなたが生活に困らぬよう
面倒をみますとか、
経済的に支えますとか、


そういう約束は、
理性でコントロールできるので、
覚悟さえすれば、守りやすいものです。

それはそれで、大変ですけどね。

ただ、気持ちの深いところを
相手に明け渡さなくても
その約束は果たせるものだと
思うんです。

でも、一生あなたを愛します。
あなたに私のカラダを捧げ続けます。



は、約束なんてできない。



なぜなら、
自分の内面の奥深くに
生まれる感情の問題に
なってしまうから。


「あなたが、私に、そうしたいと
思わせ続けてくれるなら」
という条件がついてしまうんです。

カラダを捧げることは
行為の一つだけれど
そこに至るまでの行動が、

経済的に養うとか、
身の回りの世話をするといった行動とは

全く異なるものだと思うのです。


何が違うのか。

それは心と深くつながっているところ。

少なくとも私にとっては、
そういう大きな違いがあります。

心とカラダと、
あなたと密接につながりたい。
つながってみたい。
そういう欲求を抱けて初めて
自分は相手にカラダを開くことが
できます。

これは、相手のことを
知りつくしているかどうかとか、
将来に渡る約束や信頼があるかとかとは
あまり関係なくて、

その人と直接関わる時の
その瞬間瞬間が、
心地よくて、安心できて
でも、程よく刺激的で。

そんな心のやり取りが
積み重ねられているかどうか
にかかってくるような
気がするのです。

私は、異性を愛することとは、

相手に関心を持ち、
相手を尊重し、
相手を求め、
相手の心を喜ばせてあげたいと思う。


そういう意識が自然と生まれてくること
なのだと思います。

そして、
そういう気持ちが互いに
相手に対して向けられた時、
互いの相性が合っていれば、
心地よくて、安心できて
でも、程よく刺激的な
心のやり取りも
自然と生まれてくるのではないかと
思うのです。

もちろん私は
好きな人に対して

関心を持つし、
尊重しようと思うし、
求めるし、
心を喜ばせてあげたいと

思います。

それは、私にとっては
当たり前のことで、
その気持ちに基づいて行動します。
自分はその点、あまり駆け引き的なことは
しない人間だと思っています。

そして、逆もまた
そうであって欲しいと
願うのです。

それが、子どもへの愛と違うところ。
一方通行の愛では
維持できないんです。

私、
そういう可能性のある人と
やり取りを重ねると、
なんとなく、相手が
自分に対してどのような
気持ちを持っているのか
感じ取れる気がします。

だから、ちゃんと
相手の中に、自分への気持ちを
感じ続けられていれば
私もずっと愛し続けられる自信があります。
自信がありました。


でも、夫からは
そういう意識を感じ続けられなかった。


結婚し、ともに暮らせば
互いに素を晒し合うわけですから、
相手の無防備な面も知り尽くします。

合わないところも
否が応でも目に入ってくる。
それも含めて
受け止め合うのが
結婚なのかもしれません。

でも、
受け止められないこともある。


夫から興味も持たれなければ、
関心も持たれない、
求められることもない。

互いに興味関心の向く先は
全然別方向で、もはや2人とも
合わせたいとすら思わなくなり、
相手の堕落した雰囲気に
魅力のカケラも感じなくなる。

そんな中で、相手が、
自分の中で安易に勝手に決めた
これをすれば喜ぶだろう的な
ご機嫌取りをしたり、
自分の頭で考えずに、
何でもかんでも
イエスと言い、
自分に迎合してきたりしても、

結局、本当の意味では
なにも私を見ていないのね。
という失望しか感じられなく
なるのです。

夫は私の醸し出す雰囲気を感じて
それをなんとなく好きだと思い、
そんな私と整える我が家という
平穏な環境に安住し、私と一緒にいる。
ただそれだけで
満足だったんじゃないかなと思います。


だから、セックスレスの期間が
長く続いても、
私が何を考えているのか
わからなくても、
私の心の奥深くの思いなんてものに
触れるのもなんか怖いし…
日常が平穏に回るならそれでいっか。
妻なんだから、きっとずっと
自分のことは好きでいてくれるんだろう。
そんな認識だったのだろうと思います。

そうやって、
互いの本心を確認し合わないまま、
生まれた心のモヤモヤを
解消しないまま
月日が経ってしまった結果、

いつしか、
心地よくて安心した心のやり取りって
なんだっけ?
そもそも、
自分をさらけ出し夫と
心を通わすって
どういう感覚だったっけ?っと
夫と親密であるという感覚自体を
失ってしまったのです。


でも、ともに生活している現実、
ともに子育てしている現実の中で、
果たさなければならない義務がある。

大切にすべき子ども、
守るべき環境がある。

だから、そのまま心を閉じて、
目の前の共同生活を
波風立てずに維持するための
タスク処理のみに
集中することになる。


心のやり取りがなくなることの
きっと、カラクリはそういうことでした。

最初は相手にモヤモヤを
伝えるんです。
でも、気付かれない、
理解してもらえない。
そんな経験を重ねるうちに
諦めるんです。

相手はそうやって、
心が閉じられたことを
気付かないまま、
こちらが相手を思う気持ちは
まだまだそこにあると
思い込んだまま、
愛されている幻想を胸に抱き
そのままの自分でいいと
甘え続けている。


こちらは結婚相手に
負っている協力義務を遂行しているだけ。
それを愛と勘違いしている。


結婚して、
失うことはないだろうと安心しきって、
片側の好意に基づく配慮や労力
といった行動を、
当たり前のものと捉え、
享受するばかりで、
相手が何を欲してるのかに
目を向けず、
自分のありのままを
受け入れてくれるだろうと
怠惰な自分を晒し続けると、
こうなってしまう。


愛しさを刺激するやり取りを
怠ってしまえば、
気持ちは維持できなくなって
いくのです。

私は長年、夫のありのままを
受け止めなければならない。


そういう、愛の呪縛に囚われて、
いろんなことを見ないことに
していましたが、
違和感が降り積もるほど
それに反比例して
愛しさが徐々に徐々に擦り減り、
そして、ふと気づいた時には
もうそこに愛はありませんでした。

結局、結婚したからと
そういう契約だからと
頭でいくら思っていても
気持ちはコントロールできる
わけがないのです。


私が夫を愛し続けられるかは
夫次第でしかなかったのです。

逆に、
夫が私を愛し続けられるかどうかも
私の出方次第、でしかないんです。

だから、
愛されたいと思う方は、
相手から愛されているうちに
相手の心に響く愛し方をしようと
努力するしかない。
努力し続けるしかないんです。
ずーっと。


お互い、そうやって
愛する努力を続けて、
常にその方向性が
合っているのか、
心で確認し合っていれば、
愛はずっと続くのでしょうね。

結婚してもずっと相思相愛で
いられる人たちはきっと
その努力を努力とも思わずに
できるようになっているのでしょうね。


どうやったら
相手が心地よくいられるか。
どうやったら
自分の愛を感じ、
幸福感や安心感で満たされるのか。


相手との会話や、
相手の醸し出す空気から
相手の求めるものを感じ取り
与えてあげる。

そんな努力を
愛されたい側は
する必要があると思うのです。

努力を怠っても、
愛され続けるかもしれない。
努力をしたつもりでも
相手を失うかもしれない。


自分の空回りの努力では
意味がないのです。
相手が自分にどういう努力を
求めているのか、
それを察することが
できるかどうかも
相性の一種だと思います。

相手が心地よく受け取れるものを察して、与える。
相性がいい相手なら、
そこは努力など必要ないのかもしれません。

ただただ、相手に
心を向け続けること。
愛し合いたいなら
それは必須だと思うのです。

私は、
ちゃんと相手に心を向け続ける
愛がいい。

当たり前にそこにあることに
甘えないし、甘えられたくもない。

心が向き合わなくなったら
さようならになる。

それを自覚できる人と、
互いに未来を約束で縛りつけず、


今、相手と過ごす
その一瞬一瞬を
かけがえない大切なものと 
感じながら過ごす。

そんな愛を求めているんだなと 
思うのです。


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